第一幕 『悪党と人情』

 暗闇の中で、空気が張りつめる気配がした。

 千景の目の前に、ぼんやりと白い霧が立ち込め、徐々になにかの形を成す。


 細長くて大きな台が現れた。高さは千景の胸元まである。その上には、ひときわ輝くグラスが置かれていた。


 上部が花のつぼみのように膨らんでおり、青みを含んだ月白げっぱく色の側面には真っ赤な薔薇が描かれている。グラスの軸は葉と棘が丁寧に取り除かれた茎のようだった。


 見事な美術品で、見る者すべてを魅了するほどの美しさがあった。


 きれいだと思った。手を伸ばし、薔薇の花弁を指先で撫でてしまいたくなるほどの欲求に駆られた。


 でもそれは子どもの頃だったとしたら、という話だ。


 千景はいつの間にかグラスを見下ろす。

 美しきものには毒という危険があることを、もう知っている。


 のこともそうだ。


『……千景』


 吐息交じりの、甘ったるい声が響く。


『お前は本当に出来損ないだね。言われたこともままならないのか。ほら、だ』




「っ、申し訳ありません!」


 千景が布団から這い出るように上半身を起こすと、視界が揺れる。慌てて後ろに身を引き、両手で胸を押さえながら深呼吸を繰り返す。


「はあ、はあ、はあ」


 千景は目線だけで周囲を見回す。


(ベッドの上? ああそうだわ。ここは緒方家ではないのね)


 息を吐き、背中を丸める。


 現実と幻が入り交ざったような嫌な夢を見た。薔薇のグラスはどこかで見たことがあるような気がするが、そんなことよりも頭を占めているのは和冴の言葉だった。


(あれは実際に言われたものだったわ……おばさまが生きていたときは優しかったのに)


 彼の母親は、十年前に列車事故で亡くなった千景の両親を追うように、流行り病で亡くなっていた。


 それから和冴の父親は警察を辞め隠居の身となり、帝都内の別邸に引きこもるようになった。


 ゆえに千景の世話は和冴に一任された。


 彼は良妻賢母のお手本のような教育者を雇い、ただ静観しているだけだったが、いつの間にか彼自身が口を出すようになった。


 最初は独り身となった千景を立派な淑女に育て上げるための彼なりの気遣いと思い、どんなに厳しい指導を受けても必死に応えようとしたが、行き過ぎた指導は心を蝕む原因となった。


(わたくしを出来損ないと罵るなら、どうして婚約を解消しなかったのかしら?)


 彼の心情を理解したいが、見当もつかない。

 だけど、どんなに悩もうと朝は来る。


 いまの千景の身柄は、赤月という盗みを家業にしている悪党の手の内にある。犯罪者とはいえ、彼の懐中時計を台無しにしてしまったのは千景だ。


 働いて恩を返す。あとのことは――そのときが来たら考えよう。


 千景は両手で頬を軽く叩いてから、顔を上げる。黄蝶が用意してくれた茜色の縞模様の着物に着替え、腰までの黒髪を結い上げて身支度を済ませる。


 外は日が昇りはじめたようで、白いカーテンが徐々に深い青から黄色に変わる。


「いざ参りましょう」


 そう意気込んでから洋室の扉を開く。赤月からは朝、昼、夜の食事と、屋敷内の掃除洗濯を任されていた。


 まずは台所に向かい朝餉の準備に取りかからねば。


(えっと……台所はどちらかしら?)


 廊下はいろいろと入り組んでいる上に、段差があって歩きづらい。まるで密集した家同士の庭や小道に床板と屋根をつけて、ひとつの大きな屋敷にしたような住まいだ。


 その証拠に窓の多くが偽物で、障子や窓を開けると土壁が出てきたりする。


(わたくしがいた洋室の窓からは木々が見えたけど、あれは中庭でしたし)


 しかも洋室だけでなく和室も混在しているため、自分がどこを歩いているのかわからなくなってきた。


(昨日の夜に赤月さまに間取りを案内してもらったのに……)


 手あたり次第歩いていればたどり着けるのか。だが、出入りを禁じられた部屋もあったため、迂闊に歩けない。


「こんなところでどうしたんだ?」


「!」


 勢いよく振り返ると、若緑色の浴衣を着た赤月が立っていた。


「あ……」


 顔を青白くさせ唇を震わせていると、赤月は状況を察したのか、顎に片手を添えて口角を上げた。


「さては迷子になったな?」


「も、申し訳ありません、申し訳ありません!」


 千景は息を整える余裕すらままならないまま、何度も頭を下げた。


「待て待て。顔を上げろ」


 赤月が千景の両肩を掴んだ。ビクッと体を揺らしてから、ゆっくりと顔を上げると、彼は眉根を寄せて苦笑していた。


「すまないな」


「えっ?」


「ちゃんと案内をしていなかった俺の不手際だ」


「そんな、わたくしが間取りを一回で覚えなかったのがいけないのです」


「いやいや、むしろ覚えていなくてよかったと思っていたほうがいいぞ。こんなにややこしい間取りを一回で覚えていたら、俺たちの仲間になれとしつこーく勧誘していたからな」


 屈託のない笑みを浮かべる赤月を見て、千景はぽかんと口を開けた。


「君を迎えに行くつもりだったが、俺の予想よりも早起きだな。寝巻のままで申し訳ないが、さあ行くぞ」


 そういって赤月は千景の手を引いて、ぐんぐんと進んでいく。


 生まれてこの方、和冴以外の殿方と手を繋ぐ機会がなかったため、時に頬を赤く染め、時に顔を青くさせながら必死に後ろをついていく。


 何度か角を曲がると、赤月はとある扉を開ける。


「おはよう、緑埜! 連れてきたぞ」


「おはようございます、赤月さま。それに千景さんも」


 扉の先にいたのは、左手に青ねぎを持ち、右手で包丁を持つ大男だった。


 千景は真っ先に彼の手にある包丁に目がいき、小さく「ひっ」と悲鳴を漏らすが、遅刻した上に挨拶を無視するのは失礼だと思いなおし、緑埜の目を見つめる。


「遅れて申し訳ありません。お、おはようございま……す?」


 千景は緑埜の恰好に目を見張る。彼は白いシャツと黒いズボンの上から真っ白な割烹着を着ていた。


 本来、割烹着は女性が着用するものだが、彼のがっしりとした体躯に大きさがぴったりと合っている。


(まさか、誰かが彼のために仕立てたというの?)


 緑埜の涼やかな表情からはなにを考えているのかまったく読めないが、彼は女性物の服を着ていても堂々としていた。


「お、お似合いですね」


 つい言葉をかけると、緑埜は少しだけ目を開いて、声を弾ませる。


「はい。赤月さまが用意してくださったのです!」


 本当に嬉しそうな声を出すため、心なしか背後に犬の尻尾のような幻覚が見えた。


(赤月さまと緑埜さまは主従関係にあるの?)


 怖そうな人と思っていたが、ほっこりするような一面も持ち合わせているらしい。


 赤月は感慨深そうに頷く。


「お前に割烹着を用意してから、台所が汚れなくなったよな。初めのうちは醤油と豆腐が血しぶきのように至るところに散乱して……包丁を持って途方に暮れていたお前を見たときはどうかと思ったよ」


「あのときは力加減を知りませんでしたからね。豆腐に触れただけではじけ飛び、包丁が勢いあまって醤油瓶に当たって割れてしまいまして。赤月さまからいただいたこの割烹着を汚さないために、いろいろと励んだ甲斐がありました」


 前言撤回。まったくほっこりしない。


 千景が顔のあらゆるしわを寄せてものすごい形相をしていると、赤月は咳払いをする。


「ごほん。冗談はさておき、緑埜は不器用だが努力家なやつだ。危害は加えないからこきつかってくれ」


「……!」


 包丁に怯えていたことがばれていたようだ。気まずく思いながらも、千景は赤月から女性用の割烹着を受け取り、台所に踏み入れる。


「千景さん、これから味噌汁をつくろうと思っているのですが、味を見てもらってもいいですか?」


「は、はい」


 雪の静けさをまとったような声に誘われ、千景は慌てて割烹着の袖を通した。



◆◆◆◆◇


 本日の朝食は、白米に豆腐とねぎの味噌汁に、葉野菜のおひたしと白身魚の粕漬けを焼いたものだった。


 緑埜が四人分の食事をそれぞれの器に盛っていく。


(白浪五人男なのに四人分だけなのね)


 不思議に思いつつ、千景は緑埜と一緒に食事を運ぶ。


 向かった先は西洋風の食堂だった。


 木製パネルが張り巡らされた空間に、十人掛けの大きな食卓子と食堂椅子が置かれている。さらに壁際にはロココ調の赤いカーテンが吊り下げられた窓や、木製の暖炉まであった。


「お、いい匂いだな」


「本当だね」


 ちょうど後ろから背広服姿の赤月とワンピース姿の黄蝶がやってきて、椅子に腰をかける。


(上座は空席……?)


 赤月がその次席に座り、黄蝶が三番目だった。


 千景は不思議に思いつつも、慣れた手つきで配膳していく。緒方家は和風住宅だが、親友である侑希子の家が洋風住宅だったため、だいたいの使い勝手は知っていた。


(おそらく緑埜さまは赤月さまと対面するように座るとして、あとひとつは黄蝶さまの対面に置けばいいのかしら?)


 わずかに眉を寄せたとき、赤月が口を開く。


「そこが君の席だからな」


「……え? これはわたくしの食事だったのですか⁉」


 思わず聞き返すと、赤月は食卓子に頬杖をつきながら怪訝な顔をする。


「俺たちの仲間はまだいるが、あいにく席を外している。よってその食事はまぎれもなく君のものだ」


 黄蝶と緑埜を交互に見ると、二人とも頷いてくれた。


 千景は何度か瞬きをしてから、自分の席に器を置き、そのまま腰掛けた。


 炊き立てのご飯が目の前にある。しかも台所ではなく、みなと同じ食卓で食事ができる。緒方家では考えられなかった光景だ。


「では、諸君。いただきます」


 赤月たちは両手を合わせてから箸を手に取った。千景もゆっくりと箸に触れるが、あることに思い至る。


(待って。わたくしの料理は本当に美味しいのかしら?)


 千景の味付けはすべて和冴の好みに仕上がっている、はずだ。自信がないのは、和冴から一度も美味しいと言われたことがないからだ。


(和冴さまは出汁にこだわりがある方だったから、通常よりも味が薄いのよね。お口に合わないときは黙ったまま箸を置いてしまうし……あ、ちょっと)


 あろうことか、赤月は真っ先に味噌汁に口を付けた。


「うまいな」


 彼は目を伏せて口角を上げていた。


「……!」


 その言葉に、ほっと胸を撫でおろす。黄蝶と緑埜も「おいし~い! まるで料亭の味だわ!」「ええ、とても美味しいです。参考になります」と感想を言ってくれた。


(……嬉しい)


 不思議だ。彼らは政府に雇われているとはいえ、盗みを家業にする悪党だ。それなのに人情にあふれている。


 どうしてこんなにもよくしてくれるのか。


 赤月はもう一口飲んで、しみじみと呟く。


「緑埜が作ったのも美味しいんだけどな。味の深みが違う」


「ああ~わかる! 緑埜はとりあえず塩を入れて煮ておけばなんでも食べられるだろうという精神だからね。ほんと馬鹿舌だよね」


 黄蝶は見た目に反して、挑発的な性格をしているようだ。緑埜はお碗を卓の上に置く。


「黄蝶。その喧嘩、買いましょうか?」


「まいどあり。返り討ちにしてあげる」


 二人がにらみ合いをはじめると、赤月が口を挟んだ。


「食事中だ。やめておけ」


 怒鳴っているわけではないが、芯の強い声だった。二人は黙ったまま、再び食事に手を付ける。赤月はため息をつくと、千景に微笑みかける。


「すまないな、騒がしくて」


「……いえ」


 会話のある食事なんて、両親が生きていた以来だった。


 千景は胸にこそばゆさを感じながら、食事に箸を伸ばした。



◆◆◆◆◇


 食事を終えてからお盆を持って廊下を出たとき、千景は愕然として足を止めた。


 廊下の柱のいたるところに和紙が貼られている。そこには『台所は右』『君の部屋までは真っすぐ』といった目的地までの矢印が書かれていた。


(嘘でしょう⁉)


 千景が勢いよく後ろを振り返ると、赤月が得意げな顔をしていた。


「これなら迷子にならないだろう?」


 まさか朝餉を準備しているあいだに屋敷中の柱に貼ったのか。


 千景はなんとも言えない表情で立ち尽くす。


 恥ずかしいという感情を通り越して、もはや屈辱さえ感じる。


 早く間取りを覚えよう。そう心に決めた。

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