第21話 妹がいてくれたら

 集中できない。

 すぐにさっきのことを考えてしまう。

 いや、さっきからではない。昨日からそうだった。

 桃子ももこさんに、あいの妹が受験に来るので、愛が寮に部屋を取った、ということをきいた。

 ほんとうならば規則違反だ。

 けれども、それは愛が好んでやった規則違反ではないだろう。愛は自分の勝手で規則違反をしたりはしない。

 たぶん、その妹にせがまれたか。

 ……それとも、家族に、たぶん母親に言われたからだ。

 桃子さんにその話を聞いて、部屋を取れたことを愛に伝えに行った。そのとき、樹理じゅりは、愛に

「ねえ、晩ご飯、まだでしょ?」

と言い、

「久しぶりにカーサヴェルデに行って、いっしょに晩ご飯食べない?」

とさそうつもりでいた。

 カーサヴェルデというのは、寮から畑をはさんで斜め横にあるパスタハウスだ。愛も休日にはときどきここに食べに行っているのを知っている。それほどおいしくもないが、安くてそこそこ量がある。

 でも、愛に

「うん。あ、知らせに来てくれてありがとう」

と言われると、そのあと「ところでさ、晩ご飯まだでしょ?」とつづけることが、樹理にはできなかった。逃げるように自分から部屋に戻ってしまった。

 そのカーディガンにほんのりとりんごの香りが残っている。愛がまたいつものアップルティーを入れていたのだろう。

 樹理は、いまカーサヴェルデに行ってほかの寮生がいたら、と思うと、それも億劫おっくうになって、駅の向こうのコンビニまで行って弁当を買ってきた。温めてもらった弁当が帰ってくるまでのあいだに冷めていて、よけいにみじめな気分だった。

 いや、そんなことを考えないで、問題を解くのに集中しよう。

 「弟じゃなくて、妹がいてくれたら」

 樹理はときどき思う。

 弟とはまったく趣味が合わなかった。

 弟は体育の成績だけ突出してよくて、座って勉強する科目は五段階式で「4」が一つか二つあるくらいだった。成績はよくないくせに学校では人気者で、小学校六年生のキャンプではキャンプ委員長になり、立派に務めた。テレビではヒーローものが大好きで、ストーリーに矛盾や納得のいかないところがあっても気にしない。そういう矛盾があるとすなおに楽しめなくなる樹理とは正反対だ。親もどうやらその弟のほうと気が合うらしい。

 「愛には、妹がいるんだ……」

 うらやましいと思う。

 不公平だとも思う。

 会えるなら、会ってみたいと思う。

 どんな子なのだろう?

 愛からあの鈍くささを抜いたような子なのか、それとも……?

 ……だめだ。どうしても考えが数学の問題から離れて行ってしまう。

 こういうとき、樹理は気分転換などしない。ほんとうに気分を転換して別のことをやりたいならばそうするけれど、いまやっていることに集中するために別のことをやったりはしない。そんなことをすればけっきょくは時間がむだになる。効率が上がらなくてもいまやっていることに集中しようとする。気が散ってしまっても、別のことを考えていると気づいたら、やらないといけないことに注意を向け直す。そうやっていれば、時間が経つにつれて、やらなければならないことに集中できるようになる。

 部屋の空気がこもっていると感じた。

 樹理はカーテンを開き、窓も開けた。

 いきなり寒い空気が部屋に流れこんできた。外は樹理が想像したよりずっと寒かったのだ。

 さっき、廊下で愛に会ったとき、寮の外で雪かきをするというだけでどうしてこんなに重装備なんだろうと思った。

 でも、たしかにこの空気のなかに出て行くならば、あれぐらいの服は必要だ。

 すぐに窓を閉めようかと思ったけれど、そうすると自分から気を散らしてしまうことになる。一問でも解いて手応えを得てから窓を閉めようと思った。

 ところが、この問題が難しかった。

 いくつも前に習ったことを思い出しながら解いていかなければいけない。前のページを見直せばかんたんなのだが、それはしたくなかった。自分の力で思い出しながら最後まで解きたい。

 いつもの癖で、シャープペンシルを顔の斜め前に持ってきて、考え、次に何を書けばいいかを思いつくと、シャープペンシルをとんと落として書き、しばらく書き進む。何度かそうやって考えを立ち止まらせて考えたら、先に進むことができた。答えは出た。

 ところで、この問題を解き始めてから、外で何かがちらちらする感じがしていた。

 庭にだれかが入ってきたのだろうか。

 そんなことはないはずだ。

 この庭にはだれも入れないように門を閉めてある。門は内側からしか開けられない。

 そうではなかった。

 雪が舞っていた。

 朝になってだいぶ経ったのに外は暗い。この部屋の明かりがその雪に反射して、ちらっ、ちらっと明るく見えるのだ。

 雪が部屋の明かりを反射する。あたりまえのことだ。

 樹理は何か小さな発見をしたような気になった。ふだんはそんなことを思ったりはしないのに。立ち上がって、窓際から空を見上げ、その雪に手をかざしてみる。

 でも、雪が降るのをいつまでも見ていたいとは思わない。

 窓を閉め、カーテンも閉めて、樹理は椅子に戻って次の問題に取りかかった。

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