白浪一族のはかりごと
夏樹りょう
序幕 『傘』
「わたくしがいてもいなくても変わらない存在だったらいいのに」
抑揚のない声で吐き出された
目の前は和傘やパラソルでひしめきあっているが、千景だけは傘を持たず、人混みをすり抜けていく。
七宝繋ぎの紅色の着物に雨水が染み込み、昼間というのに体が冷える。さらに、ひとつに束ねた髪に容赦なく雨が叩きつけ、ほどけた髪が頬に張りついた。
(まるで雨にもあの屋敷に戻れと後押しされているみたいだわ)
自嘲気味に笑うと同時に、胸が針先で突かれるように痛んだ。
千景は明日、祝言を挙げる。
相手は警察官であり十歳年上の
この結婚は親同士が決めたことであり、千景が七歳のときに両親が事故で亡くなったあとも話は有効だったようで、緒方家が千景の後ろ盾になってくれ、幼い頃から和冴と同じ屋敷で過ごしてきた。
千景は今年で十七歳となり、女学校の卒業まであと三か月を残して退学した。
晴れて和冴の妻となる。
身寄りのない千景にとって、こんなにありがたい話はない。
ないはずなのに。
『気味の悪い子だね、千景。お前の存在に気付くのは僕くらいだ』
甘ったるくて人を見下すような声が脳裏に響き、千景はぐっと唇を噛みしめる。
(わたくしにはどうしようもできなかった)
いまだってそうだ。傘をささず歩いているというのに、誰も気に留めない。
千景は生まれながらにして存在感の薄い少女だった。
女性にしては凛々しい眉で鼻筋が通った中性的な顔立ちをしていることから、自分では目立つ容姿をしていると思っているが、存在感が薄い体質のせいで緒方家の使用人からは「気づいたら背後にいた」「ついさっきまで目の前にいたはずなのに姿を消した」と不気味に思われ、距離を置かれていた。
しかも和冴は花嫁修業と称して身の回りの世話をすべて千景にやらせ、少しでも作法を間違えたり洋服にしわを残すと、こんな簡単なこともできないのかと責め、彼が納得するまで昼夜問わず、やり直しを強制された。
『こんな状態ではよその家に出せないから、僕が貰ってやると言っているんだ。少しは僕の役に立て』
終いには、千景の居場所はこの屋敷にないと孤独を煽る。
もう心が限界だった。
用意された白無垢を見るのがつらくて、つい屋敷を飛び出してしまった。
(……早く戻らないと)
和冴はひどく怒っている。
屋敷に戻れば彼は感情に任せて千景を責め立てるだろう。いや、まずはずぶぬれになった千景の姿を見て、笑みをこぼすかもしれない。
『迷子の子犬が迷いこんだと思ったら、お前だったか。屋敷に戻れる脳はあったんだな。感心したよ』
彼の反応が容易に思い浮かび、千景は身震いをする。
(どうしましょう、逃げてしまったわ)
女学生だった頃は親友の
(……戻りたくはない)
震える双眸から、熱を持った水滴が流れ落ちた。
いつもはつらいことがあっても、感情を押し殺して耐え忍ぶことができたが、今回は違った。
胸が苦しくてたまらないのだ。
「もういや。助けて」
なんて情けのない声なのだろう。
千景は勢いよく口元を押さえると、いびつな笑みを浮かべながら道の端に寄り、その場にうずくまった。
頼れる人はいないのに、助けを求めてしまった。そんな自分の弱さと虚しさに、さらに胸が締めつけられる。
苦しい、悲しい。
でもこれ以上、自分ではこの胸の痛みをどうすることもできないから。
「お願い。誰か、助けて」
◆◆◆◆◇
気づいたら雨がやんでいた。
いや、違う。千景の頭上だけだ。
はっとして顔を上げると、帽子を目深にかぶった灰色の背広姿の男が立っていた。
彼は自分の体が雨に濡れるのをいとわずに、千景に黒い傘をかざしていた。
「あなたは?」
千景が問うと、男は真顔のまま告げる。
「問われて名乗るもおこがましいが、俺は『
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