第二幕 『鈴蘭が描かれた花瓶』

 親友の幸せになった姿を見て、千景は胸元の前で両手を合わせる。


(よかった。本当によかったわ)


 侑希子の縁談が決まったとき、彼女は憂いを帯びた表情をしていた。


 実は篠田家は元旗本であり、彼女の祖父が新しい時代を生きるために刀を捨て、商売に着手した過去を持つ。


 一方で花岡家は元公家であり、篠田家とは朝敵という立場だったが、貿易業に力を入れたい当主の花岡誠が篠田商会の功績を見初め、結婚を申し入れたのだ。


 侑希子の両親は花岡誠一郎との結婚を心待ちにしていたが、侑希子は『観劇に理解がある方だといいのですけど』と冗談めいた口調で寂しそうに微笑んでいた。


 その彼女がいま、誠一郎の隣で花がほころぶような笑みを浮かべている。


 しかも侑希子から少し離れたところに見知った学友たちの姿もあり、侑希子は学友の姿に気づいたのか、ぱっと表情を明るくさせる。


(わたくしもいますぐ駆け寄って喜びを分かち合いたいけど……今日のわたくしにその資格はないから)


 千景は感情をこらえ、結婚に憧れを抱く少女のような顔で、侑希子に羨望の眼差しを向ける。せめて来賓の一人として、彼女の幸せを祝いたかった。


「ちひろ、これをどうぞ」


 そのとき、赤月からオレンジジュースが入ったグラスを手渡された。周囲をよく見れば、乾杯の音頭を取るために給仕たちが飲み物を配り歩いている。


(赤月さまの手にあるのは……麦酒ビール?)


 千景はなんとも言えない顔で彼を見つめる。


「物申したい顔をしているね。お兄さまに隠し事はなしだよ」


「別に隠し事はしていません。ただお酒は思考判断を鈍らせる悪い飲み物と聞いたことがあったので」


 和冴はあんなものを嬉々として飲むやつの気が知れないとよく漏らしていた。そのため、お酒に対してよくない印象があった。


「人によってはそうかもね。でも俺にとっては機会を引き寄せる良い飲み物だから」


 嬉々としてグラスをかざすため、千景は改めて赤月と和冴は正反対の性格だと思いながら、乾杯の合図に合わせてグラスを掲げる。


 乾杯の音頭がとり行われたあとは、食事が振る舞われる。


 大食堂のテーブルだけではなく、庭先にも椅子やテーブルが出され、数多くの料理が並んだ。


 侑希子と誠一郎は食事に手を付けることなく、来賓の方々に挨拶を交わしている。


「いまのうちにいただこうか」


 そういって赤月は苺とクリームのサンドイッチやスコーンを皿に乗せる。千景も真似してお皿にバタークリームのケーキを乗せ、大食堂の壁際に立つと、小さく口を開ける。


(……美味しい!)


 千景は舌の上に広がる甘くて濃厚なバタークリームを堪能するように、うっとりと目を閉じる。


「美味しいかい?」


「はい!」


 これには満悦の笑みを浮かべる。


 周囲の様子をうかがいつつ、滅多に食べることができないケーキを味わっていると、誰かがこちらに近寄ってきた。


 三十代後半くらいの黒い背広服を着た男性で、黒縁の眼鏡をかけており、鼻下にはちょび髭が生えていた。


「東雲君? 東雲君ではないか! まさかこんなところで会えるとは!」


「これはこれは、神崎さま。どうもご無沙汰しております」


 赤月が深々と頭を下げると、神崎と呼ばれた男性は彼の背中を叩いた。


「帝都に戻っていたのなら声をかけてくれればよかったのに! ちょうど応接室に飾る絵を新調しようと思っていてね。明日にでも見繕ってほしいのだが」


「ご要望に応えたいのですが……申し訳ありません。今回は仕事で帝都を訪れているわけではないのです」


 赤月は斜め後ろに控えていた千景に視線を送る。


「お初にお目にかかります。東雲ちひろと申します」


 緊張した面持ちで頭を下げると、神崎は目を見張る。


「君の妹さんか?」


「ええそうです。大切な妹に帝都を案内するために戻ってきましてね。見てください、この愛らしさを。片時も目が離せないのですよ」


「お兄さま、わたくしももう十七歳なのですよ? 子ども扱いをするのは控えてください」


 頬を膨らませて苦言を呈するが、赤月の顔は緩んだままだ。


 神崎は苦笑してから、千景の目線に合わせるように身をかがめる。


「君のお兄さまはすばらしい審美眼をお持ちでね。いつもお世話になっているのだよ」


「まあ、そうなのですね!」


 ぱっと目を輝かせると、神崎は「おおそうだ」と声を上げる。


「このお屋敷には滅多にお目にかかれない美術品が展示されているというではないか。もしよければ一緒にどうかね?」


 千景と赤月は顔を見合わせる。彼のご要望を断っている手前、無下にはできない。それに鈴蘭が描かれた花瓶を実際に見る絶好の機会だ。


 千景は赤月の裾を掴み、上目遣いをする。


「お兄さま、わたくしもぜひ見てみたいわ」


「そうかそうか。では神崎さま、共に参りましょう」


 そういって赤月は神崎の隣に立ち、談笑しながら人混みをかき分ける。


 その際、千景は無言のまま「本当に美術商だったのですね」という意味を込めて彼を見つめていると、彼は顔だけ振り返り「本当に美術商なんだよ」と言わんばかりに片目を閉じた。


(びっくりしたわ……背中にも目がついているのかしら?)


 脈打つ鼓動に耳を傾けながら、千景は内心でため息をつく。


(それにしても、赤月さまの審美眼は泥棒家業で養われたとは口が裂けても言えませんわね)


 鑑賞部屋は、一階の応接室と書斎の間にあった。


 重厚な扉で仕切られ、美術品が日焼けにより劣化しないよう、部屋に窓はない。


 窓や障子がある部屋に慣れきっている人であれば圧迫感を抱くだろうが、豪華な額縁に囲まれた絵画や、宝石がちりばめられた小箱や、艶やかな陶器の小茄子の茶入れなどを前にすれば、息を呑んで見入ってしまい、部屋の窮屈さなど気にならない。


 周囲を見回しながら歩いていると、ふと赤月が足を止めた。


 彼の視線の先にある宝を見て、千景は眉を寄せる。


(もしかしてあれが……)


 そこには全体が淡い山吹色に染まり、すぼまった口から平たい底まで優美な曲線を表現し、緑色の染料で鈴蘭の花と葉を描いた花瓶があった。


 千景は花瓶を見て、小首を傾げる。


(わたくしにはただの美術品にしか見えませんが)


 ちらりと赤月の様子をうかがうと、彼は顎に手を添えてじっと花瓶を見つめていた。


「どうだい、東雲君。見事なものだろう」


 神崎に同意を求められ、赤月はややあって頷く。


「ええ、見事なものですね」


 にっこりと微笑むが、どこかぎこちなさもあった。


 千景は違和感を抱えながらも、周囲を見回す。みな熱心に美術品を鑑賞しているが、鈴蘭が描かれた花瓶の前では特に足を止めて眺めている気がする。


(これが本当に魅了された人々に災いをもたらすアーティファクトなの?)


 もしも『意志を持つ宝』というのなら、どうして自分を称賛する人々を不幸にするのか。まったく理解ができない。


(侑希子の様子もいまのところ変化はなかったもの……あら?)


 そのとき、千景は身震いをした。


 誰かがこちらを見ている。だが、人が多すぎてどこから見られているのかわからない。


 最初は気のせいだと思ったが、嫌な汗が背中を流れ、胸の動悸が止まらない。


「ちひろ、どうかしたのかい?」


 赤月が異変に気付いて声をかけてくれる。


 彼に迷惑をかけたくなくて「大丈夫です」と口を動かそうとするが、足元から頭のてっぺんまで、ぞわぞわとなにかが這うような感覚がして、その場にしゃがみ込んだ。


(怖い……)


 声を出すことさえできない。かたく目を閉じたとき、誰かが背中を撫でてくれる。


 赤月だろうか。迷惑をかけてごめんなさいと心の中で詫びたとき、誰かが耳元でささやく。


「あらあら、大丈夫? ゆっくりと息を吐き出しなさい」


 聞き慣れた声に、千景は勢いよく顔を上げる。

 そばにいたのは侑希子だった。

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