第一幕 『それぞれの面影』

「いい天気ね」


 千景は中庭に置かれた物干し竿に洗濯物を干し終えたあと、周囲を見回す。


 もみじの木が植えられた小さな庭で、目の前は千景の部屋らしき洋風の窓がついた白壁で、背後は一般的な縁側となっていた。


(よその生活音や馬車の音も聞こえない。閑静な住宅街なのかしら?)


 ここで生活して早五日。まだまだわからないことだらけだ。


 千景は一息ついてから空を見上げる。迷路のような屋敷の家事をするのは一苦労だが、懐中時計を弁償するための労働だから仕方がない。


(まさか赤月さまの懐中時計が二十円もするなんて)


 緑埜と食事の準備をしているときに尋ねてみたら『懐中時計の値段はピンキリですが、二十円ほど用意できればいいのでは?』と返ってきた。


 日々の労働から生活費を差し引かれたとしても、かなりの時間がかかる。


(それだけの時間があれば、和冴さまはわたくしではなく、新しい婚約者を選ぶのかしら?)


 そのほうが、和冴は幸せになれるだろう。

 千景は胸元を押さえてから振り返り、縁側に向けて歩き出す。


 そのときだった。


「きゃっ」


 ここ最近の雨によって地面が隆起していて、その溝に草履が食い込んだ。躓いて体が前に傾いたとき、誰かにぐいっと肩と腰を掴まれる。


 凛として、控えめな花の香りがした。


「大丈夫?」


 鈴が転がるような声が聞こえた。千景がゆっくりと顔だけ振り返ると、黄蝶が体を支えてくれていた。


「……!」


 目の前に彼女の顔があり、思わず息を呑む。


(気配なんて感じなかった)


 彼女は細い肢体を隠すようなふくらみを持つ長袖の黒いワンピースを着ているのに、衣擦れの音もなく、華麗に縁側から千景のそばまで舞い降りた。


(わたくしが身をゆだねているのに、びくともしないわ……)


 つい見惚れていたが、千景はハッと我に返ると、黄蝶から飛び跳ねるように離れる。そのとき、彼女が裸足だったことに気づいた。


「黄蝶さま! 足が!」


「洗えば大丈夫よ。あなたが泥にまみれなくてよかった」


 彼女は千景を安心させるように微笑んでいた。


 千景は目元に力を入れて唇を噛みしめながら、「これを使ってください」と黄蝶にハンカチを差し出した。


「ありがとう」


 黄蝶は愛らしく笑みを浮かべ、ハンカチを受け取った。


 これが緒方家の使用人なら違った。彼らは千景が転んでも知らぬふりをし、中には嘲笑う者までいたからだ。


 つらくて情けない記憶を思い出して拳を握り締めると、黄蝶は優しい声色で告げる。


「ねえ、千景ちゃん。このあと時間ってある? あるよね?」


「え?」


「いまからあたしに付き合ってよ」



◆◆◆◆◇


 千景は黄蝶のあとに続いて屋敷の中を歩く。


 行きついた先は、大きな洋室だった。重厚な扉を開けると、赤い絨毯が敷かれた床に、たくさんの箪笥やクローゼットが置かれている。さらにいたる所にトルソーが置かれ、夜会用の派手なドレスまで並べられていた。


 洋風の帽子掛けにかけられている夜会用の羽根つき帽子や鞄も、素人が見てもわかるほどの一級品だ。


「これ、すべて黄蝶さまのものですか?」


「そうよ。すごいでしょう」


「はい、すごいです!」


 まるで劇団の裏方のような光景に、胸の高鳴りが止まらない。


 だが、ふと我に返る。


(盗難品の可能性があるの……?)


 なんだか居心地が悪くなっていた。身を縮こまらせてびくびくとしていると、黄蝶がひときわ立派な鏡台のほうへ手招く。


「さあ、ここに座って。いまから千景ちゃんに化粧をするから」


「えっ」


 声を出したと同時に椅子に座ってしまった。立ち上がろうとするが、黄蝶が肩を掴んで離さない。


「化粧品をいろいろと用意したのはいいけど、一人では消費しきれなくて。それに十代の女の子の肌質を知りたかったんだよね~。ほら、その辺にいるお嬢さんを連れ込むわけにはいかないでしょう?」


「は、はあ」


「千景ちゃんが来てくれてよかったわ。研究し甲斐がある」


 そういって、鏡台に置かれた化粧水の小瓶を開けて、千景の肌に塗りたくる。黄蝶の手は指先まで温かく、優しい手つきで触れてくるため気持ちいい。


 十分に保湿をしてから、彼女は化粧下地やおしろいを手に取る。


「黄蝶さまは舞台役者の経験があるのですか?」


「うーん、ちょっと違うかな。そういえば、白浪五人男について詳しく知らないんだっけ?」


 鏡越しに黄蝶が苦笑していた。千景は小さく頷く。


「はい。親友から演目の内容を聞いたくらいで」


「なるほどね、じゃあ、化粧をしながら話そうか」


 彼女は演者のように軽快な口調で語り出す。


「約六十年前に初演をむかえた白浪五人男は、『盗みはすれど、非道はせず』という信念を持った頭領の日本駄右衛門にっぽんだえもんと、個性豊かな四人の泥棒たちによる人情に溢れた演目でね」


 同時に、器用に千景の頬におしろいをはたいていく。


「四人の泥棒たちは、みんな小さい頃から盗みを繰り返すどうしようもない悪党で。役人の名前を騙ってでも盗みをする忠信利平ただのぶりへいに、任侠に身を染めて悪逆を繰り返している南郷力丸なんごうりきまるに、元武家の下級武士で最年少の赤星十三郎あかぼしじゅうざぶろうに。そ、し、て」


 彼女は語尾の発声を強めると、千景の背後でおしろいの箱を持ったまま華麗に一回転する。


「知らざあ言って聞かせやしょう! あたしの『黄蝶きちょう』という偽名こそ、女に化けた変装の達人の弁天小僧べんてんこぞう菊之助きくのすけになぞられているの!」


 千景は何度も瞬きをしてから驚嘆を上げる。


「まあ、変装の達人に!」


 道理で衣装や小道具がたくさんあるわけだ。


(……黄蝶さまはやっぱり男の人なのかしら?)

 喉仏に注目しようとするが、首元が襟で覆われているため判断がつかない。


 不意に鏡越しに黄蝶と目が合い、千景は気まずくなって話題を変える。


「あの、偽名についてもう少し詳しく教えてもらえますか?」


「ああそれは、あたしたちの祖父が白浪五人男を真似て名乗りはじめたの。あたしの『黄蝶』とか『赤月あかつき』とか『緑埜みどりの』とか、ほかにも『青兎あおと』と『白藤しろふじ』がいて、襲名制であたしたちが三代目ね」


「では青兎さまと白藤さまはどちらに?」


「これ以上はあたしの口からは言えないかな~」


 はぐらかされたことに千景が唇を尖らせると、彼女は「ちょうどいいから口紅を塗ろうか」と筆を用意する。


「……そもそもわたくしに白浪一族のことを話して大丈夫だったのですか?」


「大丈夫よ。ほら、政府が泥棒を雇っているとか、誰も信じないでしょう? それにあたしたちは少人数で活動しているから、たまに一般人の協力者を利用するときがあるのよ」


 彼女はあっけらかんと言い切った。


 確かに赤月の手の甲に刻まれたまじないだって、いまだ夢の中の出来事に感じる。


(となると、赤月さまはわたくしを協力者に仕立てるつもりなの?)


 彼に対して知らないことが多すぎる。それがとてももどかしくて、千景は黄蝶が口紅をほどこしてくれたあとに、意を決して問う。


「黄蝶さまが弁天小僧菊之助になぞられているなら、赤月さまが『白浪五人男』の頭領である日本駄右衛門になぞられているのですか?」


 黄蝶はわずかに目を見開き、どことなく棘のある声を出す。


「どうしてそう思ったの?」


「初めて赤月さまと出会ったときに、確か『問われて名乗るもおこがましいが』という台詞回しを使っていたので」


 彼女は目を細めてから、自嘲するように口角を上げる。それから目を伏せて、唇を素早く動かした。


『まだ白藤の真似をしているんだ』


 無音発声だったが、そう言っていた。


(……どうしましょう)


 千景は読み取ってはいけないものを、知ってしまったのかもしれない。


 実は和冴のどんな小言を見過ごさないよう、口元の動きばかり見ていた時期があったため、無音発声でなにを言っているかわかるようになっていた。


(おそらく、黄蝶さまに知られないほうがいい)


 彼女にばれないよう平然を装っていると、黄蝶は意味深げな笑みを浮かべ、目張り用の筆を千景の瞼に走らせる。


「千景ちゃんってさ」


「は、はい」


 つい姿勢を正してしまった。


「赤月に惚れちゃったの?」


「いえ、それはないですね」


 千景は言ってから口元を押さえる。自分でも思っている以上に素早く否定してしまった。さすがにぶしつけだったかと黄蝶の様子をうかがっていると「即答なのね」と肩を震わせる。


「あっはっは、本人が知ったらすねるだろうなあ。ああ~、面白い」


 ひとしきり笑ったあと、彼女は「仕上げちゃうね」と素早い動きで千景の顔回りを整える。


「さあ、できた! どうかな?」


 千景は目の前の鏡に映った自分を見て、何度か瞬きしてから息を呑む。


 肌は誰も踏みしめていない新雪のような艶やかさがあり、瞼と口紅は桜色に染まっている。


 まるで大人になった自分を見ている気分だ。


(お母さまも、こんな感じだったのかしら)


 両親が亡くなってもう十年が経つ。顔は思い出せないが、鏡越しに微笑めば、そこに母がいる気がして嬉しかった。


「黄蝶さま、ありがとうございます! お化粧をしてもらえてよかったです」


「あたしのほうこそいい経験になったわ。ありがとう。それにしても、千景ちゃんの顔って伸びしろがあるわね。化粧次第では、まったく別の女性になれたり男装だってできるよ」


 彼女はなめ回すように頭の先から足のつま先までじっと見つめるため、千景はいたたまれなくなって、耳に髪をかけながら目を逸らす。


「べ、別人ですか?」


「うん。例えばあたしそっくりに化けることはできないけど、千景ちゃんって認識できないくらいの変装はできるかな」


 千景は思わず鏡に向き合って、両頬に触れる。


「……まあ」


「それでも百の顔を持つあたしには遠く及ばないけど」


 彼女は茶目っ気たっぷりに片目を閉じてから、堂々と胸を張った。その姿を見て、千景はつい笑みをこぼす。


「なあに? どうかしたの?」


「親友の侑希子のことを思い出しまして」


 篠田侑希子しのだゆきこと出会ったのは牡丹島ぼたんじま女学校だった。


 彼女は西洋家具を扱う商家の生まれということで、親譲りの溌剌した性格で、責任感も強く、先生たちからも信頼されていた。


 その一方で観劇好きでもあり、いろんな劇場に足を運び、千景によく感嘆を漏らしていた。


『泥棒なのに心がときめくのはなぜかしら。はあ、たまりませんわ』

『憂いを帯びた舞台上のスタアって、どうしてあんなに麗しいのかしら? 愛しい人の生首を抱えた女王様のお顔が忘れられないのよ』


 中での印象に残っているのはこの言葉だ。


『主人公と対立するお姑さんがすごく嫌な役どころでしたけれど、すごく艶やかで美しくもあって。ついあなたの婚約者を思い出してしまったわ』


 和冴を姑と例えることができるのは彼女ぐらいだろう。


(ふふ)


 ああ、自然と笑みがこぼれてしまう。


「侑希子がいたから、わたくしは緒方家での生活の異質さに気づけました。彼女はわたくしの――恩人です」


 黄蝶は目を見開いてから、目尻を和ませる。


「恩人に似ていると言ってくれるなんて、嬉しいな」


 そういってから、彼女はワンピースの裾をひるがえして、身をかがめる。


「ねえ、千景ちゃん。あなたが望むなら、ここから逃がしてあげようか」


「……え」


 千景と黄蝶の視線が交差する。


「帝都ではなく、地方に行けばあなたの婚約者も簡単には追って来られないし、職も紹介する。あなたにとって悪い話ではないはずよ」


 黄蝶は小さく笑みをこぼしてから、千景の手に触れた。


「だってあなたは普通の女の子だから」


 まるで舞台上の王子のように、黄蝶はじっと千景を見上げるのに、答えを急かすように手の甲を撫でる。


「わたくしは……」


 千景はつい頬を赤く染め、それを隠すように顔をそむけたあと、ゆっくりと口を開く。


「正直いうと、いますぐここから出ていきたいです」


「じゃあ」


「でも、新しい土地で生きていく自信もないのです」


 いままで誰かに決められた環境の中でしか生きられなかった。


 赤月たちの屋敷の中でも箱庭であることには変わりないのに、食事にどんなものを用意しても美味しいと言ってくれ、掃除をする順番も決められていない。なにか間違えても、赤月たちはすべてを受け入れてくれる。


(……悪党なのに)


 その優しさが、傷ついた心に沁み、足を立ち止まらせる。


 黄蝶はそれを汲んでくれたのか、優しい声色で告げる。


「じゃあ、自信がつけば新天地で頑張りたいのね」


「はい」


 千景は言い切ってから、目を閉じる。


 許されることなら、次の箱庭を探しに行くのではなく、もっと思うままに生きてみたい。そのために、いまは生きる術を身に付けたかった。


(懐中時計分のお金を稼げれば自信もつくだろうから)


 それに。


「自分が浅はかで、危険知らずだとわかっていますが、赤月さまに恩義を感じているのは本当なのです」


「……わかった。これは今回にかぎった話ではないから気が変わったら教えて。でも」


 黄蝶はそっと手を離すと、千景に背を向けるように立ち上がり、顔だけ振り返って口角を上げた。


「前言撤回。あなたは普通の女の子じゃないのかもね」



◆◆◆◆◇


 その日の夜、千景はなかなか寝付けなかった。


 紺色の浴衣を着たまま中庭に行く。今日は満月なのか、周囲が明るい。


 なぜだろう。いつもより眩しすぎる光に、胸がざわつく。


(どうして黄蝶さまの提案を断ってしまったのかしら?)


 彼女は返事を保留してもいいと言ってくれたが、いまになって後悔が頭に過る。


 胸元に手を当てて、深くため息をつくと、廊下の暗がりの中から誰かがやってきた。


「こんばんは、夜更かしか?」


 千景が勢いよく顔を上げると、浴衣を着た赤月が立っていた。


「……あの」


「なんだ?」


「どうしてわたくしに気づいたのですか?」


 千景は訝しげな表情のまま、彼に問う。


 緒方家にいたときは日中に使用人とすれ違っても気づかれたことがなかった。


 赤月は顎に手を添えて、心底不思議そうな顔をする。


「? そこにいたから」


 その言葉に千景は唇を噛みしめ、彼にばれないよう肩を震わせる。


(いてもいなくても変わらない存在になれば、和冴さまの興味が逸れて一人でひっそりと生きていくことができると思っていた)


 でも実際は、さみしかった。


 一人になんてなれなかった。誰かに気づいてほしかった。


(赤月さまはどうしていつも欲しい言葉をくださるの?)


 いつの間にか、悪党あかつきという人柄を知りたくなっていた。

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