第5話 流れる雲
僕は走っていた。家を飛び出し、車一台も、誰一人もいない道の真ん中を全力疾走していた。やがて、住宅地を抜けて駅前の大通りに出た。通り沿いに立ち並ぶ店舗は軒並み暗かった。信号機すらついていない。
僕は道の真ん中まで飛び出してみたが、そこにはやはり、ひとっこひとりいなかった。僕は息を弾ませ、脇腹を押さえながら駅まで走って行った。
駅前には広い交差点があり、その交差点を円形に取り囲むように巨大なビル群が立ち並んでいた。僕は交差点の中心に立つと、辺りを見回した。かつては昼夜を問わず、大勢の人々が行き交っていた街が、今は廃墟同然だ。あんなに高いビルも、広い交差点も、大きな駅も、使う人間がいなければ何の意味もなさない。あとは、ただ崩れるのを待つだけの存在だ。
意味、か……。
そう考えれば、あっちの世界にあるものには意味がある。誰かの願いに応えて生み出され、その人の欲望を満たす道具になる。こっちにあるものはもう、誰の欲望を満たすこともない。
僕だってそうだ。もしこの世界に取り残されたのが自分一人なら、後はただ死ぬのを待つだけの存在。この街と同じで意味がない。
僕はその場に大の字に寝転んだ。交差点の真ん中で寝転がることに、僅かな罪悪感とそれ以上の解放感を覚えた。
灰色のビルに丸く切り抜かれた空では、千変万化の雲が流れては消えていった。その雲を眺めながら、自分はこれからどうするべきかに思いを巡らせた。多くの人々と同じようにあちらの世界で自由を謳歌するのか、こちらの世界で孤独ながらも自由を生きるのか、それともいっそのこと、こっちでもあっちでもない世界に飛び立ってしまうか。
僕はビルの屋上に目を向けた。どうせなら、誰もいないと思って猛スピードを出して走る車に轢かれるのがいい。自分で飛び降りるのは気が進まない。
僕はいつの間にかウトウトしていた。雲の中に母さんの顔が浮かび上がる。母さんは痩せ細った指で僕の頬を撫で、弱弱しい笑みを浮かべる。そして、「だいじょうぶ」と声をかけてくる。僕はまた涙が流れているのを感じた。だけど、もうそれをぬぐう気力もわかなかった。
母さんの顔を象った雲は崩れ、流れて消えた。そして、また新たな雲が流れて一人の女性の顔を形作った。それは見たことがない女性だった。丸く輝く目に、小さな鼻、大きく横に引き延ばされた口。黒髪のショートヘアで、素朴な顔立ちながらも、快活さがその笑顔からにじみ出ていた。
「だいじょうぶ?」
その女性が聞いてきた。僕は初め、自らの妄想が作り出した雲の幻影に過ぎないと思って無視をした。どうせすぐ、消えてなくなるだろうと思っていた。しかし、その雲は消えないどころか触れてきた。
僕は声にならない声を上げ、そしてようやく理解した。目の前にいる女性が本物の女性であることを。僕は驚きのあまり跳ねるように体を起こし、彼女をしばらく見つめ続けた。彼女もまた、僕を見つめ続けた。彼女の瞳の中の僕が、僕を見つめ返している。
じわじわと鳥肌が全身を駆け巡る。僕は一人じゃなかった。その事実が今の僕にとっては途方もなく嬉しいことだった。
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