第四章 2人だけの秘密

第14話 人肌恋しい季節

 小翠こみどりのぞみさんとの一件から約1ヶ月が過ぎた。季節はすっかり冬になり、日々冷たい風に体を震わせている。


 希さんは未だに大学に姿を見せていない。

 赤坂あかさか哲也てつやとは各授業で顔を合わせているが、放課後に遊ぶということはなくなってしまった。

 白石しらいし晴香はるかとはデートをする回数が増えた。ただし、どこかに遊びに行くというより、公園や僕の部屋でのんびりと過ごすことがほとんどだ。ここ最近は、特に甘えてくる回数が増えてきて、僕はよく頭を撫でてあげている。さながら、ペットのような扱いだ。

 僕はというと、これといった変化のない日々を過ごしていた。


 そんなとある木曜日。

 僕は自室で1人、ネットサーフィンに勤しんでいた。検索内容は「恋人 初キス いつ」や「初キス タイミング」といった、感じだ。


 晴香と付き合い始めてから約2ヶ月。デートはすでに何十回としている。その中で、手を繋いだり、抱きしめたり、あーんをしたりなど、色々と恋人っぽいことはした。しかし、未だにキスをしたことがない。


 検索結果では「初キスは3回目のデートで」というものが多い。つまり、僕はかなりペースが遅いという事になる。


「やっぱり、僕からキスをするべきなのかなぁ」


 天井に向かって呟く。

 

 そもそも、今までキスをするのが遅いと焦ったことは一度もなかった。晴香と一緒にいれるだけで充分に幸せで、それで満足していたからだ。しかし、焦りはちょっとしたことで生まれた。


 それはつい先日。紺野こんの俊太郎しゅんたろうとの電話でのことだった。


『奏、そろそろ童貞は卒業したか?』


 俊太郎が突然、そんなことを言って電話をかけてきたのだ。

 おちゃらけた声で俊太郎がニヤけていることが電話越しにも分かる。

 俊太郎の態度に不満を感じつつも正直に答える。


「……してないよ」

『だと思った。なにせ、奏だからな』

「俊の中で、僕ってどういうイメージなの?」

『う〜ん。ヘタレでノロマ?』

「ひどい!」

『冗談だって』


 笑い声が聞こえてくる。電話じゃなかったら、デコピンの1つでも喰らわせてやりたい所だ。


『まぁ、慌てず自分のペースでな。キスはしててもセックスは中々できないって人は沢山いるからな』

「僕の場合、キスもまだだけどね」

『奏だからな〜〜。……え? マジ?』


 急に俊太郎の声のトーンがガクッと下がった。


「ま、マジだけど?」

『それは流石にマズイぞ』

「マズイって何が?」

『白石さんに飽きられてるかもしれない』

「えぇ!?」


 俊太郎の発言に、僕の心臓はバクバクと鼓動を速めた。

 なぜ晴香に飽きられているのかの意味がわからなかった。恋愛上級者にしか分からないミスがあったのかもしれない。


「ど、どういうこと?」

『いいか。大抵、普通のカップルは付き合いだして3回目くらいのデートでキスをする』

「3回目?」

『そうだ。で、キスをしないまま奏は今まで何回、白石さんとデートをしたんだ?』

「30回以上はした……」

『……』


 俊太郎は絶句していた。


「そんな、黙らなくても」

『……』

「で、でも、晴香から『キスしたい』とか言われたことないよ!」

『言うわけ無いだろぉが! いいか、奏。始めてのキスは男からやるもんだ! キスだって愛情表現のひとつなんだぞ!』

「でも……」

『でもじゃない。そのままだと、白石さんも奏に愛されてないと思って、振られる結果になるぞ!』

「それは嫌だよ!」

『じゃあ、わかってるな。次のデートで、いい雰囲気を作って必ずキスをしろ!』


 というようなやり取りがあったのだ。


 そこで、僕は俊太郎のアドバイスやネットでの情報を頼りに作戦を練っていた。


 今日は午後から晴香が僕の家にやってくる。大学から直接来ても良いのだけれど、いつも晴香は1度、自宅に戻ってから僕の家に来るのだ。


 ちなみに父親は出張中、母親はお昼から仕事のため、家には僕しかいない。その間に、晴香と何をしてても家族間で気まずくなることはない。とは言っても、付き合っていることは両親も知っているし、やましいこともしているつもりはない。


 要するに、初キスをするための環境は整っているのだ。


 僕は自室の掃除を念入りに行った。するとピンポーンとチャイムが鳴った。玄関まで鍵を開けに行くと、ドアの向こうには当然、晴香がいた。


「お邪魔します!」

「はい。どうぞ」


 いつものように、晴香がスニーカーを脱いで丁寧に揃える。

 僕は自室に向かいながら先程まで見ていたネットの情報を頭の中で反芻する。


「ねぇ。なんか奏、歩き方変じゃない?」

「え? へ、変かな?」

「ん。なんというか、緊張して固まってる感じ」


 気付かない内に緊張が表に出ていたらしい。

 適当に笑って誤魔化す。


「さっき足つったからかな。気にしないで」

「まぁ、奏がいいなら別にいいんだけどね」


 自室に入った晴香をクッションに座らせて、その間に飲み物やお菓子を運ぶ。それらをつまみながら談笑する。


「ねぇ。ちょっと寄りかかっていい?」

「いいよ」


 隣に座る晴香が僕の右半身に体を預ける。希さんとの一件以降、晴香は僕に甘えることが多くなった。希さんに嫌われている現状に耐えられないのかもしれない。


 そうしてしばらくした頃、僕は事前に計画していた作戦を実行する。


「ねぇ、晴香。たまには映画でも見ない?」

「いいよ。映画館に行くの?」

「ううん。ネット配信してるやつ見ようかなって」

「いいね」


 心の中でガッツポーズをする。今のところ、作戦は順調に進んでいる。

 僕はパソコンを開いて、配信サイトの検索欄からラブストーリーものの映画を選ぶ。この映画は数年前に全国的に話題になった、少女漫画を原作とした作品だ。僕もテレビで放送された際に見て、感動した覚えがある。王道ものなら間違いはないはずだ。


「これとかどう?」

「ラブストーリー? 私見たことないから見てみたい!」


 晴香は興味津々といった感じで声を弾ませている。


 ローテーブルにパソコンを置いて、再生ボタンを押す。

 

 晴香はパソコンの画面に集中している。そんな彼女の横顔を見ながら、僕は自分の心を落ち着かせる。

 この映画はラストに感動的なキスシーンがある。僕の作戦は、そのラストで良いムードになったところで、初キスをしようというものだ。


 ただ、付き合っている彼女がいる状態で改めてこの映画を見ると、以前より遥かに感動できる。恋愛に対しての感性が敏感になったのかもしれない。主人公とヒロインが近づいたり離れたりするたびドキドキしてしまう。

 ふと晴香の様子を窺うと、姿勢良く体育座りで見ながらも、場面ごとに足の指をぎゅっと曲げたり開いたりしている。かなり物語に没入できているらしい。


 そうして楽しんでいる内に映画は終盤に差し掛かった。


 僕は滲み出てきた手汗をズボンで拭く。キスシーンが近づく画面を凝視する。

 すると、晴香の手が僕の手元に伸びてきて、僕の手を握った。晴香の顔を見るが、目線は画面に向いたままだった。どうやら自然と無意識に手を伸ばしたらしい。


 僕も指を絡めてお互いに握り合う。


 画面の中はラストのキスシーンだ。晴香の握る力ぎゅっと強くなった。

 僕は自分の心臓の音が指越しに伝わらないかと不安になる。しかし、晴香は僕の不安など気にすることもなく静かに涙を流していた。


 僕は自分を落ち着かせながら、晴香の頰に触れて、顔を少しこちらに向けさせる。晴香の顔を覗くように、ゆっくりと顔を近づける。


「ん……」


 晴香も気づいたようで、甘い吐息を漏らしながらゆっくりと瞳を閉じた。


 長いまつ毛、透き通るように白い肌、ほのかに香る甘い香り。それらを間近で感じつつ、僕も目を閉じて唇を近づける。


 その時だった。


 僕は力強く後ろに押された。


「え……」


 思わず、声に出してしまった。目を閉じていたせいで、何が起こったのかわからなかった。


「ご、ごめん……」


 目の前で、晴香は目に涙を浮かべながら謝っていた。そして、僕の視線を避けるように目を逸らして、口元を手で隠した。


「私、そういうの、無理……」


 苦しそうに唇を噛み締めて伝える彼女に、僕の胸は締め付けられた。先程までのムードが一気に失われ、現実に引き戻されるかのような感覚に襲われる。


「そ、そっか。ごめん。急にこんなことして」

「……ごめん」


 そう言って、晴香は手荷物を手早くまとめて部屋から飛び出した。


「は、晴香っ!」


 僕も慌てて彼女の背中を追う。そうして、玄関でスニーカーを履く彼女の手を掴む。


「ごめん。今度から、ああいうことはしないから」

「違う……違うの」


 僕の方を向くことなく彼女は泣きながら首を振り続ける。


「奏の、せいじゃ、ない。全部、私の、せいだから」

「晴香のせいじゃない。僕が悪かったよ。直してほしいところがあったら全部直すから。僕は、晴香を悲しませたくないんだよ」

「……奏」


 晴香が振り向いた。真っ直ぐに僕を見て目を細めて何かをこらえるかのように息を呑んだ。それから、彼女は大粒の涙を流しながら僕に笑顔で告げた。


「私たち、別れよう」


 その言葉を聞いて、僕は彼女の手を離してしまった。頭の中が真っ白になって、何も考えることができない。


 気づいた頃には、晴香はドアを開けて玄関から出ていた。

 僕は情けなく手を伸ばす。


「まっ、待ってよ!」

「……さようなら」


 僕の方を見ることなく晴香は出ていった。

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