【オシドリは雛鳥に】
……目を覚ますと大学進学を機に出た実家の自室だった。
数え切れないほど見てきた天井に、懐かしいひも付きのシーリングライト。
そして見知った家具に、捨てたはずの学習机。
「……は?」
思わず声が出る。
当然だった。
何せ実家の自室は春斗が家を出て以降、物置として使われていたはずだったからだ。
春斗が年末に帰省した際に見た自室。そこにはベッドもなければ本棚に並べられた漫画も無かった。
あったのはゴミ袋に詰められた使わないまでも、思い出として残してある雑貨と、買い換えたは良いものの、処分が面倒な家電だけだったはず。
それなのに……。
――まるで高校時代の部屋……そのものだ。
春斗はゴロリと存在しないはずのベッドで寝返りを打つ。
……確かに感じる質感。夢でないことはすぐに分かった。
ドキドキと胸が高鳴ると、それに伴い襲い掛かってくる焦燥感が春斗の心を締め付けた。
――どうなってるんだ!? さっきまで雪奈と朝食を取ってて……それで……あぁ、ダメだ。それ以降の記憶が曖昧だ……。仕事に行ったっけ? それすらも思い出せない……。
春斗は文字通り頭を抱える。
自身の経験している状況が未だに理解できず、思考の処理が追いつかない。
一体自分の身に何が起こっているのか。
頭が割れそうなほど痛い。
今はいつで、自分は誰なのか。
何もかもが曖昧だった。
そんな時――ふと視界に影が映る。
それは昔の自分が毎日見ていたものだった。
「……前髪」
――確定だ。
春斗は寝っ転がりながら前髪を指で摘まんだ。
今は無くて、昔はあった前髪。
社会人――営業職に就いた事をきっかけに、髪を短くして前髪を上げ始めた。
それなのに今、視界に映るくらいに前髪が伸びている。
姿を変えた自室。
長い前髪。
そして、起き抜け一発目に訪れるはずのニコチンの禁断症状を感じない体。
「これ……昔の俺だ」
自分で何を言っているのか。
それすらも分からないくらいに頭が混乱していた。
しかしそんな彼でも今、自身が置かれている状況だけは把握する事ができた。
――まぁ、分かったところで何ができるって話だけど……。
言わずもがな、春斗にとってその事象を飲み込めるかどうかは別の話であり、精神が未熟だったら悲鳴の一つも上げていただろう。
――とりあえず……動いてみるか。
意を決するようにベッドから体を起こすと、重い体を引きずりながら自室から出る。
外は薄暗く、今が夜明け前なのか、それとも夕暮れなのか……それすらも分からないが、それでも行動しないことには何も分からないままだ。
春斗は階段を降り、洗面所、キッチン、リビング。それらを見て回り、そして再認識した。
家具の配置の違い。
母が昔、気に入って使っていたが数年前に生産中止になった洗剤。
当時CMで人気を博した掃除道具。
そして自分が学生時代に使っていた高校生御用達の安価な整髪剤。
どれもこれも過去に戻った事を確信させるものばかりだった。
いよいよ夢を見ている以外、この状況――自分が過去に戻ってしまった事への反論を行えなくなった。
――本当に過去に……? そもそも今はいつだ?
春斗は変わらず納得こそしていないが、一つの可能性として時間を逆行した事を頭に入れつつリビングにかけてあったカレンダーを見る。
すると――。
「20〇〇年、四月。俺が高二の春……か」
春斗は自身の年齢とカレンダーに表記されている西暦を照らし合わせて、今がいつなのかを計算する。
そして今がいつなのかという事を把握すると、当時の記憶と家の状態が全く一緒だという事に気付いた。
ますます時間を逆行した事への確信が深くなる。
強い焦燥感と、どうしようもない孤独感。
そんな感情が春斗を襲った。
職場の同僚、大学時代からの友人、そして……共に過ごしてきた妻である雪奈。
幸か不幸か、雪奈との間に子供がいなかった事だけは救いだが、それでもこれまでの人生で作り上げた関係が一瞬で消え去ってしまったような……そんな感覚が春斗を埋め尽くすと、その感情のままリビングのソファーに倒れ込んだ。
どれくらい倒れ込んでいただろう。
少なくとも一時間以上はこうしていた気がする。
頭の中に流れるのは逆行する前の思い出の数々。
高校時代こそ良い時間を過ごすことはできなかったが、大学進学以降は良い友達にも恵まれ、就職後も楽しい時間を送ることができた。
仕事は大変だったし、最近こそ余裕のあるような生活を送れるようになったとはいえ、同棲を始めて数年は営業の結果が出ずボロボロのアパートでお金のない生活をしていた。
まぁ、それはそれで楽しかったし、隣には雪奈が居た。だから頑張れた。
お金がない中、色々と工夫しながら生活した。
安い食材を買って二人で料理をしたり、お金が勿体無いからとゴミ袋を被り、市販のハサミで自分達で髪を切ったりもした。
学生同士のようなドキドキとした……それこそ物語のような恋愛は送れなかったかもしれない。
手を繋ぐ度に緊張したり、学生らしいイベントもこれといって無かった。
それでも、大人だからこその落ち着きや癒しがそこにはあったのだ。
「……雪奈」
無意識に名前を呼ぶ。
最愛のパートナーであり、当然のようにこの先も一緒に居ると思っていた相手の名前を呼ぶ。
しかしその言葉への返答は当然無かった。
この時代の雪奈はただのクラスメイトで、春斗との関係も無ければ、共に過ごした時間の記憶もない。
別々の家に住み、それぞれの人生を歩んでいる。
もしかすると数年後、同じように交際し結婚できるかもしれない。
それでも……この孤独感を拭うことはできなかった。
「あぁ、ダメだ……」
立ち上がることのできない春斗はそう呟く。
どうでも良くなった……という訳ではないが、それでも無気力なのは変わらない。
当然のようにそこにあったモノが突然消える悲しみというのは、春斗にとっては到底受け入れられるモノではなかったのだ。
しかし、こうしているだけで事態が変わることがないという事もまた、大人の精神を持った春斗なら分かっていることで――。
「……よしっ!」
春斗はそんな掛け声と共にグっとソファーから体を起こす。
本当ならこのまま動かずに居たかった。
でも……それでは何も変わらない。
前の時間に戻るとしても、このままだとしても……まずは行動しなければ何も解決しないのだ。
そもそも今の春斗は学生で、もしもこのまま家に閉じこもったままなら、将来は無職……引きこもり一直線なのは分かりきっている。
学校には雪奈が居るはずだ。
関係こそ違うが雪奈なのには変わりない。
雪奈が居るなら……将来、もしも前のように再会することができたとして、無職の情けない奴のことなんて見向きもしないだろう。
だとしたら……。
――考え方によっては、今の俺にアドバンテージがある……か。
今の時代よりも先行した知識と社会人としての経験。
営業で得た人脈こそ消失してしまったが、それでもこの時代――学生生活を送る上で有利なのは変わらない。
「大学、社会人……経験。上手くやれば前よりも雪奈を苦労させずに済むかも……しれない。それなら……やることは一つだ」
春斗はこの先、自分がやるべきことが見えたところで、昔の記憶を頼りに棚からハサミを取り出すと、浴室へと向かうのだった。
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