第26話 熾天使の始まり

それは、よく晴れた春の日だった。


この辺りの地方で信仰される聖人、殉教者「聖シャルフ」の日。


種蒔きに最適の吉日だと言って、村人達は、祈りの言葉と共に麦を植えていた。


パン屋である私の家は、畑を持たない。


だから、種蒔きの日であるその日は、特にやることがなくて村を散策していた。


村は、貧しい。


小さな私は、パン屋の娘なのにも関わらず、お腹いっぱいに食べたことは生まれてこの方一度もない。それくらいに貧しかった。


けれど、どうやれば豊かになれるかなど、幼い私には分からない。


それどころか、豊かさという言葉の指す意味すら、理解していないほどだった……。


そんな日に、空きっ腹を抱えて歩き回っていると、種蒔きに忙しい村人達に「忙しいから他所へ行け」と追い払われる。


そうして、たどり着いたのは森の方面。


危険だと言われている、『魔の森』の方だった。


その薄暗い森は、何か恐ろしいものが潜んでいるように思えて。


けれど……、そこにいたのは、私が将来好きになる人で。


私に全てを与えてくれた人だった……。


森の方面から吹いた一陣の風。


それが全ての始まり。


森の風には、何かが焦げたような香りが乗っていたように感じたので、その香りを辿っていくと……。


ウサギの肉を焼いている、私と同じくらいの年頃の男の子がいた。


その容貌を見て、その子が誰なのか、私はすぐに気がついた。


「りょーしゅさまのところの子だよね?なにしてるの?」


そう、領主様のところの長男。


エグザス様。


幼いながらに、美貌の少年だと話題になっていたのを覚えている。


私も、初めてエグザス様のお姿を見た時には、あまりの美しさにため息を漏らしてしまった記憶がある。


家では、エグザス様のお嫁さんになりたい!だなんて言っていたっけ。


そんなエグザス様は、初対面の私に、貴重な獣肉を分けて下さった。


村ではとても食べられないような、塩味の強いウサギ肉の味は、昨日のことのように思い出せる。


村にいても疎まれるだけのパン屋の娘。


私は、自然と、森の中にあるエグザス様の秘密基地に足を運ぶようになっていた。




ある日、エグザス様にお腹を撫でられた。


よく分からないが、お腹を撫でられると、身体が急に熱くなったのを覚えている。


私が『そういう』欲求を自覚したのは最近のことだし、いやらしい意味合いではなかったと思う。


そうしたらその後、エグザス様に「魔導師の才能がある」と……。


説明はされたが、当時の私には難しく、詳しくは覚えていないけれど……、魔法の力があるかどうか見ていたそうだ。


そして私には、魔法の力があった……。


それ以降、私は、エグザス様に魔法を習い始めた。


習うのは魔法だけじゃなく、算術から修辞術、錬金術の類もだ。


その間、エグザス様が遠方から採取してきたという食べ物を分けてもらい、毎日お腹いっぱい食べさせてもらえた。


特に、真っ白な小麦と卵と乳を使った、エグザス様が『スフレ』と呼ぶパンケーキは、この世のものとは思えない味だった。


パン屋の娘であるからして、ある程度料理のことは分かるけれど、どうして小麦と卵と牛乳が、雲のようにふわふわになるのかは分からない。


分からないけれど、私はこのケーキが好きだった。


エグザス様は、今でも時々、このパンケーキを食べさせてくれる。その、雲のように柔らかなパンケーキを。


パンケーキの焼き方一つにおいても、私が、人々が知らない技を使うエグザス様。


そんな天稟たるエグザス様に、私のような凡人がここまで可愛がっていただけるのは、幸運に過ぎない。


私にできるのは、捨てられないように役立つことだけ。


私は、必死に勉強に励んだ。


エグザス様のお役に立つためには、まず、エグザス様に勉学を習わなくてはならないからだ。


エグザス様は、なんでも知っていた。


本人は、曰く、「何でもは知らない。だが、一つのことを知ると、他のことの手がかりになる。知識とは積み重ねだ。俺は他人よりたくさん考えて、たくさん知っているだけだ」とのことだけど、王都の賢者達でもここまでの叡智はないだろうと私は思う。


だって、もしも、王都の賢者がエグザス様ほどに賢ければ、この国はもっといいものになっているはずだから。


エグザス様に教わった国際関係のお話は、聞けば聞くほど、この国に暗い未来が来ることを感じさせられた。


エグザス様は、領地を富ませる方法も、人々が豊かに暮らせる方法も、苦痛をこの世から無くす方法も、全て知っている。


この村の村長も領主様も、村を、ひいては国を、より良いものにしようなどと微塵も考えていないし、その方法も分からない。


けれど、エグザス様には分かっているようだった。


戯れに、という訳じゃないけれど、エグザス様に訊ねたことがある。


「エグザス様は、どうすればこの国が豊かになると思いますか?」


と。


するとエグザス様の口からは、数百の言葉が出てきた。


「おっ、面白いじゃん。そういう思考実験好きだよ。まずそうね、一番やらなきゃならないのは教育だね。子供を集めて学校を作るんだよ。しかし原資がないから、まずは産業から……、もちろん、一次産業からだな。この辺りの土地は〜……、然るに、じゃがいもが〜……、高炉の導入と〜……、政教分離が〜……」


その殆どの意味は分からなかったけれど、分からない言葉の意味を教わると、納得できた。


つまりは、民に遍く教育を施し、新しい作物で農業を活性化、農業の活性化に伴い余った人手を職人にして、旧弊を一新して、国家の全てを活性化する。


素晴らしい考えだった。


こんなこと、この国の王様ですら考えていない。


貴族達は、ただ民から税を搾り取り、それを使って華々しく戦うことと贅沢をすることにしか興味がないのだから。


私は、エグザス様の薫陶を受けながら育った。


そして、村に盗賊が来た日……。


私は、身を守るために魔法を村人達の目の前で使った。


それ以降、周りがおかしくなってしまう。


普段は、余所者領主の息子と懇意な変わり者と、おかしな女と……、口さがない者に至っては、領主の息子に媚を売る淫売だとまで罵られていた私に、いきなり婚約の申込みが殺到した。


あれだけ、蔑んだ目で見てきた村人達が、手のひら返しをして媚びてくる。


幼い私に、大人の男すら求婚してくる。


それを見て私は、「見返してやったぞ」などとは思わず。


ただ、ただ……、悍ましかった。


気持ちが悪い、吐き気がする。


親までもが媚び諂ってくる現状が、不愉快で仕方なかった。


でも。


そんな時でも、変わらず私を可愛がってくださるエグザス様は。


そんなエグザス様だから、私は……。




だから、私は、エグザス様の為に生きることにした。


村にはもう、いたくない。






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エイダ・フォン・ジブリールの出立


 後に、『魔神』たるエグザスに仕える第一の部下であることと、その使用する術式から『熾天使』と呼ばれる大魔導師。後の、エグザス・フォン・ザナドゥの分家たるジブリール家の始祖でもある。

 王暦268年、エグザスと同郷の彼女は、当時は小さな寒村に過ぎなかったレイヴァン領から、逃げ出すかのように出立した。英雄伝説の始まりにしては酷く地味であることから、創作物などでは改変されがちである。

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