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 村の寄宿舎へ戻ると、作業員たちはまだ起きていた。採掘跡の寄宿舎とは異なり、こちらは暖かく、少しは清潔だ。


「おう、寒かろう」 「寒かったろう」


 居間の方から、酔っ払いたちの声が聞こえる。四蛇は適当に手をあげて階段を登り始めたが、六鹿は「お借りします」と彼らに聞こえるように声を張り上げ、頭を下げた。


 ここへは仕事で定期的に訪れ、作業員たちに宿を用意してもらう習慣になっていた。

 宿とは言っても、黴臭く狭い部屋に、いつ干したのか分からない布団が二組置いてあるだけだ。屋外でテントを張るようなことになれば、命に関わるため、二人にとってはそれで十分だった。

 六鹿は腰の鞄をがちゃがちゃと外し、布団を敷く準備を始めた。


 四蛇が「便所」と言い残し、部屋を出ていくと、階下から「俺らの、命は、軽いってことさ……」と、怒ったような声が聞こえてきた。酔っぱらうたびに、やたら悲観したがる作業員の顔が思い浮かぶ。


 六鹿は二枚の布団を敷くと、枕の匂いをそっと嗅いだ。奥の方に男の体臭を感じ、顔をしかめる。匂いを確かめたことを後悔しながら、二つの枕を並べた。後ろで一つに編んでいる髪をほどくと、髪の束を掴んで、またそっと匂いを嗅いだ。


 昔、ここの連中に入浴を勧められたことがあったが、四蛇がすぐに断った。このへんの風呂はお湯が出ないからだと思ったが、私ひとりが女であることも、理由のひとつなのかもしれない。ここ数年、四蛇が私に気を使ってくれているように感じることが、しばしばあった。この間まで生意気で気の利かない、無愛想な弟だったのに、彼の成長に驚かされることがある。


 翌朝、布団を畳んで顔を洗い、荷物をまとめると、寄宿舎の居間へ出た。

 連中は、すでに仕事に出たらしく、誰も残っていなかった。二人は勝手にお湯を沸かし、茶を淹れ、持参していたパンと一緒に食べた。六鹿が髪を結う間、四蛇が食器を洗った。


 表へ出ると、眩しさに二人は目を細める。侘しい景色には陽を遮る物がなく、乾いた真っ白な世界が広がっている。この村の寄宿舎以外の建物は、ほとんどが廃屋だ。


 もともとそんなに賑わっていた土地ではないが、憑き物が現れてからは、あっという間に、住民は都の方へ越してしまった。今は手入れをする人もいないため、道路の境界線すら見えない。砂と岩だけの無骨な景色。この辺へ来るのは炭坑夫や、そこへ配達に来るこの姉弟くらいだった。


 寄宿舎の横には労働者の作業服が整列をしている。物干し竿は、きいきいと耳障りな音を鳴らし、不安定な揺れ方をする。その脇に、姉弟の相棒がじっと待っていた。


 四蛇は何も言わず、二輪の方の遊型車へ近づいた。遊型車とは、九頭竜国で普及している、燃料で動く車だ。用途によって、いくつかの形がある。


 四蛇の肩まであるさらさらの黒髪が風に舞う。彼はうっとおしそうにそれを押さえると、乱暴にヘルメットをかぶった。六鹿は手袋をつけると、三輪の脇に立った。ハンドルのレバーを操作し、後方についているペダルを大きく踏み込む。遊型車はぶるっと震えただけだった。二回目の挑戦で、タッタッタと心地良い音が鳴り出し、物干し竿のきいきいという音をかき消した。


 四蛇が先に出発し、そのエンジン音が聞こえないくらい遠くへ離れたところで、六鹿はヘルメットを被り、ゴーグルを下ろして出発した。


 空は雲ひとつなく、からっとしている。白壁までは気を抜くことはできないが、清々しい気持ちだった。ぱちぱちと砂が顔に当たるのも、不快ではない。来た時と比べて、下ろした荷物の分軽くなったため、車にもそんなに無理をさせずに運転できる。


 二人の仕事は、主に白壁から離れた場所へ物資を届けることだ。食糧など生活に必要なものについては国が定期的に支給しに来るため、二人の仕事の対象となるのは、緊急性がある書類や機械の部品などが主だ。

 配給される食糧は保存の効く不味いものばかりで、嗜好品はほとんど含まれない。二人は、炭坑夫側の依頼で、そういうものを届ける仕事も請け負っている。今回も酒、お菓子、煙草、雑誌などを届けにやってきたのだった。


 風に乗って、短いクラクションが三度聞こえた。憑き物がいたという合図だ。

 六鹿はあたりを見回し、背の高い草原へ侵入すると、しばらく身を潜めた。遊型車にはゴム性のクラクションがついており、それをつまむと音が鳴る。その音の鳴らし方で、二人は合図を決めているのだ。


 緊張を忘れ、顔に当たる風を楽しんでいると、油隠様の像が、遥か遠くにぼんやり見えた。あまりに大きいため、こんなに遠くからでも見えるのだ。六鹿に記憶はないが、昔、油隠様の近くまで行ったときに、その迫力に、六鹿は泣いてしまったのだと聞いたことがある。


 油隠様の脛のところには、油隠で暮らす全ての生き物のための、共通の掟が書かれている。


『朋の骨身を食うべからず』


 やがて、長いクラクションの後、短いクラクションが一度鳴った。これは進めの合図だ。


 六鹿は草むらから出ると、再び帰路をとった。四蛇は遥か前方で、同じ方向を目指している。前を走る二輪の方が、危険が多く、昔は六鹿が運転していたのだが、最近は四蛇がその役を買って出るようになった。左手の遠くの方に、小さい憑き物が数体、群れをなしているのが見える。先ほどの合図は、あれらを回避するためのものだったのだろう。


 二人は一度、町に寄って遊型車のエンジンを休ませた。その町も、すでに廃墟と化している。安全とは言えないが、森や野原と比較すれば安全だ。地下の、かつて遊戯施設だった場所で、盤上ゲームをしながら時間をつぶした。五馬が得意だったゲームだ。幸い、憑き物に出くわすようなことはなかった。


 町を後にして、白壁に到着したのは日が傾いた頃だった。白壁と呼ばれるこの壁は、九頭龍国を囲う三つの壁のうち、二番目に位置する壁である。

 遥か昔、隣国である煙羅国と戦争をしていた時に建設されたものだ。憑き物が各地で暴れ回るようになった頃に、国が慌てて作り始めた一番外側の壁は、結局、部分的に簡素な石垣が設置されたのみで、犠牲者の多さから早々と設置が打ち切られた。今では計画書の中にのみ存在するものである。そのため、九頭龍国の人間のほとんどが、この白壁の内側に住んでいる。


 白壁は木と漆喰で作られており、上に屋根がついている。いくつかの出入り用の門があり、二人は自宅に一番近い門へ向かった。六鹿は門の前で遊型車を停め、扉の脇についているブザーを鳴らした。


「はい」


 気怠そうな男性の声が応え、同時にブザーの近くの隙間から目が覗いて、注意深い視線を寄こした。


「水無町の文六鹿と、文四蛇です」ゴーグルを上げながら六鹿が名乗ると、隙間から、ぬるりと手首が出て来た。


 男は、手のひらを六鹿の顔にかざしながら、「ああ、おかえり」と言った。掌の真ん中についているひとつの目と、視線が合う。分厚いまぶたには細かい睫毛が付いていて、今度は関心の薄い視線を投げかける。


 男は手の目という生き物だ。ふたつの目が、顔ではなく掌にそれぞれついている。門番が手の目であることは少なくなく、もしかしたら顔見知りかもしれないが、手の目の顔は覚えづらいため、声はかけないでおいた。


 門番としての仕事は簡単だが、白壁の近くは危険が多い。六鹿や四蛇と同じように、裕福ではない立場の人だと推測される。前に憑き物が白壁を破って暴れまわったのは、ほんの一ヶ月前のことだ。

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