3. or you (写生)



 一人になると、室内は鉛のような静けさに満ちた。それに比例するかのごとく、おのおの巣穴に帰っていたわたしの頭の中の虫たちが、そろぞろと這い出ては、自由に脳を行き来する。わたしは喉元までせり上がった憂鬱の塊を嚥下して立ち上がると、カップをシンクへと運んだ。そうして、茶渋がつかないようにその中へ水を張った。


 壁際の棚にある、上から三番目の引き出しをあけると、カラカラカラと音がした。長さがバラバラの木炭が三本、端が折れていたり汚れていたりする木炭紙が十数枚。古いカレンダーやチラシなども入っている。物が増えることをことさらに嫌がるミクス.ラムが用意したとは考えづらいので、もとからあったものなのだろう。絵を描くのが好きな子どもがいたに違いなかった。


 わたしの太ももにはナイフで裂いた傷跡が幾筋かある。ミクス.ラムは昼となく夜となく忙しい身であるけれど、暇をもてあまして亡霊に蹂躙されていたわたしは、手慰めにペティナイフで自分の足を切っていた。そんな遊びを見るに見かねたのか、それとも家が血でよごれるのが嫌だったのか、死神はある日、人から貰ったいう鉢植えを持って帰ってきた。そうして、棚の引き出しをさし示して、あの中のものを使って絵を描いていればいいと言った。わたしはその日以降、ひとりで絵を描くようになった。それと同時に、家の中のもの全般を触ることを禁じられた。


 最初の花はクリスマスローズだった。ヘレボルスとも言う。白い花びらが幾重にも重なって、中にはレモン色の雄蕊がのぞいている。綺麗だった。けれど、生き物を育むことに慣れていない死神と子ども一人の環境下では、花はすぐに萎れてしまった。


 わたしは適当な長さの木炭を一本と紙を数枚、そうして萎れた花を取り出すとテーブルに向かって絵を描いた。集中すると、かたわらのママの冷たい息遣いが消えた。呪いの言葉が砂上の城のようにほどけていった。わたしの目の前には、紙と木炭と、花だけがあった。紙の上には線が生み出され、影と日向と、光と闇が生み出された。わたしはなるべく何も考えずに手を動かした。太陽が傾き、町の端にある冷たい森の向こうへと沈み、部屋がうす闇に満たされ、手暗がりになるまでずっと。




  3




 暗闇から音楽が聞こえる。

 まるで天から降り注ぐ雪が、弦に触れるかのような音だ。

(ローイア。ローイア)

(まあ、きれいな瞳ね。パパの目とおんなじ色ね)

(世界のどんな海よりもうつくしい青よ)

(ローイア)


 ——ふと、雪の香りが鼻腔をついて、目が覚めた。薄目をひらくと、テーブルの向かいには誰かが腰かけている。「ママ?」先ほどまで見ていた夢が尾をひいている。たしか朝だった気がするのに、いつのまに暗くなったのだろう、と訝って目をこする。見慣れない景色だった。わたしの家に、こんな机があったかしら。と考えながら顔をあげると、部屋の中央から下げられた焔に照らされて、水晶のごとき人影がある。

 わたしは苦笑した。


「おかえりなさい」

「ただいま」

「起こしてくれたらいいのに」

 わたしは肌をさすった。室内はかなり気温が下がっていた。それに、座ったまま眠ってしまって節々が痛い。

「幸せそうに見えたから、起こすのも野暮かなと思ってね。」


 部屋を取り巻く空気は鉛のように重たかった。夜そのものが人間に反旗を翻したかのような、たしかな悪意を感じさせる夜だった。確かに夢は幸福だった、こんな現実と比べるなら。

 耳の奥から虫がざわめく。鬱々とした気分が頭をもたげ、喉の奥が酷くうずいた。ペティナイフで刺して、中にうごめく虫たちを出してしまえたら、果たしてどれほど楽だろう。


 けれど、ミクス.ラムはあまり自傷を許さない。そんなことをしても止められるのがオチに違いなかった。わたしにはまだ死期が訪れていないらしい。


「絵は描けた?」

「あんまり」

「夜は寝れるかい」

「あんまりね」


 ミクス.ラムはこの暗がりの中、キッチンでなにやら作業している。にわかに甘い匂いが漂い始め、胸の裡が少しばかり楽になる。


「精神科医みたいね」

 わたしは目を閉じたまま口を開いた。

「やろうと思えばなんでも出来るさ」

「ベビーシッターとかね」

「そうそう」


 そういってわたしにホットチョコレートを差し出した。片手には葡萄酒を持っていた。


「ありがとう」

 器用ね、と付け加えると、長く生きているからね、と返ってきた。

「人間の世話も得意なの?」

「まあほどほどには」

「あなたの言う神さまとやらに怒られない?」

「まあ、たまにね」


 受け取ったホットチョコレートは暖かかった。かじかんだ指の表側のこわばりが溶けていく。口をつける。甘さが控えめでおいしい。ミクス.ラムは人間の介護を終えると、暖炉の前のソファに腰を落ち着けた。

 

「フクギョウはどうだった?」

「つかれたよ。たまに勘のいい坊やがいる。ぎゃあぎゃあと喚かれてね」

「正常な反応よ」

 ミクス.ラムは笑って、「身も蓋もない」と呟いた。

 わたしはこの人が赤子をあやしている姿というのがどうも想像できないけれども、おそらく泣かれたって、口答えされたって、悪口を言われたって、ミクス.ラムはきっと怒らないのだろうと思う。だから試しに、尋ねてみる。


「あなたは怒ることってある?」

「ないと思うけれど」

「羨ましいわ」

「人が死ぬことをよく知っているからだよ」

 にべもなくその人は言った。

「……誰だって知っているわよ」

「はたしてそうかな」


 なんだか微妙な気分だった。いつか死ぬ人間に対して怒るのは無駄だと言われるのは。

 そんな所感をいだきながら、わたしはどんどんと冷えゆくカップを両手で持ち、夜が終わるのを待っていた。


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