HUE ~だいだらぼっちが転んだ日~

宇白 もちこ

第一章 六鹿と四蛇

1-1

 強い風が、背中を押す。

 わけもなく後ろを振り返りたくなったが、そこに恐ろしい怪物がいるような妙な心地がして、振り返ることはしなかった。


 人工の明かりは遠く、進めば進むほど、闇が深くなっていくような気がした。突然、この世でひとりぼっちのような、抗えない孤独感が彼を襲い、ひどく動揺する。


 ついに四蛇(シータ)は駆け出した。

 冷たい空気を吸ったり吐いたりしていると、やがて耳の下あたりが痛くなってきた。前方にわずかな明かりが見えたので、速度を落とし立ち止まろうとする。靴の底が地面を強く打ち、その音があたりに響いた。足の甲がびりびりと痛い。息を整え、明かりの元を覗き込んだ。


 見覚えのある色のその明かりは、事務所の中から漏れているようだ。表は鍵がかかっているため、横へ回り、朽ちかけている木製の柵を手で押すと、しなって人が通れるくらいの隙間が空いた。四蛇はそこから侵入すると、窓枠に足をかけて屋根へ上がる。ぼろぼろの事務所の屋根は、ぼこんぼこんと、歩くたびに大きな音がした。


 四蛇の見立て通り、二階の寄宿舎の窓が開いていたため、そこから中へ入る。使われていない寄宿舎は、真っ暗で埃っぽかった。階段を降りて事務所へ行くと、赤い紙の貼られたカンテラが机の上に置いてある。彼女はいなかった。


 事務所の前の廊下をまっすぐ行くと、地下へと降りる金属の階段がある。四蛇はためらわずに一番下まで降りきると、奥にある重厚な扉の取っ手を掴んだ。濡れたように冷たい。


 扉を開けると、向こうは明るかった。湿った錆の匂いと、時間の経ったオイルの酸っぱい匂いがして、くしゃみが出そうになる。扉の脇のカンテラには明かりが灯っていて、トロッコを動かす装置にも電源が入っている。


 手袋をつけてトロッコを起動させると、それに乗る。何度か乗ったことがあるので、やり方はわかった。動きだしたトロッコは、ものすごい音を立てながら、ぐんぐんスピードを上げ、地下へと降りてゆく。お尻が底に何度もぶつかり、痛みに顔を顰める。恐怖が、お尻から腰と背中を通って、首のところまで這い上がってきた。


 作業員たちが、トロッコが危険だと不満を漏らしていたのを思い出す。足を折ったという話を聞いたのは一度だけではない。彼はできる限り身を縮め、頭を守った。傾度は徐々になだらかになり、やがて何かを無理やり引きずるような音を立てながらトロッコが止まった。レールの脇に砂を詰めた布袋を置き、それにぶつけることで速度を緩めるという、原始的な仕掛けになっている。


 四蛇は片手でお尻を撫でながら、もう一方の手でトロッコを押して脇の道へ収納した。ここから見晴らし台へ登るには、長いはしごを登らないといけない。はしごの下まで来て見上げると、星空が四角く切り取られていた。登り始めると、梯子の表面の錆がぽろぽろと剥がれた。


 昔のことを思い出す。そうやって四蛇がこぼした錆が、顔にかかると、後から登ってきた兄に不平を言われたことがあった。もう一度上を見上げると、前髪が風に舞ってひらひら浮かんだ。汗ばんだ首元に風が入り込んで、心地良い。


 はしごを上りきると、真っ暗な見晴台に六鹿(ロッカ)はいた。こちらに背を向けて、広大な景色を見下ろしている。


 ここは、採掘跡だ。見晴台は、お椀の形をした採掘跡の中心に位置している。目が慣れてくると、そのごつごつした岩肌が、視界一周分広がっているのを確認できるだろう。その景色を初めて見たときは、そのあまりの広さに、足元がぐらついたような気がしたものだ。すっかり採り尽くされたあとのため、今では人の出入りはない。


 六鹿はこちらを振り返らないが、トロッコの音で、四蛇が来たことには気づいているはずだ。四蛇は彼女にかける言葉を少し探した後、「ひとりで出歩いたら、危ないだろ」と言った。


「ひとりで出歩いたら、危ないだろ」


 自分の発した声と全く同じ声が六鹿の方から聞こえ、どきりとしたが、彼女の腕の中から白い尻尾がするりと覗いたのを見て、四蛇は片頬を上げた。


「山彦か」


「山彦か」


「……」


 白い毛の塊は六鹿の腕から赤い鼻を出し、彼女の二の腕をぺろぺろ舐めた。彼女が腕をほどくと、山彦はそこからぴょんと飛び出し、暗闇へと消えていった。


 六鹿がこちらを振り返り、「しゃべる山彦の話、覚えてる?」と言った。


「……ああ。五馬(イツマ)の」


 昔、兄の五馬が話していたことがある。人間の言葉をそのまま真似するのが山彦という生き物の特徴だが、そうではなく、まるで人間同士のように対話することができる山彦と会ったことがあるらしい。


「そう」

 そこで会話は途絶えてしまった。


 四蛇の位置から、六鹿が何かを手に握っているのが見えた。彼には、それがなんだか分かった。枯れた大地と、六鹿が手に持つ抜け殻が、血の通った姉から生気を奪っていくような気がして、四蛇は言った。


「俺は、いないと思う」


 六鹿はしばらく経ってから、思い出したように「うん」と言った。


 四蛇は顔をしかめると、空を仰いだ。満天の星だ。鼻からゆっくり息を吸いながら、四蛇は兄のことを、意識から追い出そうとした。


 ふと、六鹿の取り繕った声が聞こえた。


「ごめん、帰るか」


 彼女はにこっと笑い、手に握っていたものを、腰につけた鞄にしまった。

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