第20話 残り香

 僕は晴香さんと友達になった。


 再会の日以降、僕は週に1回のペースで晴香さんに会っていた。と言っても、恋人ではないのでデートをするという訳では無い。

 晴香さんの記憶が戻ったことで、これまで、大学生として過ごしてきた記憶が失われてしまった。そこで、リハビリのような形で、僕が彼女に大学近辺を案内していたのだ。

 この案内は霞さんに頼まれた。僕が案内役でいいのかとも疑問に思った。けれど、晴香さんの事情を知っている人は、晴香さんの家族と僕だけだ。それを踏まえると、実際に大学に通っている僕が適任なのだと納得した。


 ただ、大学が始まるまでの約3ヶ月間、いつまでも案内をしていては、彼女も僕自身も飽きてしまう。そこで、案内をすることなく、普通に遊んだりもした。

 晴香さんに何をしたいかと尋ねると、たいてい「お任せします」と返答される。なので、遊びの内容は基本的に僕が決めている。入ったことのないカフェに入ってみたり、公園でちょっとしたスポーツをしてみたりと、会うたびにやることは様々だ。


 そんな日々を過ごしていくうちに時は過ぎ、あっという間に4月になった。無事に進級することができた僕と晴香さんにとっての、2年生の授業が始まる。


 今日は大学で2年生に向けたオリエンテーションがあるため、僕と晴香さんは一緒に教室に向かっていた。


「大学内の案内、よろしくね」

「うん。まかせて」


 今日もこれまでどおり、晴香さんを案内するような形で歩いていく。


 晴香さんは大学のキャンパス内に入ってからというもの、目を輝かせて辺りを見回している。僕からすれば見慣れた光景でも、晴香さんにとっては初めての光景だ。興味津々なのも頷ける。

 きっと、1年前の僕も同じように目を輝かせていたのだろう。


 そうして、オリエンテーションが行われる広い教室にやって来た。

 早めの時間にやって来たので席はほとんど空いている。僕らは後ろの方の席に座って、開始時間までのんびりとしていることにした。


「そう言えば、晴香さんって数学とか統計学とかの学んだ知識は覚えてるの?」


 僕らの通っている大学の偏差値は50台後半。最低限知識がないと授業についていくのは難しい。


 僕の問いに晴香さんは頷いた。


「うん。覚えてるよ。不思議なんだよね。授業を受けていた記憶は全くないんだけど、数学の公式とか、統計学とかの用語はハッキリとおぼえているの」

「そうなんだ。晴香は遊びつつも、授業はしっかり受けてたよね」

「……」

「あっ、ごめん」

「いいよ。もう慣れてるから」


 今だに、晴香さんのことを「晴香」と呼んでしまうことがある。どうしても、記憶が戻る前と後の区別ができないのだ。


「ところで、私が覚えてなかったら、蒼井くんが教えてくれるつもりだったの?」

「う〜〜ん、できる限りは」


 苦笑いで答える。

 正直、晴香さんに教えられるほど、僕も知識がある訳ではない。僕はどの授業もギリギリ単位を取れていたレベルだ。むしろ、晴香の方が僕よりも成績が良かった気がする。


 僕の濁した返事に、晴香さんは微笑んだ。


「ありがとう。でも、もし覚えてなかったら、せっかくなら、小翠こみどりさんに教えてもらおうかな」

「え?」

小翠こみどりのぞみさんだよ」

「……」


 晴香さんの口から、突然、希さんの名前が出てきて驚いてしまった。

 そんな僕を晴香さんが不安げに見つめる。


「あれ? もしかして、読み方違う?」

「ち、違わない。ただ、突然、晴香さんが希さんの名前を言うからビックリしただけ」


 冷静に考えてみれば、晴香の手帳に希さんのことも書かれていたので、希さんの名前が出てくるのもおかしくはなかった。

 慌てて、平静を装う。


「今日は小翠さんって来てるのかな?」

「……多分、来てないと思う」

「そっか」


 希さんは1年後期の全ての授業で出席数が足りていない。それはつまり、進級に必要な授業の単位も取れていないことになる。当然、2年に進級することはできない。


 この事実を晴香さんに伝えるべきかで悩む。それに、希さんとの仲が現在はそれほど良くないことも伝えなければならない。


「あっ、あの人」

「え?」


 悩んでいると、晴香さんが教室の前方を指さした。指し示す方を見る。

 そこでは、数人の男子が楽しそうに談笑していた。


「あっ……」


 その中に1人、見覚えのある人物がいた。


「あの人、私と一緒に遊んでいた人だよね?」

「そ、そうだね……」

「たしか、赤坂あかさか哲也てつやくん」

「そう」


 そこにいたのは哲也だった。


 見たところ、無事に進級できたようだ。僕らのことには気づいていないらしく、周りにいる男子たちと仲良さげに話している。


 哲也とも、ここ最近は少しも話をしていない。今だに気まずい関係が続いたままだ。


「蒼井くん、話しに行かなくていいの?」

「いいよ。晴香さんを1人にしたら申し訳ないし」

「私のことは気にしなくてもいいよ。子供じゃないんだから」

「……でも、行かなくていいかな」

「どうして?」

「……」


 曇りのない純粋な瞳に見つめられる。こんな彼女に真実をとても伝えられそうになかった。

 すると、視界の隅に男性教師が教室に入ってくるのが見えた。


「ほ、ほら。もう、オリエンテーションが始まるから」

「あっ、そうだね」


 何とか難を逃れられた。ほっと胸を撫でおろす。

 運に救われた。ただ、いつまでもこんな風にしていては埒が明かない。

 男性教師の説明を右から左に聞き流し、代わりに、晴香さんへどのように伝えようかと必死に考える。


 考えている間にオリエンテーションが終わってしまった。この後に授業はないため、教室にいる全員が帰り支度を始める。


「ねぇ。今なら、赤坂くんと話せるんじゃない?」

「……」


 晴香さんの言う通り、哲也はまだ教室にいる。話そうと思えばすぐに話しかけられる距離だ。ただ、僕の足は動こうとしなかった。


「哲也とは、また今度話すかな。せっかくだから、今日は晴香さんに大学案内してあげるよ」

「え? でも……」

「僕はいいんだよ。晴香さんには関係ないことでしょ!」

「っ!」


 思わず、大声を出してしまった。

 晴香さんが肩をビクッと震わせて驚いていた。僅かに僕から距離を取った。

 周りの人たちも喋るのをやめて僕を見ている。ただ、僕の顔を見ると、すぐにどうでもよくなったようで、再び喋りだした。


 僕は慌てて晴香さんに頭を下げた。


「ご、ごめん」

「ううん。いいよ。ぜんぜん気にしてないから」


 晴香さんは本当に全然気にしてないように微笑んだ。そうして、テキパキと身支度を整えている。

 慌てていた僕は、彼女の態度に拍子抜けした。僕が一人で感情的になっていたようだった。


「じゃあ、大学案内してもらおうかな」

「うん」


 晴香さんのを連れて教室を出ていく。その間際、哲也がこちらを見ているような気がしたけれど、僕はそれを無視した。


 大教室や食堂や図書館など、僕らが良く利用している場所を順々に紹介していく。晴香さんはそれをうんうんと頷きながら聞いてくれた。先ほどの僕の見苦しい態度をまるっきり忘れてしまったように、彼女は僕に楽しげに話していた。


 そうして、一通り回り終えた所で、僕らは帰ることにした。


 結局、希さんや哲也との関係を説明するタイミングを逃してしまった。

 いつ言うにしても空気を悪くしてしまうことは避けられない。ただ、いつかは言わなくてはいけない。それをズルズルと先延ばしにしてしまう自分が情けなかった。


「あのさ、いろいろありがとう」

「え?」


 晴香さんのなんの脈絡もない突然の感謝の言葉に驚く。それから、顔をすぐに上げて晴香さんの様子をうかがう。


「な、なんで『ありがとう』なの?」


 晴香さんはこちらを見ることなく、歩きながら話し出した。


「だって、大学、ちゃんと案内してくれたから」

「そっか」

「それに、今までも色んな所を案内してくれた。遊びにも連れて行ってくれた。そういうの全部含めての『ありがとう』だよ」

「改まって言われると恥ずかしいかも」


 体が妙にむず痒くなってしまう。顔を背けて、赤面した顔を見られない様にする。

 霞さんからのお願いという形であったとしても、案内をして良かった。


「だからさ、私とはここで、お別れしよう」

「え?」


 言葉の意味が理解できず、再度、晴香さんの方を見る。

 晴香さんは立ち止まって、まっすぐに僕の方を見ていた。先ほどの感謝の言葉は建前で、本当に言いたいことは別にあったようだ。


「それってどういうこと?」


 晴香さんはぎゅっと拳を握ってから言い切った。


「もうこれ以上、私の味方にならなくていいよってこと。今日、赤坂くんとか小翠さんの話をするたびに、蒼井くん。凄い嫌そうな顔したよね」

「っ!」


 晴香さんは気にしてない訳じゃなかった。ただ単に、嘘をついてくれていたのだ。僕はその優しい嘘にまんまと騙されていた。


「きっと、私が余計なことしちゃったからだよね?」

「違う。そうじゃないよ。あれはただ……」


 言いかけて言葉を失う。

 実際、今日の晴香さんの言動で僕は振り回された。もちろん、晴香さんの言動は悪気があったわけではないし、彼女は何も悪いことをしていない。ただ、僕らの状況が悪かっただけだ。


 それは理解できている。でも、彼女の言動を余計なことと感じてしまったのは事実だ。だから、ハッキリと否定できなかった。


「それに、蒼井くんは私のこと、嫌なんでしょ?」

「え……な、なんで急にそんなこと」

「蒼井くんが私に優しくしてくれる理由がないからだよ。案内は、私のお母さんから頼まれたからやってくれた。私の味方をしてくれたのだって、記憶が戻る前の私に頼まれたから。ほら。私には理由がない」

「そ、そうかも知れない。だけど、理由がなくたって楽しく遊べてた。あれは、誰かに頼まれた訳じゃない。僕が晴香さんと仲良くなりたくてやったことだよ」

「うん。あれは誰からも頼まれたものじゃないって、私もちゃんと分かってる」

「じゃあ……」

「でもね」


 僕の話を遮るように晴香さんは呟いた。それから、目を潤ませて僕に訴えかけるように手を胸の前でぎゅっと握った。


「でもね、私を見るたびにそんな辛そうな顔見せられたら、素直に楽しめないよ。蒼井くんの本心に気づいちゃうよ」

「え……」


 彼女の言う「辛そうな顔」が僕には理解できなかった。

 思わず、自分の顔を触って確かめる。


 晴香さんと遊んでいた時、僕はどんな顔をしていただろう。彼女と遊ぶことは楽しかった。笑えていたはずだった。


 彼女と色んな話をして、晴香さんを知ることができた。おしとやかで、物静かで、いつも楽しそうに笑っていて。

 そんな彼女を、僕はどんな表情で見ていたのだろう。改めて考えてみれば、僕は素直に笑えていなかったのかもしれない。


 そんな僕を見ながら、彼女は今日まで嘘をついて、僕と仲良くしてくれていたのだ。


 あぁ、そうだった。

 晴香はこんなに嘘が上手くなかった。晴香と晴香さんの区別ができない僕が、彼女の嘘を見破れる訳がなかった。


「蒼井くんは今の私より、昔の私の方が好きなんだよね?」

「……」


 否定できなかった。

 自分でも気づかなかった本音を言葉にされた。それはナイフのように深く僕の心をえぐった。

 そうして、自然と涙が溢れてきてしまった。今まで抑えててきた感情が暴走し、とても冷静ではいられなかった。僕はその場に泣き崩れた。


 晴香さんはそんな僕を見下ろしながら、つーっと静かに涙を流した。


「これ以上、蒼井くんに辛い思いさせられないよ。ありがとう。蒼井くん。さようなら」


 そう言い残して、彼女は去っていってしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る