第4話 海

「ほら見ろよ、ウミガメだ。砂浜を登ってくる」


 かいは渚からこちらに向かって来ようとしているウミガメを指さしながら言った。僕はレモネードのグラスを持ち、ストローで吸った。程よい酸味と甘みが口の中に広がる。


 僕らはビーチにいた。僕ら以外誰もいないプライベートビーチにパラソルを立て、向かい合わせに座っている。ビーチは、時々ヤシの木を生やしながら、見渡す限り永遠に弧を描きながら続いていた。


「向こうの世界では何をするにも運と時間が必要だ。分かるだろ。でも、ここでは願えばいい。たったそれだけでこうやって現れる。完璧な恋人も、友だちも、兄弟も、ペットも、何でもだ。理想を願うだけでいい。簡単だろ」


 ウミガメは懸命にその短いヒレで砂をかいていた。


 確かにそうだと思う。現実では願ったところで何も手に入らない。でも、だからこそ得られるものがあるのだと思う。それとも、変わりゆく価値観を受け入れられない自分を、正当化したいだけなのだろうか。


 何かが足をつついた。下を見ると、いつの間にかウミガメが足元までやってきて、足首に顔を押し当てている。僕を見上げるそのつぶらな瞳は、確かに本物とよく似ていた。頭を撫でようかと手をテーブルの下に下ろし、途中で止めた。


「──お前、動物好きだったよな」


 かいは撫でないのかと言いたげだった。僕は撫でるのは止め、体を起こした。


「好きだよ。でも、本物の動物をだ。これは……、かいが作ったものだ。撫でればお前が願った通りの動きをする」

「不満かよ」


 かいはあからさまに不機嫌になった。快晴の青空に黒い雲が現れ、波が荒れだした。ウミガメは僕らから離れて行き、パラソルがバタバタと揺れ始める。


「不満じゃないさ。でも……」


 僕は言葉に詰まった。自分でもなんと言葉にしたらいいか分からなかった。限りなく本物に近いもの、知らなかったら本物だと信じてしまうほど似ているもの。それでも、自分はそれが本物でないことを知っている。自分の想像の域を出ない予定調和に動くそれらに対し、どう接すればいいのか。この世界で母さんと会った時もそうだった。母さんは僕がかけて欲しい言葉を一言一句違えずにかけてくれたけど、それ以上の言葉も、それ以下の言葉もなかった。母さんはあくまでも僕らの記憶と記録でしかなかった。母さんが胸の内で抱えていた喜びも悲しみも苦しみも、僕に対する想いも、その言葉からは何一つ伝わってこなかった。

 ああ、これはただ言わされているだけの人形に過ぎないんだなと、そう思ってしまったあの時から、僕はこの世界が好きになれなかった。


 僕が黙りこくっている間に雨が降り出していた。遠くでは雷鳴が轟き、サイクロンが真っ黒の渦を巻いていた。それでも、かいの声だけは、はっきりと聞こえてくる。


「お前に、ずっと言いたかったことがある」

「なにを?」


 かいは立ち上がり、拳をテーブルに打ち付けた。


「もう俺と関わらないでくれ」


 その直後、雷がパラソルを直撃して焼け焦げ、テーブルは粉々に砕け散る。覆いが無くなり、大量の雨粒が僕らの顔に吹きすさぶ。


「──ちょっと待てよ。かい、お前、何を……」


 僕はかいに一歩近づいて、手を伸ばした。かいはその手を振り払う。


「もう我慢の限界だった。ほとんどの人間は、こっちの世界に来て、満喫しているのに。お前は向こうの世界で会おうだなんて言い出す始末。未だにあんな時代遅れの箱を使って俺に連絡してくる」


 かいは手のひらの中にスマホを出して掲げ、握りしめ、粉々にした。


「何もかも自由にできる。ここはそう言う場所だ。なのに、お前はまったく自由にしないばかりか、ここを否定する。ここはお前みたいな変人には相応しくない。

 お前は友達だった。だから、仕方なく付き合ってやってた。だけどな、お前みたいな奴と付き合ってても何一つ楽しくなかった。お前から連絡が来るたびに、俺のこの完璧な世界の一部が崩れ去った。お前がこの世界で唯一のストレスだ」


 かいは息を切らせず、一息で言い切ると、荒れ狂うビーチは消え失せ、一瞬で駅のプラットフォームに立っていた。そして、電車がやってきて、かいの前で止まると扉が開いた。


「もう二度と、俺に連絡してくるな」


 かいはそう言い残すと、電車に乗って消えてしまった。さよならも、手を振ることさえもしなかった。

 僕は放心状態のまま、振り返ると別の電車が扉を開けて待っていた。僕は体が動くに任せて、電車に乗り込んだ。電車はかいとは反対の方向に走り出す。


 気が付くと、目の前には薄暗い白天井、体には浮遊感があった。上体を起こすと、口元に一つの雫が垂れてきた。無意識に舌がその雫を舐めとった。それはとても、しょっぱかった。

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