第二章 句朗
2-1
彼はまだ眠っていたかった。
輪郭のない意識の中で、いくつかの懐かしいものを見つけた。青白い電球の光、冷蔵庫の低く唸る音、風で揺れる窓枠、椅子を引く不快な音。それから、真っ暗な洞窟、二つに分けられた部屋、黒い扉。
それらを手繰り寄せるように、記憶の表面を撫でてみるが、形作られたものは霧のように離散して、あとには何も残らなかった。
それらを失ってはいけないという、わずかな焦りから、彼はやっと目をあけた。その時には、先ほどまで頭をかすめていた懐かしい感覚のことは、全て忘れてしまった。
彼は天井が高いのが妙に気になって、しばらくそれを眺めていたが、やがて身体を起こした。寝かされていたベッドの周りに、カーテンが引かれている。病院だろうか。
手ぐしで髪を整えながら、自分の身の回りで、誰かが怪我や病気をしたのではないかと思案したが、誰の顔も浮かばなかった。自分が着ている淡い青の服を見下ろし、自分自身が治療の対象なのだ、と気づいた時「あら、起きました?」と声が聞こえた。
ぎょっとしてそちらを見ると、女性が、カーテンの端をつまんでこちらを覗いている。見覚えのない顔だ。
彼女はカーテンの内側へ入ってきた。小さな緑色のリボンを首元につけ、白っぽい服を着ている。制服のように見える。看護婦だろうか。彼女は体を寄せ、優しく彼の肩に触れたが、彼は彼女の大きな存在感に威圧され、少しだけ身を引いた。彼女は気分を害することもなく、にこにこしている。
「気分は悪くない?」
はい、と答えようとしたが、声の調子が悪いみたいだった。咳払いして、もう一度言う。
「はい」
「どこか痛いところは?」
そう聞かれて彼は足の指を動かしたり、手を結んでみたりした。違和感はあった。しかし、その違和感を説明する言葉が思い浮かばない。その違和感はたちまち肥大化し、強烈な気分の悪さが彼を襲った。
顔色を変えた彼の肩を、看護婦はそっと撫でながら言った。
「大丈夫。あなたが何も思い出せないのは知っているわ」
何も思い出せない?
彼はきょとんと彼女の顔を見返し、それから、その言葉が現実であることを悟った。家族、友人、誰のことも思い出せない。当たり前にあるべき記憶が、そこにない。彼は茫然とした。
看護婦にちり紙を押し付けられて、涙をこぼしそうになっていることに気づいた。
覚えていないのに、なぜこんな気持ちになるのだろうか。疑問と同じくらい強く湧き上がるこの気持ちは、おそらく悔しさだ。初めから無かったのではなく、失ってしまったということを強く感じる。
「あなたの名前は句朗(クロウ)というのよ」
看護婦が再び肩に触れたあと、彼の元を離れてカーテンの向こうへ行くと、どこかで鍋を火にかけるような音がした。
そうか、自分のことも忘れてしまっているのだ。彼はそのことにやっと気づいた。奪われた記憶について、悔しさを押しのけて燃える様な怒りを感じたが、その気持ちを向ける矛先を見つけられず、感情はやがて薄れた。
看護婦は、『句朗』という名を教えてくれた。苗字はなんと言うのだろう。苗字を聞けば、もしかしたら、何か思い出せるかもしれない。
しばらくして、看護婦があたたかいミルクを持って戻ってきた。ここは病院よりも小規模な施設なのかもしれない。
「苗字は分かりますか」
そう尋ねると「あなたの苗字?あなたの苗字は、ないの」と答えた。それについて重ねて疑問を返す前に、看護婦は言った。
「身の回りのことについて説明してくれる人を呼んだから、しばらく待っていてね」
看護婦が子供を慰めるように自分の頭を撫でたので、彼はうっすらと気恥ずかしさを感じた。
ミルクは暖かく、美味しいと感じた。空腹なのかどうか、意識してみたが、自分でもよく分からなかった。
看護婦が呼んだ人が現れるまで、横になって待っていた。ミルクを残すのは悪いと思ったので、一気に飲んだ。
考えなければいけないことが多くある気がしたが、情報がない。一刻も早く何かをしなければいけないという焦りと、気づかないふりをできないほど大きく膨らんだ孤独が彼を襲っていた。
しかし、同時に倦怠感と諦めもあった。思考を働かせようとすると、自分の中の何かが拒否をする。絶望という言葉がぴったりくるのかもしれない。
彼は指一本も動かせずに、目を薄く開けて、ベッドの脇に置いてある丸椅子をじっと見つめた。丸椅子の表面に貼られた皮が、どんな手触りなのかなんとなく気になって、それを想像しながら待った。手を伸ばすことはしなかった。焦りや孤独の代わりに些細な思考で頭の中を埋めるのは、気が楽になる作業だった。
その人は、四十歳くらいの女性だった。蒼羽隊本部の事務員をしていると自己紹介した。
「私があなたや、あなたが記憶を無くした事情について、簡単にお話させていただきます」
彼女は黒と灰色を基調とした制服のようなものを着て、首には緑色のスカーフを巻いている。彼女も看護婦と同様、見覚えのない顔だった。句朗は小さく会釈する。
「説明の前に、簡単な検査をします」
事務員は丸椅子に腰を下ろすと、足を組んで、手帳のようなものを開いた。
「いくつかの質問をします。ゆっくり答えてもらって構いません。あなたの名前は?」
「先ほど、『クロウ』というのだと、看護婦さんに……」
「目が覚めた時は、名前を覚えていませんでした?」
「はい」
「ご家族や友人の名前は思い出せますか?」
「いいえ」
「故郷について思い出せることは?」
「……ありません」
「ここがどこだか分かりますか?」
「……いいえ」
「煙羅国は知っていますか?」
「はい」
「蒼羽隊は?」
「はい、知っています」
「名法師様は?」
「ナボウシ……聞いたことはあります」
「聞いたことがある?」
目を伏せ手帳に書き込みながら、彼女は「大丈夫」と呟いた。そして、三枚の札をこちらに見せる。左から、青、黄、赤の色で、模様が描かれている。
「色を覚えてください」
句朗が確認するのを待ち、彼女はベッドの上に札を伏せた。札はそのままで、今度は、紙とペンを彼に渡した。
「そこに、『こんにちは』と書いてください」
彼はペンを握ったまま、戸惑った。事務員は彼の顔をじっと見つめる。
「このペンは、インクがないと文字を書けません」
すると、彼女は眉ひとつ動かさず言った。
「では、こちらで書いてください」と、すでに手に持っていた鉛筆を差し出す。
句朗は素直にそれを受け取り、紙に『こんにちは』と書いた。
「ここがどこだか、書いてください」
「ここは、煙羅国なんですか?」
見回したって仕方がないが、彼は自分が何も知らないことを示すため部屋を見回した。
「煙羅国です」
句朗は黙って『煙羅国』と書いた。顔を上げると、紙と鉛筆を取り上げられた。
「この中で、一番右の札は何色ですか?」と、視線で札を示す。
「こちらから見て一番右側の札には、赤い模様が描かれていました」と慎重に答える。彼女の表情を気にしたが、得られるものはなかった。
彼女は三枚の札を表に返して正解を見せると、それを重ねながら「最後の質問ですが」と囁き、こちらへ身を寄せた。
「私の上に何か見えますか?」と、小さな声で尋ねる。
質問の意図が掴めず「上?」と聞き返す。
声が大きかったのか、事務員の瞳がきらりと光った。先ほどの看護婦に聞こえないようにしたいのだろうか。
「ええ」
句朗は彼女の頭の上を見たが、そこには何もない。カーテンは閉まっている。
「いいえ、何も」
彼がそう答えると、彼女は身を引いた。
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