1-6

「つめたっ」


 六鹿のグラスから水滴が垂れて、四蛇の膝を濡らす。


 二人は自宅の屋根の上にいた。自分たちを取り囲むようにそびえ立つ集合住宅を見上げながら、ただ、時間の経過を楽しむ。六鹿の手には果実を酢につけこんだお気に入りのジュースがある。この狭苦しい街で少しでも開放感を得るために、屋上へ登るのが二人のお気に入りだった。


「目有の話って何かな」


 数日前に浮文紙で、『話したいことがある』と、予定を確認されたのだ。もう少ししたら、うちへ来るらしい。


「俺も飲みたい」と四蛇が問いを無視してグラスに手を伸ばしたが、六鹿はそれを遠ざけ、自分で作ってこい、と顎で示した。


「あの人形ってさ、しゃべる山彦にもらったんだったよね?」


 四蛇はグラスに視線を向けたまま、聞いているのか聞いていないのか、頷いた。


「それ以外に何か聞いたことある?」


「一口ちょうだい」


 六鹿はしぶしぶ四蛇にグラスを差し出すと、四蛇は一気にその半分ほどを喉に流し込んだ。自分でおかしくなって、咳き込み始めたので、六鹿も一緒に笑ってしまった。


「あんまり覚えてないや」

 四蛇が言う。


 四蛇に尋ねておきながら、六鹿は別のことを思い出していた。ずっと前に、六鹿と四蛇も、人語を話す鳥に会ったことがあるのだ。その時の経験は、一種の夢の中のような感覚だったため、記憶にも自信がなく、誰かに話したことはなかった。鳥が話すのだから、山彦だって話すかもしれない。人語を話す生き物は、自分たちが知らないだけで、案外いるのかもしれない。五馬に山彦の話を聞いたときは真面目に取り合わなかったが、もっと真剣に話を聞いてあげればよかった。


「あのさ、しゃべる鳥は覚えてる?」

 あの日のことを四蛇と話すことはほとんどなかったので、ほのかに緊張した。


「あー、覚えてる。波山だろ」


「波山?」


「波山って種類の鳥」


「よく知ってるね」


「ジュース」

 四蛇はそう言って、六鹿のグラスを持ったまま、階下へ消えた。


「ついでに人形持ってきてくれない」

 階段へ向かって呼びかけたが、返事はなかった。


 六鹿は前の通りを見下ろした。人っ子一人いない。周りを取り囲む集合住宅のベランダにも、生活感はない。一部屋だけ銀色のバケツが伏せてあるが、何年も前からのことだった。窓枠やパイプが等間隔に並んでおり、ここから見ると不思議な模様のようだ。長いこと見つめていると、なぜだか不安が募り、そわそわしてくる。


 人々が去り、抜け殻になった水無町は、寂れていて、汚くて、壊れそうで、だからこそ美しさを秘めている気がした。

 安い居住用の高層の建物が肩を並べ、水路の上や建物の上なども含めて、住人のいない簡素な住宅が所狭ましと立ち並んでいる。壁沿いに階段が張り巡らされ、建て増し住宅へとつながっている。電線はむき出し。建物の造りはどれもずさんで、壁にひびが入っていたり、建物全体が傾いたりしている。古い住宅だと、雨風で自然とつぶれてしまったものもある。道路の排水の整備は間に合っておらず、雨が降った後の道路は、水浸しだ。空はいつだって狭かった。


 六鹿は時々、この景色を見ていると、自分の気づかないうちに、世界にひとりぼっちになってしまったような気持ちになる。赤壁の向こうにも本当は誰もいなくて、目有も四蛇もどこかへ行ってしまって、自分はそれに気づかずに生活しているのではないかという気になってくる。

 その不安はわずか数分の間に強烈な孤独に変わり、焦った六鹿は、四蛇の気配を捉えようと耳を澄ます。


 階段を軋ませる音が聞こえてきて、六鹿はほっと息を吐く。さっきまで何の話をしていたっけ。


 四蛇はジュースを両手に戻ってきた。注ぎ足してきた片方のグラスを六鹿に渡す。


「ごめん、ありがとう」


 四蛇は、ポケットに忍ばせていた例の人形を六鹿に渡した。


「今、考えていたけど、やっぱりあんまり思い出せないんだよな。俺が本気にしなかったから覚えていないのかもしれないけど。覚えているのは、五馬が危ない目に遭うと冷たくなるんだろ。それくらいかな」


 人形に書かれた名前の人物の身に危険が及ぶと、冷たくなる。そういう呪術がかかっているということなのだろう。


「俺、まずいことに気づいた」

 六鹿の手から人形を取り、四蛇は言った。


「今更だけど、これって認められてないよな」


 四蛇の言いたいことはすぐに分かった。この国では、呪術のかかった品物は国によって認可されないと、一般人には所持することすら許されないのだ。見つかる心配など全くしていなかったため、この人形は届けを出していない。


「これがもし、俺たちが知らないだけで、禁止されている品物だったとしたら。目有の立場で考えたら、報告しないといけない、なんて可能性があるのかもしれない」


「私たち捕まる?」


「まさか」


 顔を見合わせて薄笑いすると、ちょうど玄関のブザーが鳴った。四蛇は慌てて人形をポケットにしまった。

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