第6話 雨

「わたしは碓氷うすい真渚まな。真の渚って書いて真渚まな。きみは?」


 真渚まなと名乗った彼女は、ジーンズに白いTシャツ──胸元に青りんごが描かれている──というラフな格好をしていた。碓氷うすいさんは僕の横に腰を下ろし、両膝を手で抱えて座った。座った拍子に彼女からほんのりと甘い香りが漂ってきた。


「──僕は、あかつき野空のあ。野原の野に空」

「よろしくね」


 碓氷うすいさんは顔を横に倒して腕に乗せ、僕を斜めに見上げた。


「ところで、どうして泣いてるの?」

「えっ」


 僕は碓氷うすいさんの登場に気を取られたせいで、自分が泣いていたことをすっかり忘れていた。僕はすぐに袖で涙を拭き、顔を背けた。


「──なんでもないよ。なんでもない」


 あまりに慌てて拭いたせいで肌がひりついた。


「隠さなくたって笑わないよ。私も毎日泣いてるもの」


 碓氷うすいさんは微笑みながら言ったが、僕はその笑顔に哀しみがこみ上げてきた。僕と一緒だ。僕と一緒できみも──。


「きみも一人なんだね」

「うん。みんなあっちに行っちゃった」

「──そうだね」


 僕はまた空っぽになった街に目を向けた。みんなか。その何気ない言葉が、氷塊をじんわりと溶かすお湯のように、僕の心にゆっくりと染みわたっていく。


「ありがとう」


 碓氷うすいさんが言った。碓氷うすいさんは僕を見上げていた。僕も全く同じ気持ちだった。


「私はずっと、あなたみたいな人を探してたの。この数ヵ月、毎日ずっと、色んな町を歩いた。だけど、誰もいなかった。私は、ほんとに一人になったんじゃないかと、不安で不安で。何度も諦めかけた。でも、諦めなくて良かった。今日あなたに会えたから」


 碓氷うすいさんは大粒の涙を流しながら笑っていた。作られていない、心の底から漏れ出た笑顔。不完全で、完璧なそれは間違いなく本物の笑顔だった。


野空のあくんは」

「うん?」

「どうして泣いてたの?」


 碓氷うすいさんは溢れ出す涙を両手で払いのけながら聞いた。しばらくすると、彼女は赤く腫らした目で真っすぐに僕のことを見つめた。


「あなたのことが知りたい」


僕はうなずいた。その気持ちも僕と同じだった。


「きみがどうして、歩き回っていたのかを教えてくれるなら」

「もちろん」


 碓氷うすいさんは子供のように大きくうなずいた。


 僕は今日あったことと、母さんのことを話した。碓氷うすいさんは僕の話を遮ることなく、真剣に聞いてくれた。ばからしいとか、そんなこと忘れろとか、AIを使えば会えるだろとか、理解できない、普通じゃない、変わり者、いかれてる、どっか行け、消えろ、関わるな、そんな言葉を投げかけられることもなかった。むしろ、僕の心の奥の奥、暗澹とした影の底まで理解してくれているようにさえ見えた。


 話し終えたとき、彼女は「辛かったね」とただ一言、そう言ってくれた。憐れみでも、軽蔑でもない、共感の眼差し。それだけで十分だった。


碓氷うすいさんは?」

真渚まなでいいよ。こっちの世界に残っているのは、私たち二人だけかもしれないのに、苗字で、しかもさんづけだなんて寂しいよ」


 碓氷うすいさ──、真渚まなはそう言ってはにかんだ。言われてみればそうだ。少なくとも今は、僕ら二人きり。交差点のど真ん中に座りこんで話している。それなのに、「碓氷うすいさん」は、確かに違和感しかない。


 僕はふっと小さく鼻で笑った。自分で言っておいて、自分がおかしかった。


「そうだね。その通りだよ。じゃあ改めて」


 僕は何となく居ずまいを整えた。


真渚まなはどうして毎日泣いていたの?」


 真渚まなはふふっと笑うと、そうねと言ってしばらく空を見上げた後、自らの過去を語り始めた。


「実は私も、昔はみんなと同じで、あっちの世界に入り浸っていたの。小さいときに、目の前で両親を殺されてね。現実とメタバースの区別がつかなくなった人だった。錯乱して、包丁を握って暴れ回って、そいつは私に襲いかかった。両親が必死に抵抗して私は助かったけど、二人はだめだった。目の前が血で真っ赤だったことをよく覚えてる。

 私は現実を受け入れられなくてね。メタバースの中で毎日何時間も、ご飯も食べないで、お父さんとお母さんと一緒に過ごしてた。あっちの世界の二人は、私が望んだことは何でもしてくれた。甘えたいときに甘えられたし、遊びたいときに遊べたし、怒られることも無かった。すると段々、お父さんとお母さんは死んでない、生きてるんだって思うようになったの。むしろ、こっちの方が良いとも思ってた……。そして一か月も経つと、二人の居ない現実世界が嘘で、二人の居るメタバースが本物なんだって思い込むようになってた。

 バカだよね。現実の区別がつかなくなった奴に両親は殺されたのに、その私が区別つかなくなったんだから」


 僕はそんなことないと言おうとしたが、さっき真渚まなは僕の話を最後まで静かに聞いていてくれたことを思い出して、僕は首を振るだけにとどめた。


「そんな私を救ってくれたのが、お兄ちゃんだった。お兄ちゃんって言っても本当の兄妹じゃなかったけどね。お兄ちゃんは現実世界で廃人同然だった私をお世話して、何度も説得してくれた。ご飯を持ってきて食べさせてくれたり、私に付き添って寝てくれたり、トランプで遊んだり、マジックを見せてくれたり。

 そしたらそのうち、なんて言ったらいいのかな……。メタバースでお父さんとお母さんと握った手が冷たかったの。温度で言えばもちろん温かかったよ。でも、その中身というか、芯の部分に冷たさを感じちゃった。途端に私は怖くなった。その日からメタバースにも行かなくなった。お兄ちゃんが近くにいて、教えてくれたおかげだと思う。だからとっても感謝してる」


 真渚まなは言葉とは裏腹に口元を歪めた。僕は、そのお兄さんと何かあったのだとすぐに理解した。そうでなければ、孤独に誰かを探し続けたりしなかっただろう。


「お兄さんはどうなったの?」


 真渚まなはうつむき、ゆっくりと口を開いた。


「あっちの世界に行っちゃった。私にあんなに説得してくれたのにね。何でだろうね。最後には『お前うざいよ』って言われちゃった。

 私、お兄ちゃんのことが好きだった。だから、それを言われた後、しばらく立ち直れなかったな。ずっと泣きっぱなし。だけど、周りには誰もいなかったから、慰めてくれる人もいなかった。一人で泣き続けるのがあんなにも辛いって、初めて知った」


 真渚まなはおもむろに立ち上がり、手の平を胸の前まで上げた。空では真っ黒な雲が現れ、小雨を降らせ始めていた。


「でもね、このままじゃダメだって思った。あの手の温もりを忘れてしまうのだけは嫌だった。だから探すことにしたの。私みたいに、この世界からうざいって除け者にされた人を」


 真渚まなは雨粒を握りしめ、振り返った。その表情は決意に満ちていた。雨は土砂降りになって、僕らの体を強く打ち付ける。


 僕は立ち上がった。そして、手を差し出した。真渚まなは一瞬、固まって僕の手を見つめた。そして、強く手を握りしめた。彼女の手は温かった。


「これからよろしくね、真渚まな

「うん、よろしく。野空のあ


 僕らは互いに笑い合い、見つめ合った。何もしていないのに幸せだった。


「屋根の下に行こうか」

「そうね。もうこんなにずぶぬれだけど」


 僕は建物の方へ移動しようとしたが、真渚は動こうとしなかった。真渚まなは道路の先を不思議そうに見つめていた。


「どうしたの?」


 真渚まなは見ている方向を指さした。そこには、この大雨の中、大量の大型トレーラーを引き連れたロボットの大群があった。


 僕はその黒い行進に、強い胸騒ぎを覚えた。

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