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事務員の説明によると、自分は蒼羽隊の一員で、ここは蒼羽隊の本部らしい。
蒼羽隊では、入隊の時にそれまでの記憶を呪術によって消すらしく、その覚悟をもって入隊とするらしい。その時の副反応のようなことが、後々偶発し、再び記憶が消えてしまう事故が起こるそうなのだ。珍しい事例ではないらしく、今回自分に降りかかった災難もそれが原因とのことだった。
本部には個人の居室があり、このあとそこへ案内してくれるらしい。記憶を失った場合は三日間の休暇が出て、その間にできるだけ元の生活を取り戻す必要がある。蒼羽隊の仕事は言うまでもなく、憑き物を退治することだが、仕事については同じ班の人間に聞くようにと言われた。
自分が蒼羽隊だということに対する驚きで、いまいち事務員の説明は頭に入ってこなかったが、踊り木偶には、目を引かれた。
「最後に、踊り木偶について説明します」
そう言って彼女はポケットから何かを取り出し、少し楽しげな顔で、それを掌に乗せて差し出した。
それは木製の小さい何かだったが、用途を推測できないため、なんなのか分からなかった。ちいさな円柱に、花を逆さにして被せたような形をしている。花の部分がゆっくり回り出したかと思ったら、その物体はふわりと浮かんだ。そういう仕掛けのおもちゃだろうか。彼女は説明を続けた。
「踊り木偶、もしくは短く木偶と呼ばれているものですが、蒼羽隊本部を出入りしたり、個人の部屋を出入りしたりする際の、鍵の役割を担っています。説明の間、そちらに気を取られてしまうので、いつも最後まで隠しておくんです」
その物体は布団の上に着地すると、じっと動かなくなった。
「あなたの木偶ですが、前にあなたが壊してしまったと聞いています。ちょうど新しい木偶がないようで、すぐに準備できないそうです。しばらくは木偶なしで生活してもらうことになります。施設や本部の出入りの際は、同じ班の人に協力してもらってください。自室の扉には、あとで簡単な鍵をつけさせます」
彼女が急に立ち上がると、木偶がふわりと浮かび、床に降りた。歩いている、と表現すべきだろうか。じりじりと床の上を進んでいる。まさか、これはひとりでに動くのだろうか。
「説明は以上です。質問は?」
確認しておかなければいけないと思ったことはいくつかあったが、木偶に気を取られてしまい、すぐに言葉が出てこなかった。
それに、一番知りたい自分の身の上の情報については、自分が蒼羽隊の一員である以上、彼女も知らないのだろう。
「部屋へ案内します。体の調子は?」
「大丈夫です」
思ったより高さがあって、ベッドから降りる時に少しよろめく。先程の看護婦がやってきてカーテンを開け払うと、毛糸で編んだ上着を肩にかけてくれた。
「服はそのまま着て行って、洗濯籠に入れてくれればいいからね。お風呂場に、洗濯籠があるから」
よく分からないが、このまま着て行っていいらしい。
二人が医務室を出ると、木偶が浮かび上がって、事務員のあとをついてきた。吸い付くように肩の上に乗り、髪の中に隠れる。
本部は古い造りのようだが、きれいに掃除されており、無駄なものがなかった。木製の床が敷かれた廊下をしばらく行くと、中庭が見えた。女性を象った彫像が、空に手を伸ばしており、その肩には小さな鳥が乗っている。
「名法師様です」
彼の視線に気付き、事務員が説明する。医務室での彼女の説明によると、たしかその名法師という人物は、蒼羽隊の総督とのことだった。慈愛に満ちた、広い心をお持ちの素晴らしい方だと言っていた。
自室に戻るまでの間、ほとんど人とは会わなかった。ここは思ったより広いようだ、と彼が思った時、横から「チビ」と声をかけられた。
振り返ると、白いシャツに灰色のズボンを履いている男がいた。服は上等なのに、なんとなく、不潔で投げやりな雰囲気の男だ。煙草の匂いがする。目が合ったので自分のことだと気付き、記憶がない旨を説明しようとしたが、先を行く事務員は足を止めてくれなかった。
「なにをされた?」
男は笑みを浮かべて、いきなり問いかけてきた。男に対して、気味悪さを感じる。彼の顔は笑っているのに、怒っているようにも見える。意図の掴めない質問に答えを探しながら、事務員を引き止めるべきか迷っていると、凄みのある言い方でさらに追求された。
「どんな実験をされたんだ?」
全く心当たりのない質問にも関わらず、心臓がどきりと鳴った。
「記憶が飛ぶくらい苦しい実験か?おい」
男はぎょろっと目を見開いた。顔が恐ろしい。
「鼓童(コドウ)」
事務員が立ち止まって、男を睨み付けている。男は彼に視線を留めたままゆっくり離れると、今度はへらへら笑いながら彼女へ近づいた。
顔をぐっと近づけて、突然「ババア!」と叫ぶ。
事務員は顔に唾液がかかるのを嫌がる様に、目を瞑って顔をそむけた。急なことに句朗は驚いたが、彼女は何事もなかったかのように、また歩き始める。
男はこちらに笑みを向け、近づいてくるともう一度「チビ」と言って、句朗の頭に手を伸ばしてぽんと叩いた。思わず身を縮めたが、彼はそれ以外何も言わなかった。駆け足で事務員に追いつく。
「彼は、人が怖がることをいって面白がっているんです。いつもああなの」
「ひどい人ですね」
彼女への暴言を思い出し、庇うように言うと、曖昧な笑みを浮かべた。慣れているのか、あまり気にしていない様子だ。
渡り廊下を通って、多角形の建物の中に入った。正面に掲示板があり、左右に廊下が伸びている。中心の部屋を囲む様に廊下が伸びていて、廊下の外側にも部屋が取り囲んでいる。左手の階段を登ると、二階も同じ構造だった。いくつかの扉の前を過ぎ、そのうちの一つの前で事務員は立ち止まった。
扉の中心、目線の位置にあるくぼみに、木偶が自ら収まる。これで鍵が開くということらしい。
「私は鍵を開けられますが、普段、個人の部屋に勝手に入るようなことはしません。蒼羽隊の方に配られる木偶も、各自の部屋や本部の出入り口の鍵しか開けられません」
句朗は、部屋に入る時にサンダルを脱ぐべきか迷ったが、事務員はそのまま入って行った。部屋の中をぐるりと見回す。きれいに片付いており、白と茶で統一されて居心地がよさそうだった。家具の一部に竹が使われているのが珍しい。部屋の中に引き戸があるのは、手洗いに通じているのだろうか。壁にかかっている鮮やかな青い布が目を引く。
机の上を指し、事務員が言う。
「そちら、先ほど説明した久離録です」
そこには青い表紙の本があった。医務室での彼女の説明によると、今回のように記憶を失った事態に備えて、自分で身の回りの情報を書き記したものらしい。その見た目から、青い手記とも呼ばれる。このあと、すぐに目を通すつもりだった。
「あなたという人物についてとても個人的な事情が記してあるので、気軽に他人に見せないことをおすすめしますよ」
事務員が去るのは、心細いというよりも気が楽だった。自分の状況を正確に掴むために、自由に行動したかったのだ。先ほどまで感じていた孤独、倦怠感や諦めはなくなり、焦りだけが残っていた。
後で同じ班の人間が訪ねてくるとのことだったが、それまでにできるだけ情報を集めておきたいと思った。それはそうと、先程廊下で会った男よりは親しみやすい人物たちであることを願った。
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