予兆
気づいたときには手遅れだった。そういった経験は誰しもあることだろう。かつてわたしにもあったものだ。気づいたときには手遅れだった。パパは姿をくらませてから久しかった。ママは泥のようなリビングの中で酒と薬に溺れていた。使用人はすべて解雇された。近所づきあいはそもそもなく、しかしハウディア・クライムには悪魔が憑いていると噂された。町には雨が降っている。太陽に背を向けられた家の中はひどくじめじめしている。ママは発狂している。その傍らで身を小さくしたわたしは、折れた小指の骨がじくじくと痛んでいる。だだっぴろい家に残ったのは、数多のゴミと埃とママとわたしだけだった。
4
遠くの空で雷鳴がとどろいていた。わたしは今しがたスパナで殴られた小指を、左の五指で覆っている。動かない。しかし腫れている。折れているのは明白だった。あまりの激痛にわたしが小さな呻き声を漏らしていると、その上からママが覆い被さるようにして喚き散らす。そしてこう訊ねた。
「お前はどちらの味方なの?」
どちら、というのは両親のどちらか、ということだった。つまり、
沈黙していると、ママを纏う空気がどんどんと冷たくなっていった。わたしは何か言わねばならないと気がせいたが、けれど気のきいたこと、ママを喜ばせられるような発言は何も思いつかなかった。
ただ、頭が真っ白だった。
「わたしがおかしいと思っているのね」
「……」
「わたしよりあの人を信じているのね。悪魔の
「ママと、」
一緒にパパの帰りを待ちたい。
わたしは震える声でそう告げた。たいそう不気味な沈黙が流れたので、わたしは自らの失言を思い知ったが、これが紛うことなき本心だった。わたしはうそでも。他のことが言えなかった。うそは悪いことだから。あなたがそう教えたから。
「……」
ママの返事を待つ間、わたしの心臓は張り裂けんばかりに早鐘を打っていた。口から心臓が出そうなほど、とはこういうことかと思い知った。ママは先刻からナイフのように鋭く暗い瞳をわたしに向けていたが、突然ふわりとその目尻を和らげると、しゃがみこんでわたしの頭を撫ぜた。「そうね、ローイア」
「おまえは悪魔の子だものね。どれだけ愛しても報われない。おまえが悪魔の子だからよ」
手が離れていった。憤るかと思われたママはそのまま俯いて落涙した。
雨音が重たい沈黙を埋めていく。向かいにある灰色の鏡には、わたしと、俯いたママと、床に置かれたゴミが写っていた。
「……」
わたしは思わず、小指の痛みを忘れて鏡を凝視した。カーテンの隙間に、人がいる。瞠目するわたしと鏡越しに目が合うと、その人は暗く微笑んだ。
振り返って確認するが、誰もいない。カーテンの隙間には窓と、針のように細い雨とだけが映っている。
「ママの言っていたことは」
ミクス.ラムと花を書く。指先から服まで炭で汚れるが、構うことはなく。黄色く焼けた紙に花を書いていく。花弁、雄蕊、萼、茎、葉、葉脈。目の前の線がことごとく、歪んで見えて、わたしは木炭を手中から離した。そうして、息を吸って目を閉じる。閉目する前のミクス.ラムの絵はたいそう端正だった。余白も線も法にのっとっている。私情はなく、正しくありながら冷たい。そんな絵で、わたしはあんな花のように、ありたかったと心から思う。
「ママの言ってたことは?」
「本当だったの?」
会話をしていても手は止めない。目を閉じていると、線の描かれる音が海鳴りのように聞こえた。
「わたしは間違ったのかしら」
「……」
「何事にも正しい答えがあるはずよ。心を凝らせば正解なんて、簡単に分かるはずなのに、わたしには分からなかったの。自分のことしか考えていなかったからよ。だから選び損ねた。わたしがあのとき間違わなければ、きっとママとふたりで、パパの帰りを待てたのに」
「……」
ミクス.ラムはペンを置いた。その音を合図にわたしは目を開いた。ゆっくりと。いきなり世界の全てが目に入ってきたら、ビックリするから、苦しいから。ゆっくりと。
「知らないという選択も、勇断の一種であることに違いないとぼくは思うよ」
珍しく逡巡したのち、ミクス.ラムはきっぱりと答えた。
「真実などない。真実に基づいた正解もない。少なくとも人間には。それを知るのは神さまだけ。人間に与えられたのは、選択と結果だけだ」
「……」
微妙な顔をしているのが、自分でもよくわかった。釈然としない気持ちを抱え、わたしは紙の上に目を落とす。
「きみは」
弱いね。ミクス.ラムは笑った。弱いから正義にしがみつくしか術がない。すべて失った今でさえ。
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