第11話 恋人たち

 授業終わりの空き教室。

 僕と晴香と哲也の3人で昼食をとっていた。


「ねぇ。最近、希ちゃん全然授業に来てないよね?」


 隣に座る晴香が僕に問いかけた。


「そうだね。授業に来てる気配はないし、これと言った連絡もないよね」

「このままだと出席不足で単位落としちゃうよ」

「希さん真面目だから、単位落とすなんて絶対に嫌なはずだよね」

「体調、悪いのかな? 一応、私から連絡はしてたんだけど、返事がなくて」


 晴香が不安そうに携帯の画面を眺める。目線の先には「最近来てないけど、大丈夫? 辛かったらいつでも呼んで」という、希さんに送られたメッセージ。既読はついているが返事はない。


「大学に来たくない理由があったのかな?」


 晴香が机に顔を突っ伏しながら、僕に問いかけてきた。

 僕は教室の黒板をぼんやりと眺めながら理由を考える。


「……五月病みたいなものなのかな。夏休み明けで大学に精神的に行けなくなったとか」

「でも、最初の週にはちゃんと来てたよ」

「あとは、体調崩してるとか」

「だとしても、返信がないのはおかしいよね……」


 2人で顔を合わせる。そして打ち合わせをしたかのように、はぁ〜〜と同じようにため息を吐く。


 希さんは約2ヶ月弱ほど授業に来ていない。夏休みが終わって最初の1、2週間は大学内で見かけることが数回はあった。しかし、時が経つごとに見かけることは減り、今では全く姿を見ていない。


 今まで4人揃って行動してきた分、1人がいないだけでかなりの違和感がある。この2ヶ月間、3人だけで、どこかに遊びに行こうと考えたこともあった。しかし、話し合いの中で自然とその案が却下された。希さん抜きで素直に遊ぼうとは思えなかったからだ。

 結果、僕らは魂が抜けたかのように無気力な1ヶ月を過ごしていた。


「哲ちゃんは何か知ってる?」


 晴香が体を起こして問いかける。


「俺も何も知らない。……でも」

「でも?」


 哲也が言いかけて話すのをやめた。悩むように腕を組んで無言を貫いている。そうしてしばらく悩んだ末、心の中で何かを決心したように「よし」と呟いた。

 僕と晴香は一言も聞き逃さないように、哲也の方に前屈みになる。

 哲也は僕たちと目を合わせてから話しだした。


「俺、このまま何もしないままは駄目だと思うんだ。だから、俺たち3人で希の部屋に直接行ってみないか?」

「そうか!」


 哲也に言われるまで、こんな単純なことに気づかなかった。灯台下暗しというやつだ。電話での連絡が取れないなら、直接会ってみれば良いのだ。


 幸い、僕らは希さんの部屋がどこかを知っている。たこ焼きパーティーの帰りに部屋まで送ったからだ。

 場合によっては留守のこともあるかもしれない。でも、今のままメッセージの返信を待っているよりは確実に希さんと話すことができるはずだ。


「さすが哲ちゃんだよ! それなら、返事を待たなくても問題ないよね」

「だろ? 精神的に辛いなら、相談に乗れる。それに、体調悪くて外出できなかったんだとしたら、差し入れもできる」

「そうだね! それじゃあ、今すぐ行ってみよう」

「おう! 奏ならそう言ってくれると思ってたぜ!」

「ちょっと待ってっ!」


 解決策を見つけ盛り上がる僕たちを、晴香が氷柱のように冷たく鋭い声で制止した。その表情は、いつになく真剣なものになっていた。彼女はその表情のまま、僕らを説得するかのような口調で話を続ける。


「いきなり行くのは駄目だよ。きっと、希ちゃんにも事情があるんだから」

「でも」

「行かないでって言ってるのっ!」

「……そ、そうだな」


 晴香の纏った普段とは違う空気感に、哲也は驚いていた。怖気付いていたと言った方が正しいかもしれない。


 僕も晴香の初めて見せた表情に驚いていた。今までの明るい晴香の雰囲気とは真逆で、別人のように見えたから。

 でも、おかげで僕と哲也だけが盛り上がっていて、晴香は賛成していない事を冷静に理解できた。

 だから僕は、晴香の顔色をうかがいながら話すことにした。


「晴香は、希さんの家に行くの反対?」

「ん。希ちゃんが返信するまでは待つべきだと思う」

「そっか」

「……」

「……」


 何を言えば良いのか分からない。嫌な沈黙が続く。

 そんな空気に嫌気が差したのか、哲也が無理矢理に絞り出すように声を出した。


「……あ〜〜っと、それじゃあ、部屋に行っていいかメッセージ送ろうぜ。それで、返信を待とう」

「そ、そうだね。そうしよう」


 僕らの話を、晴香は眉尻を下げて申し訳無さそうに聞いていた。


「……ん。ごめん。なんか、2人がせっかくいい案考えてくれたのに、私がダメにしちゃって」

「いいんだよ。晴香の言いたいことも分かるから。な、奏」

「うん。3人で希さんの返信を待とう」

「ありがとう」


 それから僕らは、何を言うこともなく教室を出ていく。何かを話せるような気分ではなかった。


 哲也と晴香と別れて、午後の授業が行われる教室に向かう。

 普段なら、休み時間が終わるギリギリまで4人で話していた。でも、今日はかなり早くの解散だった。そのせいで、教室に着いた時間は今までで最速だった。


 授業が始まるまであと25分。


 後ろの方の席に座って、スマホをいじりながら授業が始まるのを待つ。


 そんな中、先ほどの晴香の冷たい表情が頭をよぎる。彼女のあんな冷たい表情を見たのは初めてだった。

 僕らが哲也の案に安易に賛成していて、それを怒るためだけにあの表情をしたのだろうか。多分、そんな単純なことではない気がする。僕の知らない彼女なりの理由があるはずだ。


 そう考えが至った頃には、僕は自然と教室を飛び出して、晴香に電話をかけていた。

 数回のコールの後、晴香が電話にでた。


『もしもし』

「晴香。これから授業を休んで喫茶店に行こう」

『……』


 返事が聞こえない。ただ、周りの雑音は聞こえているので、電話が切れている訳では無い。意図的に返事をしていないのだ。

 だから、僕は単刀直入に自分の気持ちを言うことにした。


「話したいことがあるんだ」

『……行く』


 こうして、僕らは大学から歩いて数分の距離にある喫茶店に集合した。お昼過ぎの店内には数人のお客さんがいて、静かで落ち着いた雰囲気が広がっている。

 2人きりで話すにはぴったりだ。


 席は自由に座っていいとのことだったので、僕らは店の奥の方の窓際のテーブルに相向かいに座る。


「本当に、希さんの家に行かないほうがいいって思ってる?」

「……ん」


 そう言って、晴香は頼んだアイスコーヒーを少し飲んで、気まずそうに窓の外を眺めた。

 僕はそれを気にせずに話を進める。


「僕は、何か理由があって、行かないほうがいいって言ったんじゃないかなって思ったんだ」

「……希ちゃんにも事情があるから」

「うん。それは晴香が言った通り正しいと思うよ。でも、希さんの事情だけじゃなくて、晴香にも何か事情があるんじゃないかなって思ったんだ」

「……」


 ほんの僅かに晴香のまぶたが動いた。でも、まだこちらを向いてくれない。


「無理には言わなくてもいいよ。でも、もし良かったら教えて欲しいんだ。僕なんかじゃ力になれないかもしれないけど、でも、晴香の味方にはなれるから」

「……ん」


 晴香が小さく吐息を漏らした。緊張した顔つきから頬を緩ませて、そして、微笑みながら僕の方を見てくれた。


「なんか、いじわるしてごめんね」

「いじわる?」


 意味がわからず首をかしげる。


「だって、奏が話しかけてくれるのに、私、全然、返事しなかったから。性格悪いね、私」


 自嘲気味に晴香が笑う。

 僕は首を横に振る。


「そんなことない。晴香は最初から僕と話そうとしてくれてたよ」

「でも、ずっと無視してたよ?」

「喫茶店に来てくれた。その時点で、ちゃんと僕と話そうと思ってくれてたってことだよ」


 晴香は大きく目を見開いた。そして、ほんのりと頰を赤らめた。


「そ、そうやって私を甘やかしても、何もお返しできないからね」

「お返しなんていらないよ。これでも、一応、晴香の彼氏だから」

「……一応とか、言うな」


 そう言って、晴香は不満そうに唇を尖らせる。でも、すぐにやめて、満足そうに笑って僕の目を見た。トントンと、晴香がテーブルの下で靴を鳴らす音がする。

 僕はアイスティーを飲んで、晴香の都合の良いタイミングを待つ。

 そうした沈黙の後、晴香は話しだした。


「……私さ、今の希ちゃんと昔の自分を重ねちゃったんだよね」

「昔の晴香を?」

「ん。昔、私が消極的だったことは、奏も知ってるよね?」

「うん。『人生の半分』を知って積極的になったんだよね」


 晴香が頷く。


「実はその消極的だった時、私、不登校だったんだよね」

「……そうだったんだ」


 意外だった。

 晴香は昔、おしとやかで静かな性格だった。それでも、毎日学校には来ていたし、勉強はできていたし、友達とも仲が良かった印象だ。そんな彼女に、不登校になる要因があるとは思えなかった。


 晴香はアイスコーヒーを飲んで一呼吸開けてから話を続ける。


「クラスメイトの女子たちからのイジメが原因だったの。それで、学校に行くのが嫌になって、家に引きこもることにしたんだ」


 まるで他人の話をしているかのように、平然と言ってのけていた。雰囲気が暗くならないように明るく振る舞っているのだろう。

 それでも、僕を見つめる彼女の瞳の奥には真剣さが潜んでいた。決して冗談で言っているわけではないのだと、その瞳が証明していた。


「だからさ、引きこもる人の気持ちとか、何となくは分かるんだよね。あれって、とっても辛いの。外に出る勇気が出なくて『明日こそは頑張ろう』って思っても、動けなくて1日が終わっちゃうんだ……」

「じゃあ、余計に希さんの家に行ったほうが……」


 僕の提案に、晴香は静かに首を横に振った。


「友達に来てもらうのはとっても嬉しいんだよ。でも、それと同じくらい不安で怖いの。どんなに優しい人でも、仲が良かった人でも、外に連れ出そうとされると悪者に見えちゃうから。頭ではその人達が優しくていい人って分かってる。でも、心がその人達を拒絶するの。『来るな』って。そういうことを何回も繰り返す内に、ダメな自分を嫌いになっちゃうの」

「……」


 晴香が手元のアイスコーヒーに視線を落とす。すっと伸びた人差し指でコップの縁をなぞっている。


 僕には、晴香の言ったことの全てを理解をすることはできなかった。正確に言えば、簡単に理解できるものではないと、理解した。

 きっと、晴香の言う不安や恐怖とは、僕が今までの人生で体験したどの物とも違う、魔物のようなものなのだ。目の前の晴香が、そんな魔物に立ち向かい、今のように変化するには、相当な勇気が必要だっただろう。


 僕には到底できそうにない。


 そうして考えていく内に、数時間前の自分達の判断の軽率さが恥ずかしくなった。希さんの気持ちもろくに考えずに、自分達だけの都合だけで動こうとしたから。


「ありがとう。過去のこと教えてくれて」

「ん。いつかは話さないといけないって思ってたから……ねぇ、奏」


 晴香が視線を上げて僕を見た。


「なに?」

「私、本当は希ちゃんの家に行って助けたい。でも、それで希ちゃんに辛い思いをして欲しくない」

「うん」

「どうすればいいと思う?」

「……」

 

 晴香は優しい。

 本心では家に行って助けたいと思いつつも、希さんのことを考えて、現状に我慢し立ち止まっている。だから恐らく、今彼女が欲しいのは、助けに行ってもいいと彼女自身が納得できる理由だ。


 僕に今できることは、彼女にその理由を与え、彼女を全力でサポートして後押しすることだ。。

 簡単に答えを出してはいけない。数時間前のような軽率な判断をしてはいけない。そう心の中で反芻する。そうして、慎重に言葉を選びながら話しだす。


「僕も、どっちの方がいいのかは分からない。でも、どっちの方法も間違ってないと思うよ」

「私たちが行って希ちゃんを苦しめる結果になっても、間違ってないって奏くんは思うの?」

「うん。晴香は言ってたよね。『友達に来てもらうのはとっても嬉しい』って。きっと、希さんも同じように思うはずだよ」

「で、でも……」

「嬉しいと思わなくても、僕らの想いは希さんに伝わるはずだよ。『希さんが戻って来るのを僕らは待ってる』って。なんと言っても、僕たちは前期の間ずっと一緒にいた仲だから」

「……それは私もそう思う。でも、想いは伝わっても、希ちゃんは私たちのことを怖がるかもしれない。そうしたら、前みたいに、4人で仲良くできなくなっちゃう」


 晴香の目が潤んだ。声も震えだして、今にも泣き出してしまいそうだ。

 僕はそっと晴香の震える小さな手を両手で包むように握った。


「もしかしたら、前みたいに4人で仲良くはできないかもしれない。でも、希さんを現状から救い出すことはできる。『やらない後悔よりやる後悔』でしょ?」


 手の中で、晴香の手がぎゅっと強く握られるのを感じた。

 晴香が僕の目を真っ直ぐに見つめた。先程まで失われていた活力が、一気にみなぎっていくのを感じさせるような眼力だ。


「……うん。私、希ちゃんを助けたい。嫌われてもいいから、助けてあげたい」

「大丈夫。僕達ならできる。前とは違う形でも、4人で仲良くなれるよ。僕が約束する」

「ありがとう、奏。明日、希ちゃんの家に行こう」


 晴香が満面の笑みを見せた。

 やっぱり、晴香は笑っていた方がかわいいと再認識させられた。


 こうして翌日、僕と晴香と哲也の3人はお昼ごろから希さんの家の近くに来ていた。

 道順は分かっているけれど、希さんへの不安や心配が大きい分、足取りが不安定になる。先頭を歩く晴香も大股で歩いたり、小股で速歩きしたりと落ち着きがない。


 ちなみに、今日は平日。大学では授業が行われている。僕らは、ここに来る以前に大学に寄り、教室や食堂などキャンパス内を捜索したが、希さんの姿はなかった。


「希ちゃん、大丈夫だといいな」


 僕の右隣を歩く晴香が呟く。


「そうだね」


 昨日、送ったメッセージにも既読マークはついているが返信はない。


「安心しろ2人とも。これ食べさせればすぐ元気になるはずだから」


 そう言って、左隣を歩く哲也がビニール袋を掲げた。中には、希さんが今までに好きだと言っていたお菓子やジュースなどが入っている。好物を渡せば喜んでもらえるというのは単調な考えかもしれない。けれど、これが今の僕らにできる最大限の手助けだった。


 こうして心の準備をしつつ、希さんの住むアパートの目の前にたどり着いた。僕はアパートの細い階段の前で立ち止まる。


「希さんの部屋ってどこだろう?」

「確か、2階の奥の部屋って言ってた気がする」


 晴香が階段を上がった奥の部屋を指差す。


「晴香は行ったことあるの?」

「ううん。だいぶ前に希ちゃんが話してたの。だから、合ってるかは分からない」

「間違ってたら、周りの人に迷惑かかっちゃうな。どうするか?」


 哲也が僕を見た。どうやら判断を僕に委ねているらしい。


「う〜〜ん」


 僕が迷っていると、頭上からガチャッとドアの開く音がした。

 僕らは音のした方を見ながら、階段を降りてくるであろう音の主の邪魔にならないように、階段脇に移動する。


「なぁ。今の音って、奥の部屋から鳴ったよな?」

「もしかしたら、希ちゃんが降りてくるかも!」


 期待と共に3人で階段を見上げる。


 トントンとゆったりとした足音が近づいてくる。そして、黒いサンダルが視界に入った。


「あれって!」


 晴香が思わず声を出した。そして、慌てて自身の口を手で押さえる。


 降りてきたのは希さんではなかった。背の高い黒髪の男性だ。しかし、全く知らない人物という訳でもなかった。


 「金澤かなざわ、さん……」


 小声で晴香が呟いた。


 金澤さんは以前、サークルのスキー・スノボーサークルの新入生歓迎会で晴香にお酒を飲ませていた人物だ。ヤリチンとの噂もあるかなりの遊び人である。


 僕らは慌てて金澤さんからの死角になるであろう階段の陰に隠れる。


「あそこ、金澤さんの部屋だったんだね」

「そうみたい」


 晴香が僕の背中に隠れながら小声で話す。


「カナザワさんって誰だ?」

「哲ちゃんは寝てたから覚えてないよね。サークルの新歓にいた人だよ」

「ほぉ〜〜ん」


 金澤さんが歩いていくのを見送る。幸いにも、金澤さんは僕達に気づいていないようで、大きなあくびをしている。

 そうして、このまま気づかれずに済むかと思ったその時だった。


「待ってよ! 宏明ひろあき!」


 金澤さんが出てきた部屋のドアが再び開いた。そこから聞こえた女性の声に、僕は自分の耳を疑った。


 女性は「待ってよ」と涙ぐんだ声を上げながら、ドタドタと慌ただしい音を立てて彼女は階段を降りてくる。シワが付いてよれたTシャツを着て、乱れた後ろ髪をした彼女に、ハッキリとした見覚えがあった。

 それが信じられなくて、僕は哲也を見た。

 哲也も信じられないといった風に口を開けたまま彼女を見つめていた。

 

 混乱する僕らに真実を教えるように、背中から晴香が呟いた。


「希ちゃん……」


 僕らの見つめる先で、希さんは歩き去る金澤さんの腕を掴んだ。


「なんで行っちゃうのっ?」

「なんでって、別に希には関係ないよ」


 涙ぐんで必死になっている希さんとは裏腹に、金澤さんは面倒くさそうに頭を掻き、薄ら笑いを浮かべている。


「だって、私のこと好きって言ってくれたじゃん!なんで、何も言わずにどこか行っちゃうのっ」

「だから、希には関係ないって」

「ねぇ、宏明! 待ってよっ!」

「あのさ。俺と希って別に恋人じゃないよね? だったら、俺がどこに行こうと関係ないでしょ? はい。話終わり」


 そう言い残して、金澤さんは歩いていってしまった。


 残された希さんはその場に倒れ込み、溢れる涙を必死に腕で拭っている。そうして、しばらくしてから泣き止むと、震えながらゆっくりと立ち上がって、こちらに向かって歩き出した。


 僕らは慌てて階段に顔を引っ込める。しかし、ほんの僅かに希さんと目が合ってしまった。


「奏……くん?」


 そう希さんが呟くのが聞こえた。

 だから、僕らは隠れるのを諦めてゆっくりと階段の陰から出ていく。見てしまった申し訳無さで、希さんの顔を直視できない。ただ、ほんの一瞬見た希さんは、苦虫を噛み潰したような表情で僕らを見て、服の裾をぎゅっと握っていた。


 僕らは何を言えば良いのか分からずに黙り込んだ。希さんと金澤さんの関係性が理解できなかったから。

 

「……っ」


 希さんは俯いたまま走り出して、僕らの横を走り抜けていく。


「希ちゃん!」

「希!」

「希さん!」


 僕らの呼び止めを無視して、希さんは部屋に入って鍵を閉めてしまった。

 僕らは何もできないまま、その場に立ち尽くしていた。哲也がビニール袋を強く握りしめる音が聞こえた。

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