第16話 悪い子
哲也と別れてから数十分後。
僕は群馬音楽センター前の広場に来ていた。電話で僕をこの場に呼んだ電話の主を探す。
「奏くん」
音楽センター側から聞き馴染みのある声が聞こえた。声の先には、建物の柱の影からひょっこりと顔を覗かせた希さんがいた。
髪型をミディアムに切りそろえ、薄茶色のコートを着て足元までのロングスカートを履いた彼女は、以前より遥かに大人っぽく見えた。こちらに向かって歩いてくる様も、ランウェイを歩くモデルのように整っていた。顔は希さんなのに、全体の雰囲気は別人のようだった。
希さんは無表情のまま僕の前まで来ると、特に喋ることもなく僕の顔を上目遣いでじっと見ている。
突然呼び出して、その上、無表情で見つめられて、僕は混乱していた。彼女の意図が全く読めない。
ひとまず、作り笑いをしながら様子を窺う。
「ひ、久しぶりだね」
「そうだね。ちょっと歩かない?」
そう言って、僕の返事を待つことなく歩き出してしまった。
恐る恐る彼女の隣を並んで歩く。
高崎城跡の石垣を通り抜けて、お掘沿いを歩いていく。冬ということもあり、お掘には円形のオブジェがいくつか浮かべられている。
「あのオブジェは?」
ちょうど希さんも気になったようだ。
「あれはイルミネーション用のオブジェ。夜になると、あれがキラキラ光って凄く綺麗なんだ」
「へ〜〜。イルミネーションデートとかしたら、きっと楽しいだろうね」
「うん……」
「……」
会話が途切れる。以前のようにうまく話せない。雰囲気が違うからという理由もあるけれど、何より、彼女の考えが理解できない。
一体、なんの為に僕を呼んだのだろうか。様子を窺うも、無表情のまま前を向いているだけだ。
「か、金澤さんと、こういう所でデートとかしたの?」
「してないよ。宏明はただ、私とヤりたいだけだったから」
「そ、そうなんだ」
やってしまった。思いっきり地雷を踏んでしまった。
会話を続けようとしたつもりが、むしろ悪い方向に行ってしまった気がする。晴香とキスすらできない僕が、そう言った話題を続けられるわけもない。再び、苦笑いで誤魔化す。
「い、いつかデートができるといいね」
「できないよ。もう、セフレじゃなくなったから」
「え?」
驚きだった。別れたなんて全く知らなかった。
内心、僕は喜んでいた。金澤さんとのセフレという関係が、希さんにとって良いものと思えなかったから。
でも、希さんにとって、セフレを解消することが良いのか悪いのかは分からない。
「どうして別れたの?」
「私から言ったの。『もうやめよう』って」
「そうだったんだ」
「たくさん説得されたから」
「説得? 誰から?」
「……」
無言で希さんに睨まれる。その目には、本当に? という、疑問の意味が込められている。
ただ、誰に説得されたかなど、僕が知るわけがない。ここ最近、全くと言っていいほど希さんとあっておらず、彼女の話題も聞かなかったのだから。
すると、希さんは呆れたように「はぁ」とため息を吐いた。
「奏くん、知らなすぎ」
「えぇ……」
希さんに言われると心へのダメージが大きい気がする。しかも、冗談ではなく本気の表情で言われれば尚更だ。
「晴香ちゃんだよ」
「晴香が?」
「うん。あの日から、毎日のように私の部屋に来てたんだよ」
「僕、全然、知らなかった」
初耳だった。晴香から希さんの家に行ってるという話を聞いたことはなかったし、そんな素振りも無かった……と、思う。
「晴香ちゃん、大学終わりにほぼ毎日来てたんだよ」
「大学終わり……あっ」
「気づいた?」
「うん」
思い当たる節がある。そういえば、希さんの一件以降、おうちデートが増えた。その時、毎回、大学から直接は遊びに来ていなかった。
晴香は家に1度帰ると言っていたけれど、本当は希さんの部屋に行っていたのか。
ふと、晴香が以前言っていた言葉が思い出される。
『私、やっぱり希ちゃんと仲直りしたいな……』
晴香は超がつくほどのアグレッシブな人だ。そんな彼女が、あの一件以降、希さんに何もせずにいられるわけがない。
希さんは薄暗い空を見上げながら嬉しそうに笑った。
「凄いよね。私が何回追い払っても、次の日にはケロッとした顔で来るんだもん」
「そっか。晴香ならやるね」
自分のことでなくても嬉しくなってしまう。まさか、僕の知らない間にそんなことをしていたなんて。
「結構、酷いこと言ったりもしたんだよ? 『さっさと消えて』とか『友達面しないで』とか」
「希さんが?」
「なんでそこで驚くの?」
「だって、希さんが言いそうにないから」
「私だって言うよ。私、多分、奏くんが思っているほど、真面目で良い子じゃないと思うよ」
そう言って、希さんはいたずらっぽく笑った。何となく、以前の希さんの雰囲気に戻ったように見えた。
すると、希さんが立ち止まった。くるりスカートをなびかせて、僕の方を見ている。
「で、そんな悪い子の私が今日、奏くんを読んだ理由なんだけど」
「う、うん」
突然、本題を言い出す彼女に、僕は慌てて聞く姿勢を取る。姿勢をただして彼女の目を見る。
「私、奏くんのことが好きなの。だから、付き合って」
「……」
予想外の言葉に驚かされる。ぽかんと口を開けたまま、何も返事ができない。
そんな僕の反応を想定していたかのように、希さんは微笑んだ。
「晴香ちゃんがいつもみたいに来た時に言ってたんだ。『奏くんと別れた』って。晴香ちゃんから別れ話をしたんだってね。私、驚いちゃった。2人は仲が良かったから、別れることなんてないって思ってた」
希さんは僕に一歩近づくと、すっと僕の胸に手を伸ばして、ゆっくりと僕の体に触れた。まるで、僕の心臓の音を聞き取るかのようだ。
そうして、囁きながら話を続ける。
「私はキスだってできるし、もっとえっちなこともできるよ。お試しぐらいの気持ちでもいいから。ねぇ。どうかな?」
「……」
希さんは更に僕に近づいて体を僕に密着させた。希さんの小さな体は僕の胸の中にすっぽりと埋まってしまった。上から下にスーッと胸をなでおろされ、ゆっくりと抱きしめられる。
心臓が異様なほどバクバクと音を立てている。晴香に抱きしめられた時とは明らかに違う感情がある。性欲だ。希さんの手慣れた体運びと手つきが男の本能を暴走させようとしているのが分かる。
今は理性で本能を抑えられる。けれど、このままずっとこれが続けば、僕がどうなるかは分からない。
すると、希さんが優しい笑みをしながら僕を見た。その目は涙で潤んで輝いていた。
その表情に僕は見覚えがあった。昔に見たものではない。もっと最近、ハッキリと記憶に残るようにみた表情。晴香に別れを告げられた時に見た表情だ。
「ごめん」
言いながら、僕は希さんの小さな肩を掴んで、体から離した。
「僕は、晴香が好きなんだ。未練たらしくて情けないかもだけど、それでも、晴香が好きなんだ」
「……そっか」
自嘲気味に笑いながら、希さんは気まずそうに下を向いた。それからしばらく地面を眺めている。
人生で初めて女子を振った。
今の今まで、モテたことのなかった僕からすると、不思議な感覚だった。目の前で気まずそうにしている希さんを妙に意識してしまうけれど、手を差し伸べるのは良くないとも思えてしまう。歯がゆいようなものだった。
「……なら」
不意に希さんが呟いた。すると、彼女はキリッと顔を上げた。ぎゅっと拳を握りしめて、背伸びをしながら僕を睨みつける。
「なら、なんで晴香ちゃんの所に行ってあげないのっ!」
「それは……晴香を悲しませたくないから」
僕の返答に、希さんは怒りの表情を見せる。声を張って、僕に言葉をストレートにぶつけてくる。
「悲しませたくないから? 晴香ちゃん、泣いてたんだよ!? 私の部屋の前で『別れちゃった。もう、会えなくなっちゃった。どうしよう』って。ずっと」
「っ!」
「奏くんは晴香ちゃんの彼氏なんでしょ? なのに、なんで私の方が晴香ちゃんのこと知ってるの? 彼氏なんだから、もっと晴香ちゃんのこと知ってあげてよ!」
希さんの必死の主張は僕の胸に深く突き刺さった。彼女の言う通りだった。僕は彼氏でありながら、全く晴香のことを知らなかった。現状に満足して、晴香をもっと知ろうとする意欲がなかった。悲しませたくなくて、一歩を踏み込めなかった。
それを理解した時、希さんが僕を電話で呼んだ理由が理解できた。
「希さん。ありがとう。もしかして希さんは、僕に晴香が泣いてたことを伝えて、僕が晴香ともう1度会うために電話してくれたの?」
「っ!」
希さんは恥ずかしげに頬を赤く染めると、そっぽを向いた。ただし、時折、チラチラと僕の方を見て様子を窺っている。
「あ、あくまで、部屋の前でずっと泣かれてるのが迷惑だったから。それに、ここ最近、そもそも私の部屋に来なくなって心配だったし。奏くんが今も晴香ちゃんに未練たらたらなのは分かってたし」
慌てて事情を説明している。ただ、よほど慌てているのか、嘘がバレバレになっているが、本人は気づいていないらしい。
今までの別人のように大人っぽい雰囲気が壊れて、以前の希さんの雰囲気に戻っている。
それを見て、思わず僕は笑ってしまった。
「そっか。でも、じゃあ、なんであんな告白を?」
「わ、私に説明させないでよ。恥ずかしいんだから」
本当に恥ずかしいようで、僕と目を合わせることなく、必死に顔を手で隠している。ただ、隠しきれていない耳が真っ赤なせいで、恥ずかしがっているのはバレバレだ。
「わ、私が、か、奏くんのことを好きなのは本当なの。でも、奏くんは晴香ちゃんが好きなのは知ってた。だから、絶対に私と付き合うことはないって分かってた」
「じゃ、じゃあなんで?」
希さんは手で顔を隠すのを止めた。そして、困ったように笑いながら僕を見た。
「だって、好きだから。少しでもチャンスがあったら、諦めきれないでしょ? 駄目だって分かってても、好きな人には好きって言いたいの。ね、私、悪い子でしょ?」
希さんは必死に笑っていた。でも、それに抗うように涙が溢れてきていた。「ごめんね」と言いながら、必死に涙を拭っている。
正直、希さんが僕を好きでいてくれたことは嬉しかった。でも、それに応えることができなくて苦しくもあった。
だから、せめて今だけは希さんに手を差し伸べようと思った。
「希さん……」
「いいの!」
僕の差し伸べた手を、希さんは払い除けた。
「私のことはいいの。言いたいことは言えたから。だから、奏くん」
希さんが僕の目を真っ直ぐに見た。夕陽に照らされキラキラと輝く瞳はとても美しかった。
「私が諦められるぐらい、晴香ちゃんと勝手に幸せになってよ!」
「……ありがとう。晴香の所に行ってくる」
そうして、僕は走り出した。
背中の方で希さんの泣く声が聞こえた。その涙には悲しみと一緒に、背中を押されるような激励の感情があった気がした。
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