第1章5話 距離が縮まる共犯者達 前編
邸に到着し、応接室にて話し合いを続ける事、約2時間。
アドラシオンとの間で交わされた契約は、現状ニアージュにとって、十分満足のいく内容となった。
邸の内部や庭を含めた、敷地内の移動・行動はおおよそ自由。
面倒臭そうな社交も基本的に免除され、毎月の予算も極めて潤沢。予算の使用状況などの報告さえ怠らなければ、予算の余剰分を個人費用としてプールしておく事も認められた。
無論の事、夫婦生活もなし。
今後、生活面などで何かしらの問題が出た場合は、その都度話し合いの場を持つ事にして、それ以外は不干渉、という形に落ち着いたのである。
無事話し合いがまとまった後、夕飯時までお寛ぎ下さい、と、家令の男性・アルマソンによって案内された部屋は、随分と広く、豪華だったが、行き過ぎた華美さはない。
正直な所、室内があまりに広いので少し落ち着かない、というのが本音なのだが、流石にそれを言うのは贅沢だし、我が儘というものだ。
ニアージュの部屋のすぐ隣にある、アナが宛がわれた侍女用の部屋も、なかなかに立派な作りをしていて、アナも大喜びだった。
ラトレイア侯爵家の侍女部屋よりずっと綺麗で広い、と。
ただ、ニアージュの部屋だけでなくアナの部屋にも、高そうな花瓶や大きくて立派な置時計が鎮座していた為、ニアージュとアナは互いに、調度品を壊さぬよう、十分に気を付けながら過ごそうと真顔で誓い合った。
ハッキリ言って、どれもこれも、到底弁償できそうにない。
それからニアージュの部屋には、ムスクに似た甘やかな香りがほんの僅かに漂っていた。
アルマソン曰く、アドラシオンが入居した当時から、ここはずっと空き部屋のままだったせいか、清掃後も少々埃臭さが拭えなかった為、侍女が気を利かせて香を焚いてくれたらしい。
室内にこもった不快な匂いでニアージュが気分を害し、体調を崩さぬように、と。
いっそこちらが申し訳なくなるほどの、大層細やかな気遣いだった。
広い空き部屋の清掃を億劫がって、掃除の楽な使用人の部屋にニアージュを押し込んで生活させた上、その後もニアージュに部屋の管理と掃除を丸投げし、使用人と大差ない扱いをして
ニアージュはあの侯爵家の中で、王家との契約により、ラトレイア侯爵家の令嬢達の代わりに元王太子の公爵に嫁ぐという、相応に重要な役割を負った駒だった。
だというのに、侯爵夫人とその娘の令嬢達は、ニアージュの生活環境をいい気味だと言わんばかりにせせら笑い、侍女や使用人達をたしなめるどころか逆に煽っていたし、アドラシオンの事まで迂遠な言い方で小馬鹿にして、「ああ、生贄になってくれる田舎娘がいてくれてよかった」などと言い放つ始末。
感謝して丁重に扱え、などというつもりは更々ないが、せめてもう少し真っ当な扱いをしたらどうなんだ、という言葉が、何度喉の奥からせり上がって、口の外に飛び出しかけたか分からない。
挙句、主のラトレイア侯爵まで、妻子の言動を見て見ぬふりして黙認していたのだから、本当にどうしようもない家である。
万が一、ニアージュの身に何かあって婚姻が不可能になれば、王家との契約に基づき、ラトレイア侯爵家の令嬢のうちの誰かが、責任持ってアドラシオンの元に嫁ぐ羽目になる、という事を、誰も理解していなかったのだろうか。
もしそうだとしたら、どいつもこいつも脳みそお花畑だ。
あの家の連中は全員、この邸の人達の爪の垢を煎じて飲んだ方がいい。
部屋について早々、アナの手を借りてゴテゴテしたドレスを脱ぎ、くるぶしに届くほど裾丈が長い以外、ほとんどワンピースと変わらない簡素なデザインのイブニングドレスに着替えたニアージュは、お日様の香りがするフカフカのベッドに寝転がりながら、半ば以上本気でそう思っていた。
それから時間が過ぎ、夕食の時間になって案内された食堂では、鹿肉のステーキをメインとしたコース料理が振る舞われた。
当然ながら、使われている素材はみな上等な1級品で、どれもこれも頬が落ちそうになるほど美味しい。
ラトレイア侯爵家では、いつも使用人達と同じものを食べさせられ、食事のマナー講習の時でも、侯爵一家が口にするものとは程遠い、安物の素材で作った料理しか出されなかったので、感動もひとしおだ。
特に、真っ白で柔らかく、香り高いパンを口にするのは、今世では初の事。
ニアージュは内心、感涙にむせぶ思いだった。
「どうだろう。我が家の食事は君の口に合うだろうか?」
「はい、それはもう……! とても美味しいです! アルマソン、厨房を預かっておられる方達に、私がとても感謝していたと伝えて頂けますか?」
「かしこまりました。みな喜ぶ事でしょう。奥様、ワインのお代わりはいかがですか?」
「頂きます。――あら? 所で旦那様、そちらにはパンがありませんが……お食べにならないんですか?」
「あ、ああ。実は俺は、小麦アレルギーでな。食べたくても食べられないんだ」
ニアージュからの問いかけに、アドラシオンは少し困ったような顔で軽く肩を竦める。
「ああ……そうでしたか。こういう時、米粉のパンがあればいいのですけどね」
「コメコのパン? とは?」
「米粉というのは、米と呼ばれる、小麦とは違う穀物を挽いて作った粉の事で、それを捏ねて、パンとして焼いたものが米粉のパンです。
米は、旦那様のような小麦アレルギーの人でも安心して食べられる穀物で、とても生命力が強く、種を荒れ地に直接ばら撒いて放置しても、勝手に発芽してグングン育つんです。それに、小麦より安価で味もいい、という事で、私が住んでいた村では色々な料理に重宝されていました」
「そんなものがあるのか……」
「はい。けれどその性質上、米は芋類と同じ救荒作物に分類されている物なので、王都の方ではあまり見ないでしょうし、所によっては家畜の餌専用と見做している地域もあるそうです。それこそ、芋以上にお貴族様の食卓には上がりづらい代物ですから、旦那様がご存じないのも当然かと。
もし、旦那様が米に興味をお持ちで、口にするのに抵抗がなければ、実家に手紙を書いて送ってもらいましょうか?」
「それならぜひ頼みたい。もし試食して口に合うようなら、空いている敷地で米を栽培してみるのも悪くないかも知れないな」
「分かりました。明日にでも手紙を書いて送りますね」
アドラシオンの言葉にうなづきつつ、ニアージュは機嫌よく笑う。
「けど、旦那様は懐の広い方ですね。私の親の種馬男は、私を引き取りに田舎に来た時、「そのような家畜の餌など口にできるか!」なんて、みっともなく声を荒らげていたのに」
「た、種馬……。曲がりなりにも実父だろう? その言い方はどうかと思うが……」
「そうですか? では、盛りのついたサルとでも言いましょうか……。いえ、それもダメですね。そもそも、ただ気持ちいい事が好きなだけで、のちのち発生する責任には微塵も意識を向けない下半身の緩い男と、種の保存と繁栄という、崇高な目的があるサルを同列に扱う事自体、サルに対して無礼千万ですもの。
ああでも、そうなると馬を例えに持ち出すのも、馬に対してとても申し訳ない事ですよね。一体どういう言葉を使えば、生きとし生けるものに対して礼節を守りつつ、あの男を相応しい表現で言い表せるのかしら……」
顎に手をやり、真剣な面持ちで「言葉って難しいわ」とうそぶくニアージュに、アドラシオンは視線をあさっての方向へさまよわせつつ、「ひとまず、他の動物に例えるのをやめてみてはどうだろうか」と小声で述べたが、思考の海に没入しているニアージュには届かなかったようだ。
その一方、アナはうつむきながら必死に笑いを噛み殺し、アルマソンと他の給仕人達は、主にどこか生温い目を向ける。
ラトレイア侯爵を動物に例えるのをやめるようには言っても、見る目を変えるようには言わないのだな、と誰もが思っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます