5. or you(幸福)




 変わり映えしない日々が続いた。もっともそれは、幸福なことだった。幸福とは、昨日と同じことが今日もできること、今日と同じことが明日もできること。不測の事態が起こらないこと。わたしは朝起きて、朝食を摂って、この独房のような白い家に引きこもり、休憩を挟みながら日が暮れるまで、手を動かして紙に線を描く。外では朝に霜が降り、昼は陽ざしに氷がほどける。窓辺が真っ赤に染まる夕暮れにペンを置く。夜になれば、朝に向けて氷を編む自然に思いを馳せる。これがわたしの幸福で、また同時に贖いでもあった。

 絵の完成したものは、木箱にいれた。最初に描いたヘレボルスから、ヒヤシンス、クレマチス、アネモネ、スイセンなど、可能な限り忠実に、精密に描くように心がけた。同じ花であっても角度を変えたり、花びらだけを写したり、たまには枯れたのも描いたりして、飽きないように工夫を凝らした。そうして完成したものは、出来がよくとも悪くとも、すべて木箱の中へといれることにしていた。なぜかというと、その一枚々々は、全て手向けの花だからだ。

 わたしの無為な、何も残らない日々の中でそのようにつたない花の絵だけが数を増していき、二月の終わりごろには、その量は木箱のおよそ半分に達した。


 部屋の中が薄暗くなる。

 影が伸び始める。夕暮れだ。


 わたしは炭のペンを置いて、紙をもって立ち上がる。

 木箱の傍には、人影がある。


「声は聞こえる?」

「ええ」

「なんて言ってる?」


 紙を持つ手を離した。木箱の中に降りつもる、厚さ一ミリほどの薄い花。萎れた花も、その上からまた一緒に入れた。

 音も立てずに降り積もるさまは灰に似ている。


「わからない。けれど、なにか言っているわ」

「そう」


 枯れた生花。わたしを媒介する花。足元の箱の中身をぼんやりと見つめ、これはだれに届くのだろうと考えた。そうして、こうも考えた。この箱がいっぱいになるまでに、わたしは死ぬだろう。

 予感ではない。確信だ。


 ——聞こえる?


 目を閉じて、耳を澄ます。

 声が大きくなってくる。怨みのこもった呻き声が聞こえる。


「ええ」


 ——早く死ぬべきだ。


 傷んだ木箱のそばにかがんで、木目に額をつけた。

 これは亡霊のことばでないと、わざわざ説明する必要はなかった。

 死神はよく承知していた。




  5




 指を酷使する時間が増えるにしたがって、とうに癒えたはずの小指が痛み始めた。ペンを動かすときに小指を使うことはないのだけれど、無意識に力を込めてしまうみたいで、骨自体が悲鳴をあげるかのような疼痛に苛まれるのだ。

 わたしは労うようにその歪な指をさすった。小指というのは、ほかと違ってその役目がない。無理やり存在する意味を与えるとするならば、ほか四指の数合わせといったところだろうか。

 だからわたしは、小指のような人間だ。ほかの命の数合わせのために生まれて、その上まったく余計なことをするから、小指以下ともいえる。はなから望まれていなかった命は、自由だ。自由なので、人を殺めてしまったりする。自由とは、さみしくて、苦しいものだ。


 ぬるい朝だった。ともにカーテンを開けたミクス.ラムはわたしが階下へくだる頃には出かけてしまっていて、窓辺のテーブルにはいつものごとく湯気だった紅茶、固く冷たいパン、それに今回は、幾枚かの銅貨が置かれてあった。

 冷めた紅茶を飲み、パンを噛みちぎって朝食を摂り終えると、もう花がなかったので調達しようと思い立った。借り物のコートを羽織って、ポケットに小銭を入れ、外へ出る。子どもたちが駆けまわっているのを横目に通り過ぎる。ひとりの少年が、わたしを物珍しそうな瞳でみていたので、足早に立ち去った。


 町角のパン屋でクロワッサンを買って、地面に目を落としながら花をさがした。春の息吹を感じるとはいうものの、冬の気配は依然としてそこかしこに見受けられる。花はなかった。仕方がないので、広場へ向かう。広場の隣には、いわく死神が棲むと噂されるという、針葉樹の立ち並ぶ昏い森がある。そこにいけば、なにか目当てのものがあるかもしれない。

 森はまだうっすらとした雪に覆われていた。入り口まで来てみるも、花はおろか明るい色彩はかけらもみえず、引き返そうかと迷っているところで、わたしは声をかけられた。


「おい」


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