第7話 夜の運動会

 アラームの音で目が覚める。普段とは違う天井。一瞬、自分の居場所に混乱するが、少し見回して哲也の家だと理解する。

 時刻は10時。夜中まで起きていたと考えれば早起きと呼べる時間だ。

 僕は起きてすぐに身支度を整える。忘れ物がないかを確認してから、ベッドで今も寝ている哲也を起こす。


「哲ちゃん。おはよう」

「……ん? あ〜〜、おはよう」


 哲也はゾンビのようなうめき声を上げながら目をこすっている。正直、起きているのか、寝ぼけているのか、判断に困る。


「僕、そろそろ帰るね」

「帰んの? 朝ご飯ぐらい食べてけよ」

「ううん。いいや。じゃあ、またね」

「おう。またな」


 こうして、お昼前に哲也の家を出た。

 帰り道、コンビニで朝ご飯のおにぎりを1つ買って、それを食べながら駅についた。通勤ラッシュが過ぎて、席がまばらに空いている電車に乗り、しばらく静かに揺られる。

 そうして自宅に帰ってすぐ、自室のベッドに横たわった。


 頭の中がモヤモヤする。


 ぐっすりと眠れなかったからではない。体調が悪いわけでもない。

 

 昨日の哲也の言葉が頭から離れないのだ。


『俺さ、晴香のこと好きなんだ』


 昨日。哲也からあの言葉を言われた時、僕は頭が真っ白になった。

 その後も、哲也が何かを話していた気がしたけれど、僕はそれに「うん」とか「そっか」とかそれぐらいの相槌を返すことしかできなかった。そうして、そのまま現実から逃げるように眠りについた。


 晴香さんがモテることは知っていた。僕以外にも、彼女を好きになる男子は沢山いると思っていた。僕がのんびりしていれば、他の誰かに先を越されてしまうことも分かっていた。

 だから、そんな誰かが現れた時には、僕は全力で争おうと思っていた。


 でも、その誰かが哲也だとは想像できなかった。


 いいや。本当は想像できていたのかもしれない。けれど、その可能性から目を背けていた。哲也と争うことなんてないと無理矢理に思い込んで、4人での日々を謳歌していたのだ。

 だからこそ、昨日のあの言葉による僕への精神的ショックは大きかった。一気に現実の問題を突きつけられたのだ。


 僕は哲也と対立するしかないのか。せっかく仲良くなれたのに。


 仮に、僕がこのまま何もしなかったら、晴香さんは哲也の彼女になるかもしれない。

 哲也はとても良い友人だ。明るくて、面白くて、優しくて、イケメンで、非の打ち所がない。


 そんな彼になら、晴香さんを取られても良いのではないか。


 良くない。晴香さんを取られたくない。

 でも、哲也と対立したくもない。

 でも、晴香さんとは付き合いたい。

 でも、今の4人の関係を続けてもいきたい。


 悩み事は増える一方で解決できそうにない。

 誰かに相談しようにも、俊太郎や渚さんには早く告白しちゃえと言われる一方。その他に、僕の悩みを相談できる相手なんて、いるわけがない。


「どうすればいいのかな……」


 独り言が自室に響く。

 当然、答えは帰ってこなかった。


 それからというもの、僕は悩むばかりで、何1つ行動に移せずにいた。

 朝遅くに起きて、朝ご飯を食べて、インターネット上の動画を見て、お昼ご飯を食べて、テレビを眺めて、夜ご飯を食べて、本を読んで、お風呂に入って眠る。そんな、何もない日々を過ごしていた。まるで、夏休み前の忙しさとの帳尻を合わせているかのようだった。


 そうした日々を過ごしていたある日の夜ことだった。


 僕のスマホから着信音がした。画面を確認すると、哲也の名前が表示されている。

 電話に出ようとした所で指が止まる。今、哲也からの電話に出ても、僕は普通でいられるのだろうか。不安が残りながらも、恐る恐る電話に出る。


「……もしもし」

『奏? 今電話できるか?』

「うん。大丈夫だよ」

『良かった。早速だけど、今週末の高崎祭りってお祭りあるだろ?』


 「高崎祭り」とは、群馬県高崎市の市街地で行われる夏祭りだ。毎年、沢山の屋台が並び、夜には花火が打ち上げられる大きなお祭りだ。


『あれ、一緒に行こうぜ』

「うん。いいよ」


 哲也の明るいテンション感に流され、あっさりと行くことを決めてしまった。先程まで、話すことすら不安だったのに、哲也の態度に自然と緊張が解かれてしまう。

 


『よっしゃ。俺、詳しくは知らないから、奏が案内頼んだ』

「案内って言われても、僕、高崎祭りに詳しいわけじゃないよ」

『でも、行ったことはあるんだろ?』

「それはそうだけど」


 恐らく、高崎市に子供の頃から住んでいれば、必ずと言って良いほど、高崎祭りに参加したことがあるはずだ。それぐらい、高崎市ではメジャーで、大きなイベントなのだ


『じゃあ、案内よろしく。それと、1つお願いがあるんだけど』

「お願い?」

『あぁ。これから、晴香も誘おうと思ってるんだ。それでもし、晴香が来れるなら、俺、お祭りで告白しようと思って。奏、ちょっと手伝ってくれないか?』

「……」


 僕は返事に困った。ここ数日間悩んでいた問題の答えを、突然、出すように言われたからだ。

 僕の悩みなど知る由もなく、哲也は話を続ける。


『あ〜〜、告白の手伝いって言っても、途中で俺と晴香が2人きりになるようにしてくれれば良いんだ。それでも駄目か?』

「……」


 相変わらず答えを出せない僕に、哲也も困ったように『えっと……』と呟いた。しかし、しばらくすると、哲也は普段より大人びた声で話しだした。


『奏。これから外、出られるか』


 そんな電話から1時間後。時刻は22時。


 僕は高崎駅から徒歩15分ほどの位置にある高崎公園に来ていた。ここは、孔雀や猿がいる動物小屋や池や噴水があり、春だと花見もできるなど、とても見所のある公園なのだ。

 とは言っても、今は夏の夜なので、街灯の僅かな光と猿の鳴き声くらいしかないけれど。


 僕が到着してから間もなくして、哲也がやって来た。


「よぉ、奏。ちゃんと運動靴履いてきたか?」

「うん。でも、なんで運動靴なの?」


 一応、哲也に靴を見せる。何の変哲もない白い運動靴だ。

 哲也はさっと僕の足元を見ると頷いて、それから自身の運動靴の靴紐を結び始めた。


「それはもちろん、これから走るからだ」

「えっ? 走るの?」

「おう。この公園って、1周何メートルくらいだ?」


 ざっと辺りを見回す。高崎公園は池などを囲うようにしてぐるっと道がある。


「多分、300メートル強はあると思う」

「じゃあ、3周だな。大体1キロで勝負だ」

「……勝負って?」

「俺が勝ったら、晴香への告白を奏が手伝う。奏が勝ったら手伝わなくていいって勝負」

「……」


 僕は再び返事に困る。

 ただ、哲也は僕を気にする素振りも見せずに、道の真ん中でしゃがんだ。道に細い亀裂があり、そこをスタートラインに見立ててクラウチングスタートの姿勢をとっている。


「じゃあ、始めるぞ」

「えっ!? ちょっ、ちょっと待って」


 僕は慌てて、哲也に近づく。


「よーい、どんっ」


 僕の声を無視して哲也は走り出した。僕も僅かに遅れながら走り出し、何とか哲也の横に並ぶ。

 哲也は僕をちらりと横目で確認すると、白い歯を見せて笑った。


「負けねぇからな」

「ぼ、僕だって」


 薄暗い公園を2人並んで走る。中距離の競争であっても、勝敗に晴香さんが関わっているために、走るペースは自然と上がってしまう。

 あっという間に1周を走り2周目入る。今の所、僕と哲也は同じページで走っている。


「なんだ、インドア派の、割に、意外と、走れるじゃん」

「大学生に、なってから、ランニング、してたから」


 まさかここに来て、男磨きのランニングが活きてくるとは思わなかった。多分、数ヶ月前の僕なら今頃バテていただろう。

 俊太郎には、後で感謝を伝えたい。


「なぁ。なんで、奏は、手伝うの、嫌、なんだ?」

「哲ちゃん、には、言いたく、ない」

「そっか」


 言いたくないし、言えない。

 どんなことを言ったとしても、4人の関係は決して保てない。もう、夏休み以前のように、遊び尽くすことはできなくなってしまうから。


 そんなこと考えて、3周目に差し掛かろうとしているときだった。


「なら、なおさら、この、勝負は、勝たないと、なっ!」


 そう言い残して、哲也は歩幅を大きくした。ぐんぐんと僕よりも先に進んでいく。


 追いつこうと思っても、ふくらはぎの痛みがそれを許してくれない。

 

 哲也の背中は小さくなっていく一方だ。そうして、哲也が最初のカーブに差し掛かろうとした時だった。哲也の横顔が見えた。街灯の僅かな明かりでも分かるほど、満面の笑みを浮かべていた。


 彼のあの笑顔には見覚えがあった。それも1回や2回ではない。夏休み以前の、遊んでいた時に何百回と見たのだ。

 彼はいつもあの笑顔だった。辛いことや、キツイことがあっても、彼は笑っていた。晴香さんも希さんも、似たように笑っていた。

 でも、僕はきっとあんな風に笑えない。性格が暗くて、インドア派で、疲れるのが嫌いで、家の中で怠惰な日々を過ごす僕には、きっと。


 そう考えた時、ふと、俊太郎のとの会話が脳裏をよぎった。


『疲れはしたんだろうけど、楽しかったんだろうなって思って』

「何でそんな事言うの?」

『ニヤついてたから』


 そうだ。僕は自分が無意識にニヤついてしまうほど、あの日々を楽しめていた。

 晴香さんに出会って、彼女や哲也や希さんと共に過ごしていく内に、僕の価値観は変わったんだ。それこそ、異文化と出会ったかのような、カルチャーショックのように。


 そういえば、最近は少しも笑えていない。ずっと、悩んでいたから。

 僕も哲也のように笑いたい。4人で過ごしていた、あの頃のように笑いたい。こんな時、どうすれば良いのだろう。晴香さんならどうするのだろう。


『やらない後悔よりやる後悔をしようって。そうすれば、最期に振り返った時に、きっと笑えるから』


 晴香さんの言葉を胸の中で繰り返す。そうして、僕は大きく息を吸い込んだ。


「僕は、晴香さんが、好きだーーっ!」


 僕の雄叫びが夜の公園に響き渡る。


 哲也は一瞬、こちらを見た。驚いたように目を見開いて、僅かに走る速度が落ちた。


 僕はその隙を見逃さなかった。悲鳴を上げるふくらはぎを無視して、強引に地面を踏み込む。がむしゃらに足を上げて、数センチでも先の地面に足先を伸ばす。


 そうして、雄叫びを上げながら哲也に追いつく。


 肺が痛い。腕を振るのもやっとの思い。ふくらはぎはとうに限界を迎えている。酸素が不足して、ろくに思考することができない。


 それでも、ゴールを目指す足だけは止められない。


「うおぉぉぉっ!!」

 

 そうして、僕は倒れ込みながらゴールの亀裂を踏んだ。


 ぐったりとその場に倒れ込んで、必死に呼吸をする。頭がクラクラとする。心臓がバクバクと聞いたこともないような音を上げている。両足が悲鳴を上げている。

 恐ろしいほど疲れた。それでも、この疲れが楽しかった。僕は、必死に呼吸しながらも笑った。


 そうして、数分、倒れながら呼吸を整えている時だった。僕の視界に、手を伸ばした哲也が映り込んだ。


「俺の負けだ。おめでとう、奏」

「ありがとう、哲ちゃん」


 哲也の手を掴み、起き上がる。だいぶ呼吸は落ち着いたが、体はフラフラだ。


 僕と哲也はお互いに満身創痍の状態で近くのベンチに座る。

 眼下には烏川からすがわという穏やかな川が流れている。川を挟んで向こう側では、家の明かりがぽつりぽつりと見える。何気ない穏やかな夜景が心を落ち着かせてくれる。


 すると、哲也はどこからともなくスポーツドリンクを取り出した。なんでも、家から持ってきていたらしい。

 受け取って1口飲んで口を潤す。

 そうして、落ち着いた所で僕は声を掛ける。


「哲ちゃん。話があるんだ」

「おう。だろうな」

「……僕も、晴香さんが好きなんだよ」

「そうか」


 これで、僕と哲也の対立は決まってしまった。もう、前のように仲良くはできないだろう。それに、以前のように4人で遊ぶこともなくなってしまうだろう。

 僕は恐る恐る哲也の表情を伺う。


 哲也は白い歯を見せて、ガシッと僕の肩を掴んだ。


「だったら、もっと早く言えよ!」


 そう言って、哲也は笑った。


「え?」


 予想外の哲也の反応に、僕は驚きを隠せなかった。

 哲也は肩から手を離して、勢いよく僕の背中を叩いた。そして、僕の方に前のめりになりながら話しだした。


「奏は晴香のどんなとこ好きなんだ?」

「せ、清楚な見た目とか」

「それな。ああいう清楚な感じって良いよな。守りたくなるって言うか」

「あっ、それ、僕もわかるよ。なんか、か弱そうな雰囲気があるよね」

「奏、良く分ってんじゃん! それに加えて、あのおっぱいな」

「おっ、おっぱいって……」

「なんだよ。奏はおっぱい嫌いか?」


 哲也がニヤニヤとしながら、僕の脇腹を肘でつついてくる。走って疲労している脇腹にはかなりダメージが入る。


「き、嫌いじゃないけど!」

「なんだよ! やっぱり好きなんじゃねぇか!」


 こうして、いつの間にか僕と哲也の、晴香さんの好きな所トークが始まった。


 ついさっきまで、話すことすら不安だったのに、今となっては話すのが楽しくなってきている。何より、話す内容の全てが、共感し合えることへの喜びが大きかった。そのせいか、真っ暗な公園のベンチで時間など忘れて僕たちはずっと語り合っていた。


 そうしている内に、僕の頭に1つの考えが浮かんだ。僕の悩みを相談できるのは、哲也なのではないかと。

 僕と同じように晴香さんが好きで、4人での楽しい日々を一緒に過ごした哲也なら、きっと僕の気持ちも分かるはずだ。


「あのさ、哲ちゃん」

「おん? なんだ?」

「実は……」


 こうして、僕は悩みを話した。


 晴香さんを誰かに取られたくないこと。

 哲也と対立したくないこと。

 晴香さんと付き合いたいこと。

 今の4人の関係を続けていきたいこと。


 この全てを包み隠さず正直に話した。


「僕、どうすればいいと思う?」


 僕の話を、哲也「うん、うん」と頷きながら静かに聞いてくれた。そうして、全てを聞き終えた上で「なるほどな」と短く呟いた。

 それから、僕の目をまっすぐに見て哲也は微笑んだ。


「そんなの、奏が晴香に告白する以外ないだろ」

「……っ! いいの?」

「いいのって、なんだよ?」


 可笑しそうに哲也は笑った。

 でも、僕は少しも笑えなかった。むしろ、目の前の哲也がなぜ笑えているのかが不思議でならない。


「だって、僕と晴香さんが付き合うことになったら、哲ちゃんは晴香さんと付き合えなくなるんだよ?」

「そんなもん、仕方ないだろ。それに、まだ奏が付き合えると決まったわけじゃないしな」

「た、確かに」


 哲也の気楽な態度に、自然と納得させられた。ただ、全てに納得できた訳では無い。


「でも、それって、実質、僕と哲ちゃんの対立じゃないの?」

「対立ではないだろ。仮に、奏が晴香をいじめる奴なら対立するけど、俺と同じで晴香が好きなんだぜ? 対立って言うより……あれだ! ライバルってやつだ!」

「ライバル。……そっか。ライバルなのか」


 今度はしっかりと納得できた。友達であり、晴香さんを求めて競い合う。そんな僕達に「ライバル」はピッタリだと思ったから。


 哲也はスポーツドリンクを一口飲んで、一段落つけてから再び話を続ける。


「さてと。あとは、4人の関係をどうやって続けるかだな」

「うん」

「……無理だな」

「え?」


 驚いて、哲也の方を見る。

 哲也はうずくまって頭を抱えていた。

 僕はそっと顔を覗く。すると、哲也が地面に向かって情けない声でわめき始めた。


「だって、無理だろっ! 仮に、次会った時に奏と晴香が付き合ってたとしたら、俺、どんな顔すればいいんだよ!」

「……そうだよね。僕も今までと同じ態度はできないと思う」

「なぁ。どうすればいいんだ?」

「僕も分からないから相談したんだよ」

「……」

「……」


 無言のまま夜の道路を眺める。深夜の時間帯ということもあり、車は全く通っていない。家の明かりもほぼ全て消えており、しんとした暗闇がどこまでも続いているようだ。


「お先真っ暗だな」


 何を思ったのか、哲也が不意に呟いた。


「そう……」


 哲也の言葉を肯定しようとしたけど、僕は途中で言うのを止めた。

 「お先真っ暗」と言うほど、僕の頭の中に絶望感はなかった。もちろん、何か具体的な良い案がある訳では無い。それでも、ほんの僅かな希望を僕は感じていた。


 僕の口角は自然と上がっていた。


「ねぇ、哲ちゃん」

「なんだ?」


 哲也が頭を抱えたままこちらを見る。


「相談した僕がこんな事を言うのも変かもしれないけど、きっと僕たち4人は大丈夫な気がしてきたよ」

「どういうこと?」

「今日、と言うか昨日。哲ちゃんに僕の悩みを相談するまで、哲ちゃんとは絶対に対立すると思ってた。今後一生、友達になれることはないんだと思ってた。でも、今、こうして対立することなく話せてる。

 だから、上手く言えないけど、きっと4人の関係も大丈夫だと思うんだ」

「……なるほどな」


 哲也が頭を上げてニヤリと笑った。そうして、勢いよく僕の肩を掴んだ。


「そうだな。俺たちならきっと大丈夫だ。よっしゃー! 気まずかろうが、居心地悪かろうが、ドンと来いだ!」

「できることなら、それは避けたいけどね」


 そう言っている内に、東側の空が明るくなってきた。山や街の輪郭が少しずつはっきりとし始めている。自然とその様子を眺めてしまう。


「僕。オールしたのこれが初めてだよ」

「なんだよ~。奏は子供だな」

「だ、だって、夜は眠くなるものでしょ?」

「大学生はオールなんて日常茶飯事だぞ。ま、こんなに気持ちいいオールは俺も初めてだけどな」


 哲也が白い歯を見せて笑った。僕もそれにつられてはにかんだ。


「そっか」


 こうして、僕たちは始発電車に乗るために高崎駅へ向かって歩き出した。約1キロの全力ダッシュと人生初の徹夜は体へのダメージが深刻で、歩いているだけでも体の節々が痛かった。

 それに文句を言いながらも、笑い合いながら僕たちは駅の改札まで来た。哲也とは家の方向が逆なので、ここでお別れだ。


「じゃあ、またね」

「おう」


 哲也に手を振ってから、ホームに降りるためのエスカレーターに向かう。


「奏っ!」


 突然、哲也が僕を呼んだ。


「なに?」


 振り向くと、哲也は僕の目を真っ直ぐに見て指差ししていた。その目には、覚悟のような強い意志を感じる。


「奏が晴香を高崎祭りに誘え」

「……」


 僕は少し考えた上で理解した。哲也は、僕に告白するチャンスを譲っているのだ。


「それって……」

「それ以上は言うな。昨日の勝負に勝ったのは奏だ。権利はある」

「で……」


 反論しようとした自分をどうにか抑える。


 哲也はとても良い友人だ。明るくて、面白くて、優しくて、イケメンで、非の打ち所がない。そんな彼が、告白の権利を譲ってくれた。本当なら自分が最初に告白したいはずなのに。

 もしこれを断れば、彼の優しさを踏みにじることになる。それは、ライバルとしてあってはならない。


 だから、僕は言い直すことにした。


「ありがとう」


 哲也は僕の言葉を聞くと、何も言わずにホームに降りていった。


 僕もそれを見送ることなく、すぐにホームに降りていった。「くっそぉぉぉ!」という、声を詰まらせながらの絶叫を背中に受けながら。

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