第17話 秘密
希さんと別れてから数分後。
僕はそのままの足で晴香の家の前まで来ていた。日が落ちて辺りは暗く静まりかえっている。
僕はそんな静寂を壊さないようにそっとインターホンを押した。
部屋の明かりがついているので、恐らく家に人はいるはずだ。そんなことを考えていると『はい。どちら様ですか?』と、インターホンから返答があった。声からして、晴香のおばあちゃんだろう。
「こんばんは。夜遅くにすみません。僕は晴香さんと同級生の蒼井奏と言います。晴香さんはいらっしゃいますか?」
『ハルちゃん? ちょっと待ってね。ハルちゃん! お友達が来てるよ』
おばあちゃんの声が遠のいて、インターホンからは何も聞こえなくなった。心の準備をしながら玄関が開くのを待つ。
すると、ドアの向こうから足音が近づいてきた。ただ、ドアの前で足音が消えて、ドアが開くことはない。すると、今度はもう1つの足音が近づいてきた。今度はかなり歩く速度がゆっくりだ。
しばらくすると、ガチャッと玄関のドアが開いた。
「は、はる……」
「晴香」と言いかけて言うのをやめる。そこにいたのは、おばあちゃんだったから。晴香がドアを開けたと思い緊張していたが、拍子抜けしてかえって緊張がほぐれる。
「奏くんだね?」
「そうです。えっと、晴香さんは?」
「ごめんなさいね。ハルちゃんが会いたくないって言っててねぇ」
「そ、そうですか……」
そう上手くはいかなかった。
落ち着いて考えてみれば、別れた元カレが突然、実家に来ているのだ。晴香からすれば会いたくなんてないはずだ。
「こんな遅くに来てもらったのに、申し訳ないねぇ」
「いえ。……あっ、すみません」
ドアを閉めようとしていたおばあちゃんが手を止める。再びドアを開いて、僕の顔を凝視する。
「なんだい?」
「晴香さんに、伝えて欲しいことがあるんです」
「いいよ。なんて伝えればいいんだい?」
「『好きだよ。いつまでも晴香を待ってる』と」
僕の言葉に、おばあちゃんは目を見開いて驚いた。でも、直ぐに嬉しそうに目を細めて笑った。その笑顔は晴香にそっくりだった。
「ふふっ。わかったよ。伝えておくからね」
「はい。お願いします。僕はこれで失礼します」
深く頭を下げおばあちゃんに別れを告げる。そうして、体の向きを180度変えて歩き出す。
曇りだった空はすっかり晴れていた。空気が澄んでいて、星がきれいに見える。現在時刻は19時過ぎ。晴香の家に来るまでは走っていて気づかなかったけれど、かなり空気が冷えていて寒い。
白い息を吐いて両手を温める。
「晴香と一緒に星を見たいな」
独り言を呟きながら歩いていく。
「奏っ!」
突然、背中から声をかけられた。
聞き馴染みのある声に驚いて振り向く。その直後、目にも止まらない速さで僕の胸にずっしりとした重みが飛び込んできた。僕は体と両腕でしっかりと受け止めて、それを優しく抱きしめる。
見下ろすと、僕の胸に顔を押し当てて抱きついた晴香がいた。
「『好き』とか、そういうのは私に直接言ってよ。バカ」
「晴香が僕のこと避けてたら言えないよ」
「それはそうだけど……」
拗ねている彼女を久々に見て、僕は心の底から安堵した。
「久しぶりだね。会いたかったよ」
「……ん。私も」
お互いに見つめ合いながら抱きしめ合う。お互いの体温が伝わってじんわりと温かくなっていく。今日のような寒い日にはそれがとても心地よい。
「僕、晴香と話したくて来たんだ。これから時間ある?」
「ん。あるよ。ちょっと歩いた所に公園があるから、そこで話そう」
そうして、歩いて数分の場所にある公園に向かった。入口付近にある自動販売機でホットのコーヒーとカフェラテを買って、2人でベンチに座る。
「はい。カフェラテ」
「ありがと」
晴香がカフェラテを両手で握った。「あったか〜〜い」と言って嬉しそうに頬を緩めている。
「それで、話って?」
「うん」
僕はコーヒーを一口飲んでから話し出した。
「僕、前にも言ったけど、晴香を悲しませたくないんだ。悲しませたくないから、現状に満足してた。悲しませたくないから、今まで中々、一歩を踏み出せなかった。」
「ん」
「でも、晴香と別れて気づいたんだ。僕、本当はもっと晴香のことを知りたいんだって。別れたままでもいいんだよ。でも、知りたいんだ。晴香を幸せにするために、もっと晴香のことを知りたいんだ。だから、話してほしい。晴香のことを」
僕は何も隠すことなく本音をそのまま言葉にした。
晴香は僕を見ながら時折こくんと頷いて、最後まで話を聞いてくれた。聞き終わると、視線をカフェラテに移して、そのままじっと眺めながら微笑んだ。
「……そうだよね。やっぱり、話したほうがいいよね。ねぇ、奏」
「なに?」
晴香は口をつぐんで、僕の様子を窺ってはカフェラテに視線を落としてを数回繰り返した。それから、ぎゅっとカフェラテを強く握りしめて僕の目をまっすぐに見た。
「私の話は、きっと奏を悲しませる。それでも、聞きたい?」
「うん。どんな話でも僕は聞くよ」
「そっか」
晴香は僅かに視線を落とし、瞼をゆっくりと閉じた。そして、ハッキリと分かるほど大きく胸を膨らませ深呼吸をしている。呼吸を落ち着かせた所で、再度、僕を見た。
柔らかな唇を動かして晴香は話し出した。
「奏とキスできなかったのは、私が私自身に課したルールがあったから」
「ルール?」
「ん。『私が死ぬまで、白石晴香さんの初めてを奪ってはいけない』っていうルール」
「……どういうこと?」
僕には理解ができなかった。
晴香は、理解できない僕の反応を分かっていたかのように「そうだよね」と呟いた。そうして、目を潤ませた。
「だ、大丈夫?」
「ん。大丈夫。ちゃんと話さないと分かんないもんね」
晴香は夜空を見上げ、零れそうな涙を抑えた。それから、涙に抗うように必死に僕を見つめ直し、震えた涙声をしながら、彼女は話を続けた。
「私、本当は白石晴香じゃないの」
「……え?」
驚いた僕を見て、彼女は寂しそうに微笑んだ。
「私は偽物なの。奏が小学生の頃から好きだった白石晴香じゃない」
「……」
信じられなかった。目の前にいる彼女が白石晴香ではないなんて。
確かに、性格は小学生の頃とは違う。まさに、別人のように。でも、見た目はそっくりそのままだ。黒髪と白い肌をしたおしとやかそうな見た目。偽物だとはとても思えない。
でも、彼女が嘘を言っているようにも思えなかった。なにせ、僕の知っている彼女は嘘が下手だ。今の彼女の悲しそうな表情が演技とは考えられない。
「奏は『
「ごめん。分からない」
「とっても簡単に言うと、記憶喪失」
「記憶、喪失……」
言葉を失った。手が震えて、持っていたコーヒー缶を落としてしまう。
「ご、ごめん」
僕は慌ててコーヒー缶を拾う。しかし、そんな単純作業が頭の中が混乱しているせいか、上手くできない。やっとコーヒー缶を拾い上げて、再度、ベンチに座る。
記憶喪失は、僕でも理解できる。本やテレビの世界で良く聞く。「ここはどこ? 私はだれ?」などと冗談で言うことすらあるほど知っている。
でも、それが現実に起こるとは思えなかった。どうしても、フィクションの中でしか起こらないものだと思い込んでいた。
まして、彼女が記憶喪失だと想像できるはずもなかった。
「つまり、晴香には記憶がないってこと?」
「ん。それじゃあ、奏に分かりやすく説明するために、私の昔話をしていい?」
「いいよ」
「前に、私が高校生の頃、いじめられていたって話はしたよね?」
「うん」
「実際はね、私自身はいじめられていない。記憶がなくなる前、晴香さんがいじめられていたの」
晴香は、まるで他人のことのように自身の名前を話し出した。その様子は違和感で溢れていた。
「それと、もう1つ。晴香さんはお父さんから家庭内暴力を受けていたの」
「お父さんから、暴力を……」
「ひどい話だよね。いじめと家庭内暴力で晴香さんには居場所が無かった。そんな毎日を過ごしていく内に、晴香さんは絶望に押しつぶされそうになった。そんな現状から抜け出すために、彼女はそれまでの記憶を捨てたの。そうして、新しい別の人格が生まれた」
「っ! つまりそれが……」
「ん。私のこと」
頷いた彼女は申し訳無さそうに視線を落とした。
これまでの会話で、僕の頭の中であやふやだった点と点がハッキリと線で繋がった。
思い返してみれば、彼女の違和感はいくつもあった。
小学生の僕のことを全く覚えていない。小学生の頃まで住んでいたはずの群馬県の土地勘がない。高崎祭りに行ったことがない。全国的に話題になった映画を知らない。
そして何より、別人のように性格が変わっている。
きっと僕が思い出せないだけで、他にも沢山の違和感があったはずだ。
これだけの事実を突きつけられて、これが嘘だと思える訳が無かった。
「高校2年の中頃、私は生まれたの。目覚めたら知らない環境に囲まれてて凄く怖かった。お母さんや先生は、そんな私に優しく接してくれた。だけど、みんな晴香さんに話しかけてて、私に話しかけてはいなくて、それが嫌だった。怖かった。だから部屋に引きこもるようになった」
暗い過去を晴香は淡々と語っていく。
聞いているだけでも心が苦しくなってくる。彼女はそんな辛い中を独りで歩いてきたのだ。彼女の強さを思い知らされる。
「晴香さんに人格が戻るまで、部屋にこもり続けようと思ってたの。そんな時、私は『人生の半分』を知った」
今までに聞いていた「人生の半分」の意味を、僕はようやく完全に理解できた。正確に言えば、彼女の「人生の半分」の考え方をようやく理解できた。
「それから私は、晴香さんのことを知らない環境に行こうって決めた。勉強の記憶はあったから、引きこもりながら勉強して何とか大学には入学できた。それからすぐにおばあちゃんの家に泊めてもらうことになって、今は安心して暮らせてる」
そう言って、晴香は口角を上げて微笑んだ。その表情は本当に幸せそうだった。
僕の記憶が正しければ、彼女は自身のおばあちゃんにも敬語で話しかけていた。きっと、おばあちゃんの記憶もないからだ。
それでも、過去の晴香さんを知っているのがおばあちゃんだけで、暴力を振るう父親もいないという環境は、心地よいものだったのだろう。
「群馬に来てからは、私がやりたいことをするようになった。でも、後々、晴香さんに迷惑をかけるのは嫌だから、自分で色んなルールを考えた」
「その1つが『晴香さんの初めてを奪ってはいけない』なんだ」
「ん。やっぱり、始めてのキスとかえっちなこととかは大切なことだから。偽物の私にはできない」
恥ずかしそうにはにかみながら彼女は答えた。
ようやく、キスができなかった理由を知ることができた。原因が僕を嫌いになったとかではなかったので良かった。
「そうして、ルールを決めてから奏たちに出会った。あとは、奏の知っての通りだよ。これで私の昔話は終わり」
「話を聞かせてくれてありがとう」
「ううん。むしろ、今まで隠しててごめん」
晴香が深々と頭を下げる。
「そんな、頭なんて下げなくていいよ。晴香は何も悪くないんだから」
「ううん。悪いよ。晴香さんの体を勝手に使って、みんなを騙してたんだから……っ!」
突然、晴香が頭を抱えて苦しそうなうめき声を上げた。必死に痛みを抑えるようにうずくまっている。
「晴香! 大丈夫!?」
「だ、大、丈夫。ちょっと待ってて」
何か手助けしようにも、何をすればいいのかが分からない。冷や汗をかきながらしばらく待つ。
すると、痛みが治まったようで頭を抱えるのをやめて深呼吸をし始めた。僕は直ぐに自動販売機に行って水を買って、彼女に渡した。
「ごめんね。ビックリさせちゃって」
そう言って、晴香は一口水を飲んで落ち着いていた。
記憶喪失だという晴香が頭を抱えて苦しんでいた。それが示す意味を、僕は何となく予感できた。
「今のって……」
「ん。記憶が戻ってる兆候。実はね、奏と別れてから、たまにこの兆候が出てきたんだよね。多分、晴香さんが私の存在はいらないって思い始めてるんだと思う。……だからさ、奏は私のことは忘れて、本物の晴香さんと付き合って」
「え?」
「だって嫌でしょ? 私は奏の初恋の人じゃない偽物なんだよ? それよりも、本物の晴香さんと付き合って楽しく……」
「そんなことできないっ!」
晴香の声を遮るように、僕は立ち上がりながら叫んだ。
大声に驚いた晴香は口を開けたまま固まっていた。
僕は彼女の前に動いて、彼女の手を取った。
「確かに、本物の白石晴香さんじゃないかもしれない。でも、僕らが友達になったのは、今の晴香だよ。僕が好きになったのは、今の晴香だよ。本物とか偽物とか、そんなの関係ない。僕は、今の晴香が好きなんだ」
「奏……」
「晴香。お願い。僕ともう1度付き合ってほしい」
「……」
晴香が唇を噛みながら視線を逸らした。
「キスもえっちもできないんだよ?」
「うん」
「奏を悲しませるかもしれないんだよ?」
「うん」
晴香が僕の手をぎゅっと握った。
「初恋の晴香さんじゃないんだよ?」
涙目になりながら上目遣いで訴えかける彼女に、僕は優しく微笑んだ。
「うん。僕は今の晴香が好きなんだ」
「……ありがとう。やっぱり私、奏が好き」
「2人で幸せになろう」
そうして、僕らは抱きしめあった。お互いの体温を分け合うかのように。寒かったはずの冬の空気も、不思議と心地よく感じてしまう。
いつまでも、この時間が続けばいいのにと心から願った。
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