【再会する雛鳥】
「やっぱりこれだね」
春斗は仕事を済ませ、用済みとなった濡れたハサミをタオルで拭き取ると、洗面台にある鏡に向き合う。
鏡に映る自分。
ドライヤーで前髪を上げ、バンクアップような髪型にすると少々顔付きは幼いが、前の時間軸と同じように髪を短く整えられた姿がそこにはあった。
――つーか、昔の俺は良くこんなの我慢できたよね。前髪が目に入るし、ただただウザったいだろ……。でも……まぁ、自分で髪を切るのも久しぶりだったし……少しだけ楽しかった。
春斗は過去……いや、ここだと未来の話を思い出し、小さく笑う。
それは雪奈と同棲し始めた頃の記憶だった。
お金がなかった当時、雪奈と春斗は自分の髪を自分達で切っていた。
動画でセルフカットのコツを調べて、大きなゴミ袋を被り、安いハサミを使って自分達で済ませる。
後ろは怖いから、雪奈に見てもらいながら慎重な手付きで……それでいてお互いの笑い声で包まれながら髪を切っていたのだ。
――雪奈は高校時代はヘアアイロンが手放せないストレート至上主義だったと昔を懐かしみながら、大人っぽいカットを勉強しながらやってたっけ……。
そんな思い出が脳内に流れる。
一つを思い出すと、連鎖するように他の思い出の数々が脳裏をびっしりと埋め尽くした。
「俺って……こんなに弱い人間だったんだな……」
頑張ろうとした矢先、鏡に映る春斗は今にも泣きそうな顔をしていた。
涙をギュっと我慢するが、止めようとしても止まることのない記憶の数々が春斗の感情を刺激すると手が震え涙が零れる。
しかし、今ここで自分が折れたところで何も変わらない……どころか悪化するばかりなのは分かっていることだった。
泣きながらでも前に進まなければいけない。
だから――。
「頑張る……か」
春斗は洗面台に置いていたタオルを手に取ると、グっと自分の情けない顔を拭い洗面台から出た。
春の風が吹く通学路。
昔は特に何も考えずに、ただ歩いていた道。
しかし、今は少しだけ違う事を感じることができた。
学生時代という人生において特別な時間。
当時の春斗はこれが普通の事だと……これが永遠に続くものだと思っていた。
しかし、時間というのは有限でいつかは学生という身分から大人という存在に変わる。
頭では分かっていた事だが、それでも実際に学生から大人になるプロセスを踏んだ春斗にとっては、その感覚を直に感じることができた。
制服を着て同級生の友達と話したり、遊んだり。中には仕事や立場、責任の事なんて考えることなく彼氏、彼女として関係を深め合う。そんな人だっているだろう。
大人よりもシンプルで……それでいながらどこか難しい瞬間。尊くも確実な終わりがある……そんな空間。
――まぁ、俺の場合は高校時代に良い思い出は無いんだけどね。
春斗は過去の自分の高校生活を思い出し苦笑いを浮かべた。
当時の春人は人見知りで……友達らしい友達は少なかった。
大学進学を機に多少は改善されたが、それでも高校時代という特別な時間に何か良い思い出はありますか? と聞かれたところで思い当たるものは無い。
教室では浮いていたし、イベントでは毎回大人しく過ごしていた。
特別イジメられたという事も無かったが、それでも良い記憶というのは無かったのだ。
「ちょっと緊張してきたかも……」
春斗はそう呟くと雲一つない空を仰ぐ。
社会人の精神で学校に登校する。
言ってしまえば社会人と学生が交流を図るようなものなのだ。
それがどれだけ異質で、どれだけ精神を使うことか……。
――それに……学校には雪奈が居る。俺と何も関係のない、ただのクラスメイトの雪奈が……。
そう思うと足が震えた。
話しかけたところで、怪奇な視線を向けてくるのは目に見えているし、変な奴認定されるかもしれない。
以前のようなやり取りはもうできないのだ。
これまでと今のギャップ。
それが……それがとにかく怖かった。
唯一の救いは春斗の通う学校、栃木県立清流高等学校が高校三年間を通してクラス替えが無く、既に顔見知りだということだが、それでもこれまでただのクラスメイトだった男が急に声をかけてくるなんて普通に怖いし、まともに相手しないだろう。
雪奈の性格も相まって、その対応は容易に想像できた。
「……それにしても、本当に懐かしい空気だったな」
春斗は嫌な想像を振り払うように頭を左右に振ると、今朝実家で髪を切った後の両親との会話を思い出す。
現実逃避に変わりはないが、こうでもしないと学校までの足が止まってしまいそうだった。
突然髪を切った息子の姿に驚く記憶よりも少しだけ若い容姿をしていた両親。何もしなくても当然のように出てくる朝食。既に放送が終了していた朝のニュース番組。
両親が既に亡くなっていたならばその再会に感動するところなのだろうが、今でもピンピンしていたため、覚える感情はただ懐かしいというものだった。
――でも……結局親孝行はできてなかったし、今回は色々とできれば良いな。
時間を逆行する前に色々としてもらった両親に対してそんなことを考える春斗。
雪奈に対しても両親は良くしてくれたし、一人暮らしを始めた時や同棲を始めた時はお金の援助や家具をくれた。
大人としての立場を経験し、そして時を遡りもう一度学生に戻ったからだろうか。
そんな風に思う事ができた。
これもまた学校に向かうことへの現実逃避だったが、それでもこれから過ごさなければいけない人生に対して前向きな気持ちになるならと春人はその思考を受け入れると、学校への通学路を歩く春斗。
そして、いよいよ校舎が見えてくるという時...…。
俯いた顔を上げると校門に立っていた一つの影と目が合った。
「「あ゛」」
硬直し見つめ合う両者。
傍目に見れば、この二人の行動はおかしなものだっただろう。
学生が二人、校門の前でお互いをガン見し合い硬直しているのだから。
しかし……こと、この二人にとっては、この反応は正しいものだった。
何せこの”時間軸”において”存在するはずがない存在”が目の前に……それこそ手を伸ばせば届く距離に立っていたのだから……。
「……雪奈?」
「……ハル?」
お互いを呼び合う二人。
男子は名前を。
女子は愛称を。
それは交際し結婚しても変わることの無かった呼び方だった。
「その髪……もしかして」
「……うん。ハルも?」
春斗と雪奈。
両者にとって、高校時代の記憶にある相手とは違う見た目をしていたのだ。
高校時代、目が隠れるほど前髪を伸ばし、気怠そうにしていた春斗。
そしてストレート至上主義を語れるくらいには髪をストレートにして、髪も肩どころか腰にも届きそうなほど伸ばしていた雪奈。
それがどうだ。
春人は髪を短く切り、前髪を上げてスッキリとした容姿になっていて、目の前に佇んでいる雪奈は雪奈で、髪を肩まで髪を短くしており、あれほどアイロンが手放せなかったと言っていたのにも関わらず元々の緩いウェーブそのままに、大人っぽい髪型をしていた。
見間違えるはずがない……。
目の前にいる雪奈。それは春人が時間を逆行する前に散々見てきた――ここで言う”未来の妻”そのままの姿で現れたのだった。
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