第五章 運命の再会

第18話 クリスマスデート

 晴香と再び付き合いだしてから数週間が過ぎた。大学の後期授業は終わりを迎えようとしている。


 僕と晴香は最後の授業となる期末試験を受けていた。前日に一夜漬けで入れ込んだ知識が役立ち、何とか合格点は取れそうだ。


 試験終わり、体を伸ばしながら教室をぐるりと見回す。


 ふと、視界の隅に哲也が映った。

 あれから、哲也と一緒に授業を受けることはなくなった。すれ違っても、挨拶することすらなくなってしまった。晴香も、僕と哲也の空気感を察してか、哲也と話すことがない。


 希さんは最後の授業まで姿を見せることがなかった。恐らく、留年することになるだろう。


 歯切れの悪さを感じながら、僕らは冬休みを迎える。


「ねぇ、奏」


 大学の最寄り駅まで歩いている途中、晴香が僕に声をかけた。


「なに?」

「明日、久々にどこかにデートしに行かない?」


 晴香の提案に少し驚かされた。


 実は、ここ最近はデートでどこかに行く事がなくなったのだ。その1番の理由が記憶喪失にあった。

 晴香の記憶が戻る兆候として、頭痛のような症状がある。それが場合によっては気を失ってしまうこともあるらしい。遠出した先で倒れると危険だと判断した僕らは、おうちデートや近所の公園でのデートを頻繁にするようになっていた。


「どこか、行きたい所があるの?」

「ううん。そういうわけじゃないの。でも、明日ってクリスマスでしょ?」

「あっ、そっか」


 記憶喪失の一件や期末試験の忙しさですっかり忘れていた。クリスマスがすぐそこまで来ていたのか。


「ん。クリスマスだから、せっかくならお出かけしたいなって」

「ごめん。僕、何も予定組んでなくて」

「そ、そうだよね。急な話だし、忙しい時期だったもんね……」


 晴香が明らかに残念がっている。

 それもそうだ。クリスマスは恋人達のためにあるような大切な日。それは僕らにとっても例外じゃない。

 僕は必死に打開策を考える。


 温泉旅館などは、クリスマスの時期になると予約でいっぱいになってしまう。スキーなどのウィンタースポーツも準備をしていないために難しい。


 悩んでいると、ふと、希さんの言葉が脳裏をよぎった。


「イルミネーションとかどうかな?」

「イルミネーション?」

「うん。高崎駅前の並木道とか、音楽センターの周りで、イルミネーションがあるんだよ」

「いいね! 見てみたい!」

「良かった」


 晴香の嬉しそうな顔を見て胸を撫でおろす。


「それじゃあ、明日、16時頃に家に迎えに行くよ」

「ありがとう」


 こうして、僕らはクリスマスデートを行うことになった。


 翌日、僕は予定通りに晴香の家へ向かう。


 今日はクリスマスデートと特別なこともあり、トレンチコートに革靴を合わせて大人っぽい服装だ。普段履くことのない革靴に少し違和感を感じる。でも、我ながら少しはカッコいいコーデだとは思う。似合っているかはわからないけれど。


 若干、コーデに不安を感じながら、晴香の家のインターホンを押す。直ぐに晴香が出てきた。


「おまたせ〜〜」


 ブラウンの落ち着いた色合いのコートと、チェック柄のロングスカートを合わせた晴香は、大人っぽさと可愛らしさを兼ね備えていた。元々スタイルの良い晴香さんだけれど、黒いブーツでさらに身長が高くなってモデルさんのようにシルエットが綺麗だ。

 正直、めちゃくちゃ可愛い。


「わざわざ家まで来てくれてありがと」

「どういたしまして。服、すごく可愛いよ」

「本当? 良かったぁ。けっこう、悩んで選んだから」


 頬を緩ませた晴香が嬉しそうにスカートをなびかせる。それから、僕のコートに手を伸ばした。


「奏も今日はずいぶんと決めてるね」

「へ、変かな?」

「ううん、変じゃないよ。カッコいい」

「ありがとう。……それじゃあ行こうか」

「ん」


 そうして、僕らは高崎駅へ向かった。

 高崎駅はクリスマス真っ只中ということもあり、非常に混んでいた。特に、男女で歩く人の姿が多い。


 西口に出て並木道を歩いていく。

 音楽センターまで伸びた並木道には、青色や黄色に光るイルミネーションが施されている。普段とは違った幻想的な景色だ。


「綺麗」


 晴香が目を輝かせて呟いた。


 僕は毎年のようにこの光景を見ている。だから、感動することはないと思っていた。でも、晴香が隣にいると、不思議と見慣れた光景が美しく見えた。こんなにも僕の生まれ住んできた街は綺麗だったのかと気付かされる。


 イルミネーションに喜ぶ晴香に目を奪われながら群馬音楽センターまで歩いていく。


 群馬音楽センターには星型やツリー型、アーチ型など様々なイルミネーションが置かれている。どれも眩いくらいに光り輝いている。

 僕らはその1つ1つをゆっくりと見て回る。


「あれ見て! あそこくぐれるようになってるよ!」

「あっ、ちょっ」


 ゆっくりではなかった。

 僕の腕を引っ張って走り出す晴香に、僕は慌ててついていく。


 ここ最近はおうちデートが多く、アグレッシブな晴香からすると退屈だったのかもしれない。久々に子供のようにはしゃぐ晴香を見れてよかった。


 そうしてひとしきり見ると、今度は高崎城跡のお堀沿いを歩いていく。

 お堀に浮かべられたイルミネーションは、水面が光を反射して不思議な形を作り出している。すると、真横からきゅるると不思議な音がした。


「最悪……」


 晴香が不機嫌そうに自身のお腹を押さえていた。


「もしかしなくても、お腹すいた?」

「……ん。なにか食べたいかも」


 お腹は誰でもすくのだから、そんなに恥ずかしがらなくても良いと思うのだけれど。ただ、恥ずかしがる表情も、それはそれで可愛いので、見れて嬉しかったりする。


「じゃあ、こっち行こうか」


 そうして、晴香を連れてとあるイタリア料理店の前まで来た。人の顔がアーティスティックに描かれた壁が特徴的なお店だ。クリスマスということもあり、店外に列ができるほど混んでいる。


「結構、混んでそうじゃない? 私、ファミレスとかでもいいよ?」


 晴香が心配そうに店内を覗く。


「大丈夫。ちょっと待ってて」


 2人で店内に入り、目に入った女性店員さんに声を掛ける。


「すみません。予約した蒼井なんですけど」

「え!」


 僕の言葉に晴香が声に出して驚いている。晴香の声に驚き、店内のお客さんの視線が集まる。晴香は慌てて口を手で押さえた。


 すると、女性店員さんは「こちらへどうぞ」と席に案内してくれた。


 席について、僕はメニューを開く。

 すると、目を見開いた晴香が僕の顔を覗いた。


「ねぇ。いつの間に予約なんてしたの? 私、昨日、デートに行きたいって言ったのに」

「実は、昨日、言われてから直ぐに色んなお店に電話したんだ。そうしたら、たまたまこのお店でキャンセルが出て、予約できたんだ」

「凄い! なんか奇跡みたい!」

「そうだね!」


 冗談抜きで、僕も奇跡だと思っていた。予約できた瞬間は、電話が切れてから叫び声を上げてしまうほど喜んだ。多分、僕は一生分の運を使い切ったかもしれない。


 そうして、僕らはそれぞれパスタを1つずつ注文して、1枚のマルゲリータピザをシェアした。クリスマスらしいBGMの流れる温かな雰囲気の店内はとても居心地が良く、食事を堪能しながらあっという間に時間が過ぎた。


 会計を済ませてお店を出る。


「これからどうする?」

「私、夜景が見れる場所に行きたい」

「夜景ね。ここから近い場所だと高崎市役所だね。あとは、少し遠いけど観音かんのん山とかかな」

「やっぱり混んでるのかな?」

「うん。クリスマスだから、僕らみたいに夜景を見ようとする人は多いかも」

「そっか。……できれば奏と2人っきりで見たいな」

「ちょっと待ってて!」


 そんな風に甘えられて、黙っていられる訳が無い。僕は直ぐにスマホで夜景が綺麗で人の少なそうな場所を探す。


「あっ! 少林山しょうりんざん! 少林山の展望デッキとかどうかな?」

「少林山?」

「うん。駅からかなり遠いから人は少ないと思うんだ。山だから夜景も綺麗なはず。それに、少林山の入り口まではバスが出てるから行きは簡単に行けるよ。帰りは時間的に歩きになっちゃうと思うけど……」

「行きたい!」

「え? いいの?」

「うん。せっかくだもん」


 嬉しそうに晴香が微笑む。

 そうだ。彼女のアグレッシブさを舐めてはいけなかった。過去には突然山登りをするほどの体力の持ち主だ。数十キロ歩くことになる程度で諦める訳が無い。

 幸い、今日は普段より多めにお金を持ってきている。いざとなればタクシーに乗ることだってできる。それなら、多少遠出しても問題ないはずだ。


 こうして、僕らはバスに乗って少林山に向かった。


 少林山入口に到着すると、まずは達磨だるま寺と呼ばれるお寺の階段を登っていく。スマホの地図によると、展望デッキは達磨寺の更に奥の階段を登った先にあるらしい。


 階段をゆっくりと登っていく。道路を走る車の音が少しずつ遠くなっていく。途中、綺麗に整えられた池などのある庭を通り、その先の階段を登り切ると、目の前には大量のだるまが置かれた達磨堂が現れる。


「うわぁ、凄い! だるまがいっぱい!」

「だるまは群馬の名産だからね」

「ねぇ! せっかくだからお参りしよう」


 そう言って、彼女は5円玉をお賽銭に投げ入れた。僕も一緒に投げ入れてお祈りする。


 それから、僕らはその奥の階段に向かって歩き出す。


「奏はさっきなんてお願いしたの?」

「健康でいられますようにってお願いした。晴香は?」

「私は、晴香さんの記憶が無事に戻りますようにって」

「……そっか」


 とても自然に言ってのけた晴香は、返事に困る僕を置き去りにして、ぐんぐんと階段へ向かっていく。目を離した内に、彼女が消えてしまうかのような恐怖心に襲われた僕は、慌てて彼女の横に並んだ。


「は、晴香。疲れてない?」

「この程度じゃ疲れないよ」

「でも、今日、ブーツだから階段登るの辛くない?」

「う〜〜ん、辛くないことはないかも」


 その返事を待っていた。

 僕は素早く晴香の前でかがんで背中を見せる。


「じゃあ、僕がおんぶしてあげるよ」

「え? 流石におんぶしながら階段登るのはキツくない?」

「大丈夫だって。晴香は痩せてるし、僕だって鍛えてるから」

「ふ〜〜ん。なら、その親切心に甘えさせてもらおっかな」


 そう言って、晴香が嬉しそうに背中に抱きついてきた。

 

 これは親切心なんかではない。僕が、僕自身を落ち着かせるためのおんぶだ。自分の身勝手さを情けなく感じながら、晴香の体をしっかりと支える。


 晴香にスマホのライトで足元を照らしてもらいながら、ゆっくりと階段を登っていく。


「大丈夫? 重くない?」

「大丈夫。大丈夫」

「ふ〜〜ん」


 嘘だ。本当はまぁまぁ辛い。

 階段をおんぶしながら登るだけでも辛いのに、階段自体がガタガタで足元が悪く歩き辛い。加えて、慣れない革靴のせいでかかとの辺りが靴擦れで痛い。

 ただ、今更晴香を降ろすわけにもいかない。

 心の中で数秒前の自分を全力で恨む。


「なんか、懐かしいね」


 ふいに、晴香が耳元で呟いた。


「懐かしい?」

「ん。夏祭りの時、奏におんぶしてもらったこと思い出して」

「あ〜〜、そう言えばそんなこともあったね」

「ふふん。私、凄く嬉しかったんだよ。奏が『好きが上書きされた』って言ってくれたこと。『あっ、奏はちゃんと今の私を見てくれたんだ』って思えたから」

「そっか」


 彼女の記憶喪失を知った今だからこそ、彼女にとってそれがどれだけ嬉しいことだったかを理解できた。

 心の中で過去の自分を全力で褒め称える。


 そうして、やっとの思いで目的地の展望デッキにたどり着いた。


 展望デッキはベンチと屋根があるだけの簡素なものだ。ただ、そこからの眺めはまさに絶景だった。


「すご〜〜い! 綺麗!」

「うん。綺麗だね」


 街の光が天の川のように連なって、視界いっぱいを照らしていた。

 遠くの方にはぼんやりと榛名山が見える。以前、僕ら4人で登った山だ。改めて見て、よく登ったなと感心してしまう。


 そうして一通り見てから、僕はベンチにぐったりと座り込んだ。階段を登った疲れが想像以上に足にきていた。


 すると、「大丈夫?」と、晴香も僕の隣に座った。


「ちょっと疲れちゃって」

「だから、キツイって言ったのに」

「あはは……」


 ぐうの音も出ない。


「もぉ、仕方ないな」


 そう言って、晴香がトントンと自身のスカートを叩いた。


「え?」

「膝枕。特別にしてあげる」

「いや、大丈夫だよ」

「いいからいいから」


 微笑む晴香は、僕の頭にすっと手を伸ばして、優しく膝までリードしてくれた。おかげで、吸い込まれるように、僕の頭は彼女の太ももに置かれた。


 晴香の柔らかな太ももの感触をスカート越しに感じる。


 すると、晴香が僕の髪を優しく撫でた。


「これも懐かしいね。奏に初めて会った時、私がやってあげたんだよね」

「あの時はご迷惑お掛けしました」

「本当だよ。乙女の膝枕を長時間堪能するなんてありえないんだからね」


 言葉では怒っていても、表情は笑顔のままだ。


 喋りながら僕の頭を撫で続ける彼女からは、母性のような温かさを感じてとても安らぐ。自然と頬が緩んでしまう。


「あの時から、奏は私のために必死だったね」

「だって、金澤さんに晴香を取られたくなかったから」

「ん。知ってる。奏は結構、独占欲強めだよね」

「だ、駄目かな?」

「ううん。別にいいよ。そういう所も含めて、私は奏が好きだから」

「ありがとう」


 このまま横になったままだと、居心地が良すぎて動けなくなってしまいそうなので、区切りをつけて起き上がる。そうして、のんびりと夜景を眺める。


「晴香さんはこの街で育ってきたんだね」


 ふと、晴香が夜景に向けて呟いた。

 僕も夜景を眺めながら話す。


「そうだね。……ねぇ、晴香さんの記憶が戻ったら、晴香の記憶はどうなるの?」

「人によって様々なんだって。残ってたり残ってなかったり」

「そっか。……ねぇ、酷いことを言ってもいいかな?」

「ん。いいよ」


 晴香の横顔を見て、一呼吸置く。


「僕は、晴香さんが記憶喪失のままでいて欲しい。今の晴香のままでいて欲しい」


 僕の言葉に、晴香は驚いたように僕の方を向いた。でも、直ぐに微笑んで前を向き直した。


「……酷いね」

「うん」

「すごく酷いね」

「うん」

「……だけど、凄く嬉しい」


 そう言って、晴香が僕の肩に頭を預けてきた。


 すると、僕の視界がぐにゃりと歪んだ。思わず涙が溢れていた。涙を抑え込むかのように、僕は晴香を抱きしめた。


「僕は、晴香とずっと一緒にいたい」

「……ごめんね。ダメな私で。奏に辛い思いばかりさせちゃって」

「ダメじゃない。それに、辛くなんてないよ。晴香との日々は、僕にとって幸せなものばかりなんだ」

「ふふん。嬉しいなぁ。奏にそんな風に思ってもらえるなんて」


 晴香と抱きしめ合い、お互いの体温を感じ取る。柔らかな体も、艷やかな髪の毛も、この体温も忘れることのないようにと、必死に脳裏に焼き付ける。

 だけれど、記憶がなくなってしまう事への不安は消えない。


「奏」


 泣き続ける僕をあやすような優しい声で晴香が囁いた。


「なに?」


 聞き返すと、晴香は僕の頬を両手で優しく包んだ。そして、体温を確かめるかのように、こつんとおでこを当てた。


「私、記憶が戻ったとしても、きっと奏のことを覚えてる。そうして、もう1度、好きになるよ」


 そう言って、白い歯を見せてニカッと笑った。


「……うん」


 彼女の笑顔に、僕も自然と笑顔になっていた。

 こんな所で泣いていても仕方ない。彼女のように前に進んでいかなくては。


 涙を拭って立ち上がる。

 夜景に向かって大きく深呼吸をして、心を落ち着かせる。


「じゃあ、そろそろ帰ろうか」


 立ち上がろうとする晴香に手を伸ばす。

 僕の態度に、晴香は嬉しそうに微笑んで、「ん」と言いながら伸ばした手にちょこんと手を置いた。


 僕は彼女の手を離さないようにぎゅっと掴んだ。


 そうして、彼女が立ち上がった瞬間、僕は違和感に気づいた。彼女の表情が僅かに歪んでいた。

 すると、魂が抜けたかのように、彼女はその場に倒れだした。


「晴香っ!」


 必死に彼女の体を支え、頭を地面にぶつけないようにする。晴香の体は重力に逆らおうとせずに人形のようにぐたりとしていて、全身から力が抜けている。おんぶをした時とは明らかに違う支えづらさを感じる。


「晴香っ! 晴香っ!」

「……」

「っ!」

 

 何度名前を呼んでも返事をすることはない。


 僕は直ぐにスマホで救急車を呼んだ。

 数十分後、静かだった展望デッキに騒々しいサイレンが近づいてきた。僕は救急隊員に事情を説明し、一緒に救急車に乗って病院へ向かった。救急隊員の話によると、気を失ってはいるものの、命に別状はないとのことだった。


 いつかこうなるとは思っていた。記憶喪失の話を聞いた時、気を失うこともあると聞いていた。ただ、目の前で突然、倒れた彼女の姿はあまりにも恐ろしかった。

 動揺する自分自身を何とか落ち着かせつつ、晴香の無事を必死に願った。


 病院に到着すると、晴香は直ぐに診察室に運び込まれた。僕はその背中を目で追いかけることしかできなかった。


 病院のロビーで待っていると、晴香のおばあちゃんと、会ったことはないが恐らく晴香のおじいちゃんであろう男性が病院にやって来た。すると、その時を待っていたかのように、僕らはお医者さんから診察室に呼ばれることとなった。


 おじいちゃんとおばあちゃんをイスに座らせて、僕は2人の後ろで立っていた。


 お医者さんは何かをパソコンで確認しながら僕らにこう告げた。


「彼女が目を覚ました時、記憶が戻っている可能性があります」


 医者の言葉に、おじいちゃんとおばあちゃんは涙を流して喜んでいた。


 ただ、僕は素直に喜べなかった。そんな自分の醜さが悔しくて、でも、今の自分の気持ちを否定することなんて到底できなかった。


 拳を握って必死に気持ちを抑え、診察室を後にした。それから、おじいちゃんとおばあちゃんに軽く挨拶をしてから、僕は帰路についた。


 それから数日間、晴香と会えない日々が続いた。僕は親族でないため、病院で面会することができず、晴香の容態がどのようなのかも、一切知ることができなかった。


 そんな不安な日々を過ごしながら年が明けた頃、僕のスマホに非通知からの電話が入った。


「もしもし」

『もしもし。はじめまして』


 聞こえてきたのは聞き覚えのない女性の声だった。落ち着いた声色から察するに年上だろうか。


『私、白石しらいしかすみと申します。こちらは蒼井奏さんのお電話で間違いないでしょうか?』

「は、はい」


 かしこまった言葉遣いに、変に緊張してしまう。ただ、電話越しに聞こえた女性の名字に、僕はとある可能性を感じた。


「もしかして、晴香、さんのお母さんですか?」

『はい。この度は、うちの晴香がお世話になりました』

「い、いえ。えっと、晴香さんの体調はどうなのでしょうか?」

『晴香は病院に運ばれてから数時間して、目を覚ましました。今は退院して、母の、晴香の祖母と祖父の家にいます』

「そうですか!」


 目を覚ましたと聞いて、ひとまず胸を撫でおろす。ただそれと同時に、僕の頭の中で聞きたいことが生まれた。


『ところで、奏さんは晴香の事情についてご存知でしょうか?』


 丁度、聞きたいことが話題に上がった。僕は唾を呑み込んで、恐る恐る質問する。


「知っています。今の晴香さんの記憶はどうなったのでしょうか?」

『晴香の記憶は無事に戻りました』

「……」


 霞さんの嬉しそうな言葉に、僕の心の中では感情の波がが激しくぶつかり合った。

 1つは、晴香さんの記憶が戻って良かったという安堵感。そしてもう1つは、晴香の記憶がなくなったかもしれない焦燥感。

 どっちつかずの感情に悩まされていると、霞さんが話を続けた。


『実は、今回、電話をさせていただいたのは、救急車を呼んでいただいた感謝と、記憶が戻ったことを伝えることと、もう1つありまして』

「もう1つ、ですか?」

『はい。実は晴香があなたに会いたいと言っているんです。そこで、もしよろしければ、明日、会っていただけないでしょうか?』


 予想外の言葉に驚かされる。ただ、その返事に迷うことはなかった。


「はい。僕も会いたいです」


 こうして、明日、僕は初恋の彼女と運命の再会をする。

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