第13話 衝突

 大学で金澤さんから話を聞いたその後。僕らはそのままの足で希さんの住むアパートに向かった。

 ちなみに、移動中に希さんにアパートへ訪れることを連絡し、哲也が先日買っていたお菓子入りの袋を持ってきている。


 時刻は17時30分。

 夕日に包まれた街並みはオレンジ1色でとても美しい。

 僕らはアパートの前で夕日に照らされた1人の女子が腕組みをして立っていることに気づいた。希さんだ。先日とは違い、しっかりと身だしなみが整っている。ラフなTシャツにジーパンとボーイッシュな服装だ。


 立っているのが希さんだと分かると、晴香が勢いよく走り出した。


「希ちゃん!」

「なにか用?」


 希さんは今までに聞いたことのないような低いトーンで話し出した。彼女がこちらを見る目は、赤の他人に向けているかのように冷たく、敵意のようなものを感じる。


 そんな彼女の態度に驚き、晴香は動かしていた足を止めた。


「希ちゃんに会いに来たんだよ! 最近、全然、大学に来てないから……」


 話すごとに声量が尻すぼみになっていく。希さんの様子を伺いながらだんだんと不安になっているのが、声の震えで伝わってくる。

 せっかく晴香が話し出したこの空気を無駄にはしないと、哲也も声を上げた。


「ほ、ほら! 希が好きって言ってたお菓子とか持ってきたんだぞ! せっかく4人で集まったんだし、皆で食べながら色々話そうぜ」

「……なんで来たの?」


 俯いた希さんが僕の目を見て静かに訊いてきた。


「希さんが心配だったんだ。中々、大学で見かけなくなったから」

「そっか……。でも、私、メッセージで家に来ていいなんて一言も言ってないよね?」

「うん。言われてない。でも、希さんが何か困ってて大学に来れないなら、助けてあげたくて」

「『助ける』ってなに?」


 希さんが鋭い目つきで僕を睨みつける。


「私、助けてなんて言ってないし、困ってもいない。むしろ、なんで今こうやって私を困らせるの? 2人が付き合い出したから、私なりに気を利かせて2人から距離を置いたのに」

「私たちのために、大学に来なかったの?」


 晴香が真偽を確かめようと希さんに一歩近づく。

 希さんは自嘲気味に笑った。


「そうだよ。付き合いだしたってことは夏休み明けに気づいたの。凄いよね。哲也くんはもう知ってて、私だけはそれまで何も知らなかったんだから。どうせ、私に知られるのが嫌だったんでしょ?」

「違うよ! そうじゃないの。ちゃんと言おうとしてた」

「じゃあなんで哲也くんだけ知ってたの?」

「僕が伝えたんだ。事情があって、哲ちゃんには先に伝えたんだ」

「その事情って?」

「それは……」


 言いかけて哲也を見る。

 哲也は奥歯を噛み締めて目を瞑った。言って欲しくないようだった。


「ほら。やっぱり私にだけ知られたくなかったんだ」

「それは違う!」


 哲也が大声で否定する。


「ごめん。事情ってのはどうしても言えない。でも、俺も奏も晴香も知られたくないなんて思ってない。それだけは信じてくれ」

「信じられないよ。だって、用事があるって言ってたのにデートに行ってるんだから」


 その言葉に僕は息を呑んだ。嫌な汗が僕の背中を垂れていく。

 僕の脳内で希さんに向けたメッセージを送る瞬間が思い出される。あの時、僕は深く考えずに「用事がある」という適当な嘘をついてしまった。明らかに僕に非があった。


「ごめん。嘘をついてた」

「希ちゃん。ごめん。私のわがままなの。夏休みの間はデートしたいって、私が言ったの」


 僕と晴香は深々と頭を下げる。

 すると、希さんは不気味なくらいに優しく微笑んだ。


「いいんだよ。私だって付き合いだしたら友達よりも恋人を優先したいから。わがままになったっていいの。だから、私は夏休み明けに2人が付き合ってるって確信が持てて、そのわがままに付き合ってあげようと思って、2人の邪魔にならないようにしたんだよ」


 話すごとに希さんの笑顔は徐々になくなっていく。


「なのに、今更になって大学に来てってなに?

 会いに来たってなに? なんで私の気遣いを無駄にするの? 私なにか悪いことした? ねぇ、なんでなの? 教えてよっ!」


 希さんが激昂し甲高い大声を上げる。その目には涙が溢れていた。


「……ごめん」


 僕は謝ることしかできなかった。

 哲也も俯いたまま、何もすることができなかった。

 ただ、晴香だけは違った。さらに一歩、希さんに近づくと、希さんに向けて目一杯に手を伸ばした。


「の、希ちゃん。私は、ただ……」

「もうやめてよっ! これ以上、私の気遣いを無駄にしないで。私に関わらないでっ!」

「……」


 希さんの叫びが針のように僕らの胸に突き刺さる。僕らは何も言うことができなかった。

 晴香は伸ばした手を力なく下ろした。

 それを見届けて、希さんはアパートの階段を駆け上がっていった。そして、大きな音を立ててドアを閉めた。


 僕らは、あのドアを開けられることはないのだろうと悟った。


 それからというもの、僕らは何も話すことなく希さんのアパートを離れた。哲也と別れ、僕と晴香は一緒の電車に乗って帰る。


 電車内席が埋まっていたため、扉付近で立っていることにした。


「ねぇ」


 車窓を眺める晴香が呟いた。


「なに?」

「奏の胸、貸して。声、出ちゃいそうだから」

「……いいよ」


 晴香は顔を僕の胸にゆっくりと押し当てた。

 胸の辺りでゆっくりと落ち着いた呼吸を感じる。しかし、次第に呼吸が荒くなり、小刻みに震えだした。

 僕は彼女の頭を撫でて慰める。

 それぐらいしかできない自分が情けなかった。僕の胸は無力感でいっぱいだった。


 晴香の家の最寄り駅で電車を降りる。夏休み中のデートで何度も晴香を家まで送ったので、道順などは分かっている。暗い住宅街を手を繋いで歩いていく。


「嫌われちゃった……」


 暗闇に飲まれてしまいそうな弱々しい声で晴香が呟いた。そのまま立ち止まって、鼻をすすっている。 

 僕も立ち止まって、晴香の様子を窺う。


「私のせいで、希ちゃんが苦しんで……」

「晴香だけのせいじゃない」


 晴香の両手を握る。晴香の細い指は今にも崩れてしまいそうなほど弱々しく感じる。


「でも、私が夏休みに嘘をついたせいで」

「アレは僕のせいだよ。晴香のせいじゃない」

「でも、でも……嫌われたくないよぉ……」


 晴香の目から大粒の涙が零れ落ちた。すると、ダムが決壊したかのように次々に涙が零れ落ちていく。そして、恥を知らない子どものように大きな声でむせび泣き出した。

 

 僕は慰めようと必死に晴香を抱きしめた。


 しかし、気がつくと、僕の目からも涙が溢れ出していた。

 あまりにも自然に流れ出した涙は止まることを知らなかった。止めようとすら思えなかった。それよりも、心の内で暴れ出す感情の渦を抑えるのに必死だった。


 すると、僕の腰を晴香がぎゅっと優しく抱きしめた。

 晴香も自分の感情を抑えるのに必死のはずなのに、泣きながらも僕を慰めてくれた。その優しさが暖かくて、僕の心に余裕を与えてくれた。

 1人ではどうしようもなかった悲しみを、分かち合えた気がした。


 弱い僕らは暗闇の中で情けなく泣き続けた。泣き疲れた頃、僕の心はほんの少しだけ軽くなっていた。


「ありがとう」

「ん。私からもありがとう」


 そうして、僕らは再び歩き出した。


 「私、やっぱり希ちゃんと仲直りしたいな……」


 隣を歩く晴香が呟いた。


「そうだね。僕もまた前みたいに4人で遊びたいな」

「ん。……ねぇ。私、希ちゃんと仲直りできるかな?」

「できるよ。晴香ならきっとできる」

「ふふん。ありがとう。じゃあ、もし駄目だったら、奏が慰めてね」


 そう言って、晴香はいたずらっぽく笑った。

 間もなくして晴香の家に近づいた時、家の前にお婆さんが立っていることに気づいた。


「あの人って?」

「おばあちゃん」

「あっ、ハルちゃん。おかえり」

「ただいま」


 お婆さんは晴香を見て微笑んでから、隣を歩く僕をちらりと見て軽く頭を下げた。僕も「こんばんは」と言って頭を下げる。


「こんばんは。ハルちゃんを送ってくれてありがとうね」

「いえいえ」

「おや。どうしたんだい、そんなに目の下を腫らして」


 お婆さんが晴香の顔を心配そうに見つめる。暗い時間に目を腫らして自分の孫娘が帰ってきたのだ。心配にならない訳が無い。

 すると、晴香が慌てて自分の目の下を手で隠した。


「な、なんでもないです。私のことは気にしないでください。それじゃあ、またね、奏」


 困ったようにはにかみながら、晴香は僕に小さく手を振った。相変わらず嘘が下手な晴香をおかしく思いながら、僕は歩いてきた道を戻っていくのだった。

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