第19話 運命の再会

 体に突き刺さるような寒さの朝。


 僕は早起きして身支度を整えていた。普段以上に丁寧に身なりを整えて、鏡の前で何回も確認する。晴香の家に行くのは13時頃だというのに、胸がざわついて妙に落ち着かないのだ。

 早めのお昼ごはんを済ませて、再度鏡の中の自分を見る。


「よしっ」


 そうして、自分で納得できた所で、コートを羽織って家を出る。


 途中、近所にあるドーナツ屋に寄った。どのような味が好みか分からないので、別々の味のドーナツを1つずつ買っておく。

 そうして、手土産を持って僕は晴香の家にやって来た。


 晴香の記憶がどのようになっているのかは分からない。もしかしたら、僕のことを忘れているかもしれない。ただ、晴香のお母さんからの電話では、晴香本人が僕に会いたいと言っていたらしい。それは、僕のことを覚えている可能性もあるということだ。


 期待と不安の半々が入り交じった、何とも言えない気持ち悪さがある。それを解消するには、彼女に直接会うほかない。


 手を震わせながら慎重にインターホンを押す。すると、直ぐにドアが開いた。

 開けてくれたのは、晴香でもおばあちゃんでもない。晴香とよく似た顔をした、しかし晴香よりも大人っぽい女性だ。恐らく、晴香のお母さんの霞さんだろう。


「こんにちは」

「こんにちは。君が蒼井奏くんね?」

「はい」


 緊張して顔が強張る僕を一瞥して、霞さんは嬉しそうに微笑んだ。


「優しそうな子で良かった」

「あ、あの、これ、つまらない物ですが」


 そう言って、買ってきていたドーナツの入った箱を差し出す。霞さんは快く受け取ってくれた。


「あら! ご丁寧にどうもありがとう。これは、ドーナツかしら?」

「そうです」

「なら、お話しながらいただきましょうか。さぁ、どうぞ」

「お、お邪魔します」


 靴を玄関で揃えてから、霞さんの後ろについていく。


 晴香の家には晴香を迎えに行くために何度も来たことがある。ただ、それは玄関までであって、こうして中に入るのは初めてだ。

 祖父母の住む家ということもあり、建物自体はかなり古く感じる。木造ということもあり、木の香りがあちこちからする。その香りが僕の緊張をふんわりとほぐしてくれた。


「今はお母さん、晴香の祖母と祖父が出かけてるから、ドーナツは2人が帰ってきてから出しましょうか」

「は、はい」

「さぁ、ここがリビングよ。晴香、蒼井くんがきてくれたわよ」


 霞さんのあとに続いてリビングに入る。


「っ!」


 思わず、声が出そうになって必死に抑える。


 そこには、こたつに腰を下ろした晴香がいた。

 晴香は僕を見ると、嬉しそうに微笑み、軽く頭を下げた。晴香の見た目通りのおしとやかさを感じるような仕草だった。


 久々に見た晴香の元気そうな姿に、僕の表情が自然と和らぐ。


「せっかくだから、晴香の前に座って」


 霞さんに勧められて、僕は晴香と相向かいの位置に座る。そうして、真正面からまじまじと晴香の顔を見る。


「……」

「……」


 お互いに何を言えば良いのか分からず、黙り込んでしまう。すると、そんな僕らを見かねてか、霞さんが


「私はお茶の準備をするから、2人はごゆっくり」


 と、気を利かせてリビングから出ていってくれた。


 おかげで、2人きりの状況が作られる。先ほどより少し話しやすくなったような気がした。

 

 固まった喉を何とか動かして声を絞り出す。


「久しぶりだね。……僕の事、覚えてる?」


 恐る恐る晴香の表情を伺う。僕の質問に、晴香は頬を緩ませてゆっくりと頷いた。


「うん。覚えてるよ」

「ほ、本当に!」


 こたつに手をついて、前のめりになって晴香を凝視する。晴香の返事に、僕の胸は躍っていた。先ほどまでの気持ち悪さが嘘のように消え去った。


 僕の態度が面白かったのか、晴香は目を細めて手で口を隠しながらクスリと笑った。


「本当だって。忘れる訳が無いよ」

「良かったぁ。雰囲気が変わってたから、てっきり忘れちゃったかと思ったよ」

「忘れてないよ。小学生の頃、一緒のクラスだったもんね」

「……う、うん」


 彼女の唇から告げられた言葉に、僕の淡い期待が打ち砕かれた。

 彼女が嘘を言っているとも考えた。けれど、僕の知っている晴香はこんなに上手く嘘をつけない。つまり、彼女は晴香さんであり、晴香の記憶は消え去ってしまったということだ。


 体温が急激に下がるような感覚に襲われる。先ほどまで彼女と話したい事がいっぱいあったはずなのに、それらが全て頭の中から消え去った。


「私が記憶を失っている間、蒼井くんが私と仲良くしてくれたんだよね?」

「え?」


 晴香さんの声で、放心状態の僕の意識を現実に引き戻される。


「これに書いてあったから」


 そう言って、晴香さんは手帳をこたつの上に置いた。


「これって?」

「記憶を失っている間、もう1人の私が、私宛に書いたものみたいなの。私の記憶が戻った時に、おばあちゃんから渡されて」

「……読んでみてもいい?」

「どうぞ」


 そっと手帳を手にとって、1ページ目を開く。


「っ!」


 そこには『白石晴香さんへ』という書き出しで始まった文章が書かれていた。


 筆跡を見て僕はすぐに気づいた。これは間違いなく晴香が書いたものであると。見間違えるわけがなかった。


 文章は晴香の謝罪から始まった。晴香さんの体で様々なことを経験することに対しての謝罪だった。

 それから、以前、彼女が話していた「ルール」についてが書かれていた。当然、その中にはキスなどをしないというルールも書かれていた。

 そうしてページをめくると、日付とその日毎の出来事が書かれた日記になっていた。日記の書かれたページ数は100を優に超えていた。特に、大学に入学してからの内容が多く、僕ら4人で遊んだことが大半を占めていた。


「そんなこともあったな」


 思わず呟いてしまって、慌てて口を塞ぐ。


 すると、いつの間にかこたつの上にお茶が置かれていた。そして、晴香さんの隣に霞さんが座って、僕の方を見ている。


 晴香さんは僕の態度を気にせず「どうぞ」と読むことを勧めてくれた。


 僕は少し恥ずかしさを感じながらも、読むのをやめられなかった。読み進めるごとに自然と笑えてきてしまう。ただの文字のはずなのに、晴香の口から思い出話をされているかのように感じてしまう。


 そうして夏祭りの日記に差し掛かった所で僕の手は止まった。


「え?」


 そこから先の数十ページがごっそりと切り取られていた。あとは白紙のページが続くのみだ。


「ここから先のページは?」


 僕の問いかけに、晴香さんは首を横に振った。


「私が読んだ時、もう既に切り取られていたの。多分、もう1人の私が切り取ったんだと思う。理由は分からないけど」

「そっか……」


 切り取られた理由が僕は何となく理解できた。恐らく、僕と付き合っていることを晴香さんに隠したかったんだ。

 ただ、付き合っている最中の日記も読んでみたい気がしたので、少し残念だ。


 すると、リビングのドアが開いて、晴香さんのおばあちゃんとおじいちゃんが入ってきた。


「こんにちは」

「おぉ、君か。こんにちは」

「あら! っ、こんにちは」


 おばあちゃんは僕の方を見て少し驚いていた。それから、何かを隠すかのような笑顔をした。少し違和感を感じつつも、僕は会釈しておく。


「蒼井くん。最後のページ読んでみて」

「最後のページ?」


 晴香さんの言葉通りに1番後ろのページを開く。それまで白紙が続いていたが、最後のページには文章が書かれていた。


『もし記憶が戻ったのなら、この手帳はあなたの自由にしてもらって構いません。捨ててもいいし、家族や友人に見せても構いません。

 ただ、記憶が戻って生活に何か不便なことがあった時は、この手帳が役に立つと思います。読んでもらえば分かると思いますが、ここに書かれた蒼井奏くんはとても優しい人です。この手帳を彼に見せれば、きっとあなたの味方になってくれるはずです。


 だよね? 奏。


 最後に、晴香さん。私に時間を与えてくれてありがとう。あなたのおかげで、私は楽しい日々を過ごせました。

 記憶が無事に戻ることを心から願っています。


 もう1人のあなた。白石晴香より』


「……」


 読み終えた時、僕の目は涙で潤んでいた。ただ、手帳を涙で汚してはいけないと、必死に涙を堪える。

 それから『だよね? 奏』という晴香からの言葉を再度読んで、僕は手帳から顔を上げた。正面に座る晴香さんをまっすぐに見る。そうして、ぎゅっと拳を握って声を出した。


「これからよろしく。晴香さん」

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