第二幕 『止められない想い』
千景と赤月が車から降りると、緑埜は会釈をしてから一度この場を去っていく。ここから先は別行動だ。
(ここが花岡家のお屋敷)
千景はごくりと息を呑む。
目の前にある二階建ての洋館は、壁が白塗りで窓枠や支柱が薄緑色の建物となっていて、屋根にはいくつかの半円の窓と塔状の装飾がほどこされていた。
さらに立派な洋館の裏手には和館があり、遠くからでも格子窓の美しい細工がうかがえる。
鉄やガラスがふんだんに使われた和洋館並列型の豪邸だった。
(……すごいわ!)
使用人の案内によって、玄関から二階まで吹き抜けとなったホールから大食堂に向かうと、すでに百人ほどの人がいた。
家紋がついた和装姿の人々は両家の親族で、燕尾服や背広服を着ている男性陣は仕事でかかわりのある来賓、振袖やワンピース姿の女性は彼らの奥方だろう。
その他の若い招待者は、花岡誠一郎と侑希子の学友に違いないが、全体的に参加者の年齢層が若い気がした。
(誠一郎さまは二十六歳で、侑希子は十七歳だから、特別おかしくはないけれど)
どことなく両家の親族の表情が硬い気がする。
「ちひろ、はぐれないように俺の傍にいるんだよ」
「はい、お兄さま」
我に返った千景は、赤月のすぐ後ろに控える。
(まだまだ人が増えるわ……)
今日は天気がいいため、大食堂に隣接されたベランダと庭にも多くの椅子とテーブルが用意されていた。
きっと乾杯の音頭を取ったあとに、庭も解放されるのだろう。
しばらくして、参列者がそろったのか、家令が現れた。
(あっ、侑希子だわ)
両親たちと共に、タキシード姿の誠一郎と深紅の裾模様の振袖を着た侑希子が現れる。
割れんばかりの拍手に迎えられ、侑希子ははにかんでから会釈をする。
(……よかった)
常に周囲を気遣い、頼りになる存在だった彼女が、いまは頬を紅潮させ、心底幸せそうに微笑んでいる。
千景は彼女の幸せになった姿をずっと見たかった。
◆◆◆◆◇
千景と侑希子は中流子女が通う牡丹島女学校の同級生だが、最初から仲がよかったわけではない。
入学当初の千景は、和冴の厳しい指導のせいで、誰かと話すことに対する自信を失い、人と話すことが苦手になっていた。
友だちをつくることがままならない上に、存在感も薄いため、和冴からは「業界人のご令嬢たちと縁を結べなくてどうする。僕に恥をかかせるな」と、派手な着物を着て目立つよう命じられたが、結局はひっそりと一人で行動していた。
一方で侑希子は溌剌とした性格で責任感も強かったことから、同級生に慕われ、先生方からもすぐに信頼を置かれていた。
入学してから数か月経ったとき、千景が席に座って家庭科の教科書を読んでいると、一人の同級生から声をかけられた。
「……ああ千景さん。ここにいらしたの。ねえ、あなたの婚約者が警察官というのは本当なの?」
「!」
いままで声をかけられたことなどなかったため、千景は肩を揺らすほど驚いたが、ややあって頷いた。
「ええ、そうよ」
すると同級生は眉をつり上げ、顔を真っ赤にさせて叫ぶ。
「あなたたちのせいで! わたくしのお父さまは!」
彼女は急に片手を振りかざした。
千景は目を見開いたまま、身を硬直させた。
あと少しで叩かれる、と身構えたとき、誰かが同級生の片手を掴んで止めてくれた。それが侑希子だった。
「あらあら、なにをしているの?」
場にそぐわない、妙におどけたような声だった。
すると同級生は我に返ったのか、ヒュッと息を呑むと、ぽろぽろと涙を流した。
侑希子はそんな彼女の背中を優しく撫でる。
千景は教科書を机に置き、黙ってことの次第を見守ることしかできなかった。
しばらくすると、同級生は嗚咽と共に事情を話し出す。
彼女が女学校に入学する前に、父親が横領罪で警察に捕まり、取り調べでひどい扱いを受けたこと。それにより持病が悪化し、寝たきりになったこと。
最終的に父親の横領罪は冤罪だと判明したが、警察の謝罪は軽いものであり、父親はいまも生死を彷徨っていること。
彼女にとって警察関係者は憎い存在であり、風の噂で緒方和冴という若くして優秀な警察官の話を聞き、ずっと心の奥底に溜めていた怒りと悲しみの矛先を、婚約者である千景に向けてしまったというのだ。
実は当時の警察官による取り調べの冤罪率は高く、それが社会問題となっていたが、千景はそのことを知らなかった。緒方家でそういった話題が出たことがなかったからだ。
彼女になんと声をかけていいかわからずにいると、侑希子は彼女を抱きしめた。
「警察官がみな悪者ではないと十分承知していても、止められなかったのね」
その言葉に、同級生はわあっと声を上げて泣き出した。それから彼女と仲のいい子たちが次々と寄り添い、優しい声をかけていく。
千景が黙ったまま目の前の光景を見守っていると、侑希子が手を差し伸べてくれた。
「千景さん、大丈夫? 少し外の空気を吸いに行きましょう」
「ええっと……」
「ほら、行きますわよ」
彼女は千景の手を掴むと、教室から連れ出してくれる。
人気のない場所に着く頃には、千景も気持ちが落ち着いていた。
「侑希子さん、あの、ありがとうございます」
「いいのよ」
侑希子は振り返ると、眉を寄せて苦笑する。
「あなた、叩かれそうになったとき、受け身を取らなかったわね。もしかして、叩かれてもいいと思っていたの?」
ドキリ、と心臓が跳ねた。誤魔化すことができず視線を泳がせると、侑希子が腕を組んでから、ため息をつく。
「あなたも損な性格なのね。その優しさは人のためにはならないわよ」
千景は視線を足元に落とし、ぽつりと呟く。
「……それでも、誰かの気が晴れるなら、わたくしはどうなろうとかまいません」
すると侑希子は目を丸くしてから口角を上げた。
「もう、そんなことを言われたら放っておけないじゃない」
その日から、侑希子はなにかと千景のことを気にかけてくれた。
時折「あなたに声をかけるのはいつも一苦労ね」と存在感のなさに苦言を物申しつつも、根気よく見つけ出してくれた。
千景にとって、侑希子という存在が心の支えとなった。
いつしか一緒にいることが当たり前となり、和冴も貿易業を営む篠田商会の娘との交流を否定することはなく、彼女の屋敷に遊びに行く機会が増えた。
そして数か月後。千景を叩こうとした同級生から再び声をかけられる。
「あなたの婚約者はすごいのね」
「え?」
「緒方和冴さまはかかわった事件を正確に処理して、冤罪率を減らしているとお父さまから聞いたわ!」
彼女の声に、周囲にいた学友たちから「まあすごいわね」と感嘆の声が漏れる。
千景は歯がゆさによって、微苦笑する。
最近は使用人の声に耳を傾けるようにしていた。そのおかげで、和冴のことは苦手だが、尊敬できる部分はあると思い直していたからだ。
「お父さまも回復に向かって、警察官もすべて悪人ではないことを再確認できたわ。あのときは本当にごめんなさい」
彼女は深々と頭を下げた。千景は息を呑んでから「顔を上げてください!」と告げる。
「わたくしも、無知であった自分を恥じました。まだまだ至らぬところはありますが、これからも仲良くしていただけますか?」
そういってから、思い切って右手を差し出した。彼女は泣きそうな顔で眉を寄せると、口角を上げる。
「ええ、もちろんです」
どちらからともなく微笑み合い、手を取り合った。
ふと侑希子を見つめると、彼女は肩の力を抜いて笑みを浮かべていた。
それからの学校生活は最高に楽しかった。
会話に花を咲かせ、誰かがこっそり女性雑誌を持ってきてみんなで回し読みをしたり、時には学校帰りに寄り道をしたりした。
千景にとって女学校は、緒方家という窮屈な場所を、一時でも忘れさせてくれる自由な時間だった。
すべて侑希子のおかげだった。
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