第一幕 『わけありの娘』

「……ん、朝?」


 千景は薄っすらと目を開ける。すでに日が昇りはじめているのか、部屋がいつもより明るい気がする。


(いけない! 早く起きて和冴さまの朝餉を用意しないと!)


 勢いよく上半身を起こそうとするが、腕に上手く力が入らない。


(体が沈む……これはベッドかしら?)


 千景は何度か瞬きをしたあと、周囲を見回す。

 目の前は見慣れた板天井と障子に囲まれた和室ではなく、花のつぼみのような電灯がついた天井と花柄の壁紙に囲まれた洋室だった。


 千景は身を覆っていた掛け布団を握り締め、息をひそめる。


(ついに和冴さまに監禁されたの⁉ でも、わたくしのためにこんなに豪華で広い部屋は用意しないはず)


 しかも目の端に映った自分の衣類は、紺色の浴衣だった。着衣の乱れがなかったことにほっと胸を撫でおろすが、一体どういうことなのか。


 そのとき、部屋にひとつしかない扉の向こう側から物音が聞こえる。


 千景は掛け布団を口元まで覆って寝たふりをしようとするが、それよりも早く扉が開いた。


 現れたのは灰色のベストにズボンという恰好をした青年だった。


 漆黒の髪を持ち、前髪は眉にかかる程度で、襟足は短い。顔立ちを見るに快活そうだが、どこか気品も漂っていた。


 そう思うのは、彫の深い目鼻立ちと透き通るような白い肌のおかげだろう。


(緒方家の者ではない……?)


 よわいは和冴と同じくらいだろうか。

 視線が交差して数秒後、男が口を開く。


「おはよう。気分はどうだ?」

「……あ、えっと」


 千景が口内の乾燥によって言葉を発せずにいると、男はくすりと微笑む。


「俺のことは覚えていないか。まあ、しょうがないか。君は昨日、心労で気を失ってしまったから」


 彼の言う通り、病み上がりで思考回路が鈍かったが、段々と思い出してきた。


 確かこの男性は、千景に黒い傘をかざしてくれた人だ。


「赤月さま、でしょうか?」


 小さな声で問うと、彼は嬉しそうに目を細める。


「覚えていたか。いい子だ。水を持って来たが、近寄ってもいいかな?」


 こくりと頷くと、赤月はゆっくりと歩き出す。よく見れば、彼は片手で器用にお盆を持っていた。その上には水差しとグラスが乗っていて、お盆ごとベッドの隣にあった小さな卓に置く。


 赤月は千景と視線を合わせるように膝をつくと、グラスに水を注いでくれた。


 千景が小さな声で「ありがとうございます」と受け取ると、赤月は「かまわんよ」と告げる。


 ぬるい水で喉を潤してから一息つくと、赤月と目が合った。


「先に言っておくと、君の着替えは別の者がやってくれた。気を失っていたとはいえ、勝手に触れて悪かったな。食欲はあるか? 粥なら用意できるが」


「……お、お願いいたします」


 見知らぬ男性に食事の用意をさせてしまうことに申し訳なさと不安を感じたが、他所の台所を勝手に使うわけにはいかない上に、自分が置かれている状況がわかっていない。


 ひとまず流れに身を任せることにした。


「では準備しよう。ああ、そうだ。身支度を整えるなら、そこの鏡台にあるものは自由に使っていいから」


 赤月は片目を閉じて微笑んでから、颯爽と身をひるがえして部屋を出ていく。


 千景はぽかんと口を開いた。


(侑希子が言っていた、舞台上のスタアとはああいう人のことなのかしら?)


 もしかしたら、とんでもない人に助けられたのかもしれない。


 物語のような展開に呆けていたが、はっと我に返る。早く身支度をしなければ。


 ベッドから足をおろすと、そこにはスリッパがあった。親友の侑希子の家で履いたことがあるとはいえ、おぼつかない足取りで鏡台に近づく。


 そこには顔を洗うための水が入った桶や手拭い、そして櫛や化粧水が用意されていた。


 化粧品にいたってはどれも女性雑誌で見たことがあったため、顔を洗ってから少しだけ肌に付ける。


 それから櫛で腰までの黒髪を整えていると、再び赤月が部屋にやってきた。


「準備はいいかな、お嬢さん」

「は、はい」


 千景が再びベッドに腰掛けると、赤月は先ほどの小さな卓に、お粥が入ったお碗を置く。


「毒見は必要か?」

「い、いいえ」


 苦しめることが目的なら、わざわざ労わったりしないだろう。

 まずは匙を手に取り、粥を口に含む。


(温かい)


 お米の優しい甘さが口の中に広がり、肩の力が抜ける。緒方家にいたときは和冴が出勤してからではないと食事ができなかった。


 ゆっくりと咀嚼をしていても、赤月はなにも咎めず、窓を覆っていた白いカーテンを開いて、外の様子を眺めていた。


 すべて食べ切ったあと、千景は姿勢を正した。


「あの、申し遅れました。わたくしは森島千景と申します。この度は多大なるご迷惑をおかけいたしましたことをお詫び申し上げます。この御恩は決して忘れません」


 ぜひお礼を、と言いかけたとき、千景は唇を震わす。


 赤月にお礼をするためには、緒方家を頼らなければならない。いまの千景は一文無しだ。


(屋敷に戻れば、本当に監禁されてしまうかもしれないわ)


 和冴はひどく腹を立てている。あの冷ややかな目で見つめられることを想像するだけで肩が震えた。


「わけありのようだな」


 赤月の飄々とした声が部屋に響く。彼は鏡台用の椅子を引きずってきて、ベッドの横に腰かけた。


「礼など気にしなくていいし、弱っている人を追い出すほど薄情でもないのでな。当面はなにも考えずゆっくりしていくといいさ」


 温かい言葉だったが、底冷えした心には毒だった。


「いえ、これ以上ご迷惑をおかけするわけにはいきません」


「迷惑か。いいねえ。退屈しのぎになりそうだ」


「え?」


 千景が顔を上げると、赤月は顎に手を添えて唇に弧を描いていた。異様な雰囲気を感じ取り、なぜか頭が痛んだ。


 赤月という男に対してなにかを忘れている気がする。


 思い出せずにいると、彼は優しい声色で告げる。


「この屋敷は俺以外にも住人がいてな。わけありぞろいなんだ。だから君がしばらくいても問題ない」


「そうは言いましても」


「まだ気が引けるか? なら家事手伝いをしてもらえると嬉しいな」


「ええっと……」


 どうして赤月は出会ったばかりの千景に警戒心を抱かず、家に置こうとするのか。


(わたくしが無力な女だから?)


 言葉を紡げずにいると、赤月はズボンのポケットから懐中時計を取り出し「そろそろあいつらが帰ってくるか」と呟く。


 しかしそのあと、首を傾げた。


「どうかされましたか?」


 千景が思わず声をかけると、赤月は歯切れの悪い声を出す。


「どうやら壊れてしまったようだ」


 彼の手に収まる銀色の懐中時計の針は止まっていた。それを見て、千景は顔をさっと青ざめさせる。


「もしやわたくしを介抱したときに雨に濡れたせいではありませんか⁉」


「もともと調子が悪かっただけだろう。君は気にしなくていい」


 とは言いつつも、雨に濡れたことは否定しなかった。


「必ず弁償いたします!」


 そのためには緒方家に戻らなければ。森島家の遺産はすべて千景の養育費に当てられている。本当に一文無しなのだ。


(わたくしが床に這いつくばって土下座をすれば、いつかは和冴さまからお許しをいただけるはず)


 と考えたところで、いや、それでは駄目だ、と首を横に振る。


 和冴を『結婚前日に花嫁に逃げられた男』に仕立てたのは千景だ。


 彼は恥をかかされた腹いせに、恩人である赤月が千景をさらったと吹聴して、刑務所にぶち込んでしまうかもしれない。


 これでは恩人にさらなる迷惑をかけるだけではないか。


(そもそもわたくしが逃げ出さなければ、赤月さまに迷惑をおかけすることもなかった)


 額に冷や汗がにじむ。たとえ己が無力でも、みっともなくても、千景には謝るという手段しか残されていない。


(謝るならうまくやらないと)


 歯を食いしばったとき、「ははっ」という乾いた笑い声がした。一拍置いてから顔を上げると、赤月が千景を馬鹿にするように鼻で笑っていた。


「君、まだここから逃げ出せると思っているのか?」


「……どういうことですか?」


 おそるおそる問うと、赤月は左手の指先で千景の頭を優しく撫でる。


 漆黒の瞳から目が逸らせない。


 息を呑んだとき、勢いよく部屋の扉が開かれる。


「あ、ここにいたんだ! ただいま~! やっぱりあの情報は偽物だったよ」


「ただいま戻りました。赤月さま」


 現れたのは、色素の薄い茶色の長髪をなびかせた黒いワンピース姿の女性と、前髪をすき上げ黒い背広服を着た男性だった。


 二人とも目を奪われるように容姿が整っているが、千景は二人が手に持っていた紙の束に注目する。


(さ、札束⁉)


 彼らは何枚もの一円札の束を両手で見せつけるように持っていた。


黄蝶きちょう緑埜みどりの、おかえり! なんだなんだ~! その金は!」


 赤月はぱっと目を輝かせて二人に近付く。すると黄蝶と呼ばれた女性が札束で扇をつくってあおぐ。


「訪れた先が、政府が問題視していた組織の隠れ家でさ。ちょうど用心棒しかいなかったから、悪い人たちの軍資金を盗ってきちゃった! すごかったよ~、緑埜の絞め技」


「黄蝶の色仕掛けのおかげですよ。あと、これも頂戴しておきました」


 緑埜と呼ばれた男が、懐から縞メノウに女性の横顔を彫ったブローチを取り出す。赤月はそれを受け取ると、指先で器用に裏表を変えながら精察する。


「なるほど、大臣は俺たちの使い方をよくわかっていらっしゃる。これは盗ってきて正解だったな。でかした! 二人とも!」


 赤月は二人の肩を叩いて、子どものようにはしゃぐ。


 過激な光景に、千景は「あっ」と声を上げる。


(思い出した……! 赤月さまは、わたくしを盗みに来たと言っていた!)


 そろりとベッドから抜け出し、彼らの視線をかいくぐって部屋から出ようとするが、気づいたら三人とも無言のまま千景を見ていた。


(どうして⁉ 普通の人ならわたくしに意識が向かないはずなのに)


 驚愕のあまり動けずにいると、赤月は不敵に微笑んでから、女性をエスコートするように千景の右手を掴んだ。


 振りほどこうとするが、びくともしない。


「離してください!」


「いまごろ危険を感じたのか? 遅いぞ。もう君は俺のものだ」


 千景は助けを求めるように黄蝶と緑埜を見つめる。彼らは唇を引き結び、静観しているだけだった。


「あなたたちは何者なのですか……⁉」


 赤月は不敵な笑みを浮かべて告げる。


「俺たちは白浪しらなみ一族。盗みを家業にしている悪党だ」

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