地獄も住めば都

@menmen_s

採用人数1人という闇

 2015年春、私はとある中小企業に就職した。

 業種としては金融系、職種は事務で、電話対応やパソコン入力、計算や事務処理、その他雑用etc.が主な仕事だった。


 そもそも、私はこの会社にどうしても入りたかったわけじゃない。

 できれば働きたくないという魂胆が透けて見えていたのか就活は散々で、周りの友達がとっくに内定(しかも2つ3つ)を獲得している中、私はいつまで経ってもリクルートスーツから解放されずにいた。仲良い子はみんな優しくて、気を遣ってあまりその話題を振らないようにしてくれていたみたいだけど、なんとなくそれを察した時の惨めさったらもう、今思い出しても自己肯定感が暴落するほどだ。口うるさく聞いてくる両親の方が、うざいけど、まだ救いがあったなと思う。


 もう完全に行き詰まり、全国で内定式が行われたというニュースを横目にフリーターへの道に片足を掛けた頃、母がある募集要項を持ってきた。そう、それこそが地獄への招待状だったわけだ。

「ここの保険、アタシもアンタも入ってるから、受けてみなよ」

 母も半ばヤケクソだったのだろう。しばらくスーツを着ていない娘を案じて、どこでもいいから拾ってくれ、という思いだったのかもしれない。

 私はどこか投げやりな気持ちのまま、言われた通り採用試験を受けることにした。


 試験は一次(筆記)と二次(社長・役員との面接)だけだった。

 二次の面接の時のことはいまだによく覚えていて、まず、私の喋るターンがほとんどなかった。社長がなんかわけわかんないことを気持ちよさそうに話して、もう1人の役員と私がニコニコ笑って相槌を打つ、という謎の構図だった。話の長い客に対するストレス耐性を測っているのか、接待の際の器量を見定めているのか、などと邪推してしまうくらい、長々と無駄話を聞かされた。

「まぁ、うちは基本的に女性にお茶汲みとかしてもらう感じなんだけどね、そのへんは大丈夫?」

「はい!もちろんです!」

 というやりとりが途中あって、社長と役員が満足そうに頷いた。もしかしたらこれが採用の決め手だったのかも。


 そんなこんなで無事、私も内定を貰えたわけだけど、早くも懸念事項が発生した。

「今年の採用は君だけだったよ」

 採用を伝える電話口で、面接の時にいた役員がおだてるように言った。

 うわ、やだなぁ……

 なんて口には出さず、採用してもらうことに感謝を述べて、電話を切った。

 ま、なんとかなるだろ。

 初めて内定をもらえた、誰かに選ばれた、という事実に私も浮かれていて、ここまでですでにこの会社のヤバさの片鱗が見えていたものの、気付かないふりをした。


 初出勤日、全体への簡単な挨拶を済ませた後、新人研修が行われた。と言っても、新人は私1人なので、こぢんまりとした会議室で、総務部の課長とマンツーマンで企業理念などをお勉強していくという、地獄の入り口にふさわしい時間だった。

 そして、最後に主任(後にこの女がいわゆる"お局"と呼ばれる存在であることを知る)に呼ばれ、信じられないことを言われた。

「明日から始業時間までに1階と2階の準備をお願いね。とりあえず、8時に来てくれる?」

 始業時間は9時。実際には8時45分に朝礼があり、がっつり仕事が始まる。8時に行くということは、その10分前には出社して制服に着替えておかなければならないということだ。私の家から会社まで、ドアtoドアで50分ほど。6時には起きて支度して、7時には出ないといけない。

「はい!わかりました!」

 威勢よく答えながら、早くも怠くて仕方なかった。


 翌日、言われた通り8時に事務室に行くと、ひとつ上の先輩(と言っても、その人は3年目だった)が待っていた。私が入る前は、その人がずっとその"準備"とやらをやっていたらしい。それがなんなのか、先輩はひとつひとつ教えてくれた。

 まず、更衣室。ゴミ箱のゴミを捨て、ティッシュを補充し、床に掃除機をかける。

 次にパウダールーム。こちらもゴミを捨て、洗面台を掃除し、鏡を拭く。

 事務室。3台ある加湿器の水を入れ替え、コピー用紙を補充、ポットの水をセットし、掃除機をかけ、備品の残数を確認する。

 食堂。給茶器の水をセットし、机を拭き、ポットの水をセットし、コーヒーを準備する。

 ……馬鹿なのかと思った。

 こんなことを毎朝、たった1人でやれと言うのだ。ていうか、2年間もやってたこの先輩もだいぶ頭おかしい。

 どう考えても、8時からでは間に合わない。次の日から、7時半には"準備"を始められるよう、5時半に起きて、6時半に家を出ることとなった。

 そして恐ろしいことに、1円たりとも超勤手当が出ないのである。仕事に直結することでもないから勉強になるわけでもなく、本当にただのご奉仕、無駄な労働というわけだ。


 こうして、私の社会人生活は始まった。


 どこもこんなもんなんだろう、と自分に言い聞かせて2年我慢し、ようやく後輩ができてお役御免となったが、その子は試用期間さえ乗り越えることなく、会社に見切りをつけて去っていった。

 今思うと、やっぱりこの会社はヤバいし、次第に慣れていった自分も相当ヤバかったのだろう。判断力が生きてるうちに、ヤバい会社や人間とは縁を切るべきだな。

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