第3話 初めての膝枕

 ふわふわする。頭の中が霧がかかったようにぼんやりしている。


 あれから僕はどうやって家に帰ったのだろうか。


 最後に残っている記憶は晴香さんの耳元での囁き。

 あれが夢なのか現実なのかは分からない。ただ、声が可愛いということだけは分かった。


 それにしても、感覚がおかしい。


 エアコンを使った覚えがないのに、部屋が異様に涼しい。扇風機も使った覚えがないのに、風が吹いている。それに、ベッドが柔らかくない。と言うよりも硬い。

 対して、枕は柔らかく温かい。反発力があってしっかり頭を支えられている気がする。それに、ほのかにいい匂いがする。

 酔っているせいで頭がおかしくなったのかもしれない。


 自分の状況を確認しようと、僕はそっと目を開く。

 眼の前には、夜空のような天井と、晴香さんの白い肌と黒い髪と黒い瞳の幻覚が見える。


「あっ、ようやく起きた」


 晴香さんの声のようなものまで聞こえてきた。幻聴まで聞こえてくると、本格的に僕の頭はおかしいのかもしれない。


 それにしても、この幻覚はリアルだ。まるで、晴香さん本人が眼の前にいるようだ。

 それに、天井も本物の夜空のように星が綺麗に輝いている。まるで、外で寝ているようだ。


「……あれ?」

「気分はどう?」

「……」


 やっと僕は状況を理解した。ここは家ではない。幻覚でも、幻聴でもない。全て現実だ。


「って、晴香さんっ!?」


 急いで体を起こす。

 ただ、すぐに頭痛と気持ち悪さが襲ってきた。視界がクラクラして目が回ってしまう。また吐いてしまいそうだ。


「あぁ! そんな急に動いちゃ駄目だって」

「うっ。……で、でも、晴香さんが」

「今はいいから、とりあえず、頭、元の位置に戻して」

「う、うん」


 言われた通りに、ゆっくりと下ろして頭を下ろして枕に沈み込む。


「落ち着くまでは、頭動かさなくていいから」

「分かった。ありがとう」


 そうした時に気づいた。

 これはただの枕じゃない。晴香さんの膝枕だと。

 気づいた途端に、異様に恥ずかしさが湧いてきた。


 目を開けば、晴香さんの顔がある。少し目線を横に動かせば、膨らんだ胸がある。それに、サラリとした黒髪が、僕の鼻先に触れそうなほど近くに垂れている。そこから漂う匂いは、男からは嗅いだことのないような、女子の匂いだ。

 

「な、なんかごめん」

「ん。いいよ」


 晴香さんは僕の方を見ることなく、優しい笑顔で答えてくた。


「ここは?」

「飲み屋近くの公園。ベンチでずっと奏くんが起きるの待ってたの」

「僕、どれくらい寝てた?」

「う〜〜ん、分からないけど、大体1時間ぐらい?」

「い、1時間!? ご、ごめん。すぐに起きる」


 1時間も膝枕をしてもらっていたなんて、申し訳ない。今度は気持ち悪くならないように、ゆっくりと体を起こす。


「起きて、大丈夫?」

「うん。ゆっくりならギリギリ大丈夫そう」


 晴香さんの隣に座って、どうにか気持ち悪さを堪える。

 すると、晴香さんがペットボトルを差し出した。


「はい。お水飲んで」

「ありがとう」


 受け取って、すぐに飲む。

 ひんやりとした水が喉を通っていく。すっと浸透するかのように喉を潤してくれる。人生で飲んだ水の中で1番おいしい水かもしれない。


 飲みながら、晴香さんを横目に見る。ついさっきまで、あの膝の上で寝ていたと思うと、嬉しく感じる。ただ、そんな邪な感情は晴香さんに対して失礼なので、これ以上は考えないことにした。


 飲み終えたペットボトルのフタをしめて、晴香さんに再度、感謝を伝える。


「水。ありがとう」

「どういたしまして」

「あれから僕、どうなったの?」

「あれからって、いつからの事?」

「えっと、先輩達と飲み始めてから」


 記憶がなくなってからというもの、何が起こったのかをまるで把握できていない。だから、少しでも情報を知りたい。


「あぁ〜〜。何杯か飲んだあとに、急にフラって倒れちゃってたよ。それで、私が肩貸しながらここまで歩いてきたの」

「うわぁ……」


 フラフラで、歩くことすらろくにできないダメ人間と化した自分の姿が、容易に想像できた。更に、それを晴香さんに助けてもらっているというのが最悪だ


「なんか、色々と迷惑かけてごめん」

「ホントだよ。君は全然歩けないし、重いし、1時間も寝てるし」


 晴香さんが唇をツンと尖らせた。腕を組んで、ご立腹のようだ。


「頭が上がりません」

「それに、お酒ダメって言う割に、どんどん飲んじゃうし。下手したら、アルコール中毒で死んじゃうかもしれないんだよ」

「……ごめん」


 同級生に真剣に怒られた。


 言われていることの全てが正しくて、反論の余地が無かった。

 頭を下げたかった。でも、気持ち悪くなるせいで、それすらもできない。そんな自分が恥ずかしくてたまらない。


 握っているペットボトルを強く握りしめる。


「……でも、ありがとう」

「え?」


 予想外の晴香さんの1言に、僕は耳を疑った。晴香さんの方を見ると、彼女は可笑しそうに笑っている。


「あれ、私のためでしょ?」

「いや、その」

「誤魔化さなくてもいいって。私に運ばれてきたやつ、全部飲んじゃうんだもん。そのくせ、お酒ダメだからすぐに吐いちゃうし、トイレから戻って来たと思ったらまた飲むし」


 その時の僕の様子を思い出したのか、口を手で抑えて笑っている。僕に笑っている所を隠そうとしているのかもしれないけど、肩が上下に動いている時点でバレバレだ。


 ただ、第三者の視点から自分を想像してみると、確かにおかしな光景だったかもしれない。やっていることは、テーブルとトイレを1人バケツリレーしているようなものだから。


 でも、それを未だに笑っている彼女は笑い過ぎな気もする。良く見てみれば涙まで流している。


「そんなに笑わなくてもいいのに」

「だって面白かったんだもん」


 ひとしきり笑い終えた彼女は、うーんと腕を伸ばした。そして、夜空を眺めながら話しだした。


「私さ。自慢じゃないけど、飲み会行くと、しょっちゅう狙われちゃうから、ああいうのは慣れっこなんだよね。

 あっ。言っとくけど、私、結構、ガード硬いほうだからね」

「そ、そうなんだ」


 それを聞いて、ひとまず安心した。

 言い換えれば、恋人にするには難易度が高いということかもしれないけれど。ただ、今そんなことを考えるのは野暮だ。


「でもさ、いくら慣れてても、断るのが大変な時とかはあるわけ。無理矢理に襲われたりしたら、力だと勝てないし。今日も、金澤さんに肩掴まれた時は割と怖かったし」

「……」


 今は晴香さんは冗談めかして笑っている。それは、無事な今だからこそ笑えるのであって、実際に襲われてたりすれば、こんな風に笑えはしない。


「だからさ、奏くんが割って入ってきてくれた時、凄い嬉しかったんだ。あれがなかったら、私、今どうなってたか分からない。ほんと、奏くんのおかげ。

 だから、ありがとう」

「っ! ど、どういたしまして」


 微笑む彼女の笑顔は、月明かりに照らさててとても幻想的だった。それを見れただけで、今日の努力は無駄じゃないのだと思うことができた。


 この笑顔を、僕は一生忘れないだろう。


「それじゃあ、そろそろ駅行こう。終電逃したらまずいし」

「そうだね。うっ」


 立ち上がって、また気持ち悪くなった。それに、足元がおぼつかない。


「もぉ、大丈夫?」


 晴香さんが肩を貸してくれる。再びお世話になってしまった。


「ほんと、ごめん」

「ん。いいよ。あっ! でも今度、お水と膝枕分、何か奢ってね!」


 ニヤニヤしながら彼女が僕を覗いた。

 僕は苦笑いをするしか無かった。


 ただ、「今度」という言葉が聞けたことが嬉しかった。


 そうして高崎駅まで一緒に歩き、僕はなんとかして自宅に帰ってきた。

 着替えることもなくベッドに横になる。真っ暗な部屋で目を閉じる。ふわっとした不安定な浮遊感に襲われる。

 この調子だと、二日酔いは確定だ。きっと、夢も悪夢を見るに違いない。

 ……そういえば、何か忘れているような気がする。


 そんなことを思っていると、スマホから通知音が鳴った。


「こんな遅い時間に誰だろう」


 眠気と気持ち悪さで半開きの目をこじ開けて確認する。ラインに新着のメッセージが届いていた。送り主の欄にはHarukaと書かれている。


Harukaはるかってことは……晴香さん!?」


 ベッドの上で正座になる。息を呑み、心構えをしてからメッセージを読む。


『さっき言い忘れてた』

「言い忘れてた?」


 不思議に思っていると、続きのメッセージが送られてきた。


『おやすみ!』

「……」


 僕はすぐに返信しようと文字を打ち込んだ。


『おやすみ』


 この4文字を打ち込むのに10分以上掛かったことは言うまでもない。


 ただ、今日は良い夢が見れそうだ。

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