第13話 夢で逢えたって、
わたしと由鶴は、わりと気が合う幼馴染だ。
わたしが由鶴にひどい言葉を投げつけたことは数える程しかないし、その逆は数え切れない程あるのでいちいち喧嘩になっていたらタイヘンすぎる。
だから、ずーっとふたりで過ごしているけど、本気でぶつかったことはほとんど無かった。
———ただ、いちどだけ。
わたしが由鶴に八つ当たりしちゃったときを除いて。
幼馴染の深月由鶴は、人見知りで無表情だし、みんなと親しくするのが下手な子どもだった。
家柄と美貌のおかげで周囲は彼を一目置いていたものの、明るく笑顔でみんなと仲良くなれる快活さは無かったように思う。
同級生の茅根とは仲が良さそうに見えたけど、茅根はみんなの中心でにこにこしている典型的な人気者タイプだ。
まあ、彼も彼で柔らかい微笑みでみんなを緩やかに統治していく狂気があったけど、それについてはここでは触れないでおく。そういう闇属性が由鶴と仲良くなったきっかけだろうし。
とにかく、幼い頃の由鶴は、わたしにしか懐いていなかったのだ。それがかわいくて、どうしようもない優越感だった。
天使のような美少年の由鶴に近づこうとする者は、老若男女問わずとにかく多かった。それが尚更、彼の人見知りに拍車をかけてしまったのかもしれない。
ほんとうに、わたしだけ。
みんなが欲しがる綺麗な由鶴は、わたしがいないと声を上げて笑うこともしない。
ゆづの面倒見てあげる!なんて偉そうなことを言っていた可愛かった幼い頃のわたしは、成長とともに、大切な幼馴染との向き合い方を間違えてしまった。
中等部になると、〝無表情で無口なだけ〟の美少年は、女の子たちに〝クールで大人っぽい〟という印象を与えるようになった。
由鶴の人生イージーモードなところは、女の子からの異常に高い評価だと思う。何をしても、どんなに根暗でも、あの顔立ちと彼特有の色香で、世の人間すべてを虜にしてきた。
そんな熱烈な支持をさらりと鮮やかにかわしながら、わたしのことしか見えていない由鶴。それは、思春期のわたしの独占欲と庇護欲を刺激するには十分だった。
超名門私立校なんて言ってもしょせん男子中学生。放課後は部活をして、大きな声ではしゃいで、たまに先生に怒られたりする。そんな男の子たちのなかで、儚げな美少年の由鶴は圧倒的に目を惹く存在だった。
楽器の演奏が得意だった由鶴は指を怪我するといけないからと言って、体育会の部活には所属しなかった。球技は好きだけど日差しが嫌いだからバスケやりたいな、と彼が思っていたのをわたしは知っている。
おそらく由鶴の親は、由鶴が「バスケ部に入りたい」と言えば承諾したと思う。でも、由鶴は言わなかったし、由鶴の親も自ら勧めることはしなかった。
彼の奏でるピアノの音色は、歴史ある深月財閥を示すのにかなり重要な役割を担っていた。深月が開くパーティーでの由鶴の演奏はちょっとした名物だったし、彼がピアノを弾く姿は誰もが見惚れる美しさだった。
由鶴は、自分の価値を知っている。興味がないくせに、冷静に自分を客観視している子どもだった。
それに、わたしが反対した。完全にわたしの勝手な意思で、由鶴がみんなと同じように運動部に所属するのを許可しなかった。汗をかいて努力する由鶴なんて誰が見たいと思うのか。しかも団体競技だなんて、由鶴が他の男子に染まって薄められたら困る。
何より、女子のわたしが入らない世界に、由鶴を入れたくなかった。部活の仲間なんて作ってほしくない。わたしの知らない時間、他の人たちと過ごした思い出なんて作ってほしくない。
わたしのいないところで、楽しまないでほしい。わたしといるときしか笑わなくていい。思春期の少女特有の凶器は、きちんと研いであった。
そうして、わたしは由鶴が見るはずの世界を狭めることに成功した。彼の世界はわたしが中心で、わたしの他には何も要らない。
由鶴は、落ち着いているせいで大人びて見えるけど、心は純粋でかわいらしい中学生だった。
アイスクリーム屋さんでわたしが好きな味を真似して選んだり、わたしが由鶴の教室に会いに行くと涼しい表情を崩して砂糖菓子みたいに微笑んだり。
かわいい、わたしだけの由鶴。
だけど、わたしだって、ずーーーっと一日中、由鶴に構ってあげることはできなくなってきた。女の子同士の会話も遊びもしたいし、何より、由鶴といっしょにいると彼と自分を比較してしまうのだ。
だから、比べなくて済む他の同級生と過ごすほうが、どうしても楽に感じてしまった。
すると、いつのまにか、人見知りの由鶴にも少しずつ友人が増えていた。社交性が低いと思っていた美少年は、しっかりと男の子たちの輪の中で笑っていた。
「深月の妹ってちょー美人だよな!いいなー!」
「知らないよ、妹だし」
「てか、オマエの妹が美人じゃなかったら血の繋がり疑うわ」
「由鶴くんの妹って、朝からめちゃくちゃハイテンションだよ?」
「血の繋がり疑うわ!!!!」
「てか、なんで茅根が朝の深月妹を知ってるんだよ!」
由鶴が発する言葉は少ないけど、会話は由鶴中心に回っていく。気怠げなポーズをとっているけど、楽しそうな幼馴染が目に入って、わたしの心の中はもやもやした。
由鶴と仲の良い茅根が、「こないだ由鶴くんの家泊まったら、朝ごはん一緒だっただけ」と笑って言う。わたしだって、ゆづの妹によく会うし。可愛がってもらってるもん。
わたしにも、ふつうに友だちがいる。いや、ちがうかも。
わたしは友だちと、一線を置いて、丁寧に付き合ってきた。傷つけられないように、そして相手を傷つけないように。
わたしを丸ごと受け入れてくれるのは、わたしが丸ごと受け入れてあげたい相手は、この地球上で由鶴ひとりだけだ。
そう思いながら女の子たちの明るい話を聞き流して、わたしは斜め前のほうに座る由鶴の無表情を眺めていた。
「放課後、深月も遊びに行かない?」
サッカー部の男子が由鶴の肩に手を置いて誘うと、由鶴は、こてんと首を傾げて訊いた。
「あれ、サッカー部休みなの?」
「きょう雨降ってるから休みになったー!」
「よっしゃー!!」
「毎日雨でも良いのにな!」
「毎日だったら休みにならないよ、雨の中やるよ」
「それはいちばん最悪のパターンだなー」
サッカー部がまいにち休みなんて冗談じゃない。由鶴がわたしと会う時間なくなるじゃんか。毎週月曜日は部活動が休みだから、由鶴を貸してあげているのに。
学校の男の子たちと遊んだことを、由鶴は柔らかい表情で話してくれる。みんなでチーム対抗テレビゲームをしたり、ファストフードを食べたり、ボウリングをしてみたりするらしい。
わたしとはやったことのない遊びばかりで、ええ、さぞかし楽しいんでしょうね。
ただでさえ、これから試験期間に入るっていうのに。ほんとうに憂鬱だ。
わたしは試験期間は寝る間も惜しんで勉強しないといけない。なおかつ、それを隠さないといけないから面倒だ。
ほら、わたしって、みんなが思うような天才型じゃないくせに、天才ぶってるから。はいはい、わたしは見栄っ張りですよ。
「凛子ちゃ〜んきいてる〜?」
楽しく会話していた女の子たちが、ひらひらとわたしの目の前で手を振ってきて、はっと我に返った。
「ああ、ほんとごめん、考えごとしてたみたい」
わたしが苦笑して謝ると、大らかな彼女たちはにこにこ笑ってまた話し始めた。
「凛子ちゃんの幼馴染の深月くんの話してたのよ」
「ほんとに格好良すぎるんだもん、目の保養だよねえ」
「授業中うとうとしてるの可愛すぎる」
「高級な黒猫みたい」
また、由鶴か。みんながみんな「深月が、」「由鶴が、」って。
大人になったら些細なことだけど、中学生のわたしは、隣に並ぶのが嫌になるくらいに由鶴へ嫉妬していた。
わたしのほうが成績良いのに学校の先生も由鶴にメロメロだし、わたしのほうが仲良くしてるのに女の子たちは由鶴の話をするし、わたしのほうが頑張っているのにみんな由鶴に注目する。
わたしが子どもすぎたせいで、どうしても他人と比較してしまうのだ。しかも、唯一わたしが負けてしまう相手。
中学生特有の繊細な乙女心は、複雑に絡み合って、わたしを苦しめる。
ああ、わたしもいちばん綺麗になりたい。
「深月くんみたいに綺麗すぎると苦労も多そうだよね」
わたしの思考が読まれたかのようなタイミングで、ツインテールの子が悩ましげに言った。
「だって、目を合わせたひとほとんどがトリコになっちゃうんだよ」
「男のひとからも告白されそうだしね」
「それじゃあ、あんな人嫌いになるのも当然だね」
たしかに由鶴は、会う人全員に「綺麗な子だね」と声をかけられる。彼の評価されるべき点はもっともっと沢山あるのに、みんなが彼の美貌に魅了されて、他が霞んでしまう。
わたしは、誰よりも由鶴のことを知ってる。由鶴が優しくて良い子なところも知ってる。謙虚で驕らず、容姿だけでなく心まできれいな子だ。
でも、それがわたしを緩やかに苦しめていることを、彼は知らない。由鶴は、何も知らない。
由鶴のことはもちろん好きだ。わたしに懐いてくれるのはかわいいし、境遇もよく似ているせいか考え方も近いものがある。
好きだけど、好きだからこそ、たまに、嫌になる。
大切にしてあげたいけど、わたしの手で壊したい。
広い世界を見せたいけど、わたしだけのものにしたい。
幸せになってほしいけど、わたしよりも少しだけ不幸であってほしいのだ。
そんな歪んだ感情を隠して、よくできた幼馴染を演じるわたしの限界はすぐそこまで来ていた。
するといきなり。
「だーれだ」
視界を冷たい手で遮り、抑揚の無い甘い男声が耳元にとろりと垂らしこまれた。至近距離のせいで、すっきりとした香りがふわっと香る。
わからないわけがないし、本人もそのことをわかっている。だから、わたしが答えるよりも先に手を外してしまう。
視界が自由になったわたしが振り返ると、わずかに口角を上げた由鶴がいた。
「なにこれ、すっごく可愛いんだけど」
「驚いた?」
「うん、すごくね」
思わず笑ってしまうわたしに、由鶴もつられてちょっと笑った。きちんと手を口元に持ってくるあたり、相変わらず品が良い。
さっきまで話題の人物だった彼がわたしたち女子の輪の中に入ってきたことで、彼女たちは分かり易く色めきだっている。
「で、どうしたのゆづ」
「いや、すごい見られてるけど」
「内緒話するつもりだったの?」
「ううん、きょう生徒会あったっけ?って話」
あまりの熱視線に苦笑しながら、由鶴は椅子に座っているわたしに視線を合わせるように腰を落とした。
どうやら彼は、きょうの放課後の生徒会の活動を確認しに来たらしい。わたしがほぼ強制で参加させた生徒会だけど、彼は欠席することもなく真面目に働いている。
「きょうは生徒会ないよ、もうすぐ試験だし」
だからね、ほんとは、いっしょに勉強しようって誘うつもりだったんだよ。
「もうすぐ?試験って来週でしょ」
「、それもそうだね」
「明日からちゃんと勉強するから、きょうは遊びにいってくる」
謎の言い訳をした由鶴は、きょうはサッカー部の子たちと遊びに行くらしい。かわいいな、もう。
女の子のほうが成熟が早いというのは本当のことみたいだ。まだ子どもらしく無邪気な由鶴は、わたしの心に浅い切り傷をつけていく。
「友だち、増えて良かったね」
「ん、ふつう」
「わたしとも遊ぼうね?」
「当たり前でしょ、試験勉強もいっしょにしよ」
わたしのささやかな反抗を、由鶴は丸ごと受け入れてくれる。全部を語らずともわかってくれる。
こんなに分かってくれるのに、もっと分かってほしい。言葉なんかなくてもいいくらい、もう、ぜんぶ、ふたりでひとつになりたい。
それから女の子たちと少しだけ会話をした由鶴は、失礼にならない丁度良いタイミングで男の子たちの輪に戻っていった。
わたしは、イチバンが好きだ。
そのための努力は惜しまないし、わりと何でもクリアすることができた。
だから、廊下に貼られた定期試験の順位表を見に行くのは大好物のイベント。しかも今回も、それなりに自信がある。
わたしはすぐに駆け寄りたいのを我慢して、他の生徒たちが群がってから、あえてゆったりとそこに向かった。
———そして、張り出された順位表を見て、わたしはくらり目眩がした。
「ゆづが1位、なの、?」
由鶴にはこれまでの定期試験で負けたことは無かった。というか、わたしはずっと1位を独占してきた。
だって、由鶴は定期試験にあまり興味がない。だから試験前でも平気で遊びに行くし、深月の息子として恥じない程度に結果を残せばいいくらいにしか思っていない。
だから、こんなのは間違っている。あり得ない。
イチバン上に堂々と深月由鶴の名前が載っているなんて、そんなの。
由鶴への称賛の声たちがノイズになって耳に届く。
———あんなに綺麗で頭も良いなんて。非の打ち所がないってまさに深月くんだよね。深月くんってなんだか神秘的。定期試験なんて興味ないって感じなのにね。俺、試験期間に深月と遊び行ったのにな。
すぐ下に並ぶ宇田凛子の名前。わたしは2位だった。しかも、全教科の総合得点は自己最高。
つまり、自分なりのベストを尽くして、しっかりと負けたのだ。
呼吸がうまくできない。
頭を冷やせば、定期試験の順位なんかどうでもいいことだ。明日にはみんな忘れているだろうし、数点の差で2位になったって、成績には正直まったく影響もない。
わかってる。わかってるけど。
わたしはこの順位表の前で由鶴に会うのが耐えられなくて、逃げ出した。幸い、朝が弱い由鶴はまだ登校していなかった。
それなのに、教室に入るところでわたしたちはばったり顔を合わせてしまった。
そのうつくしい顔を見ただけで吐きそうなくらい嫌だったけど、負けを認めた顔を見せるのはもっと嫌だ。
明らかに顔を合わせたのに、何事もなかったかのように彼の目の前を通り過ぎようとする不審なわたしに、いくら朝は不機嫌な由鶴とはいえ、挨拶をしてきた。
「、おはよ」
目をこすりながらいつも以上に低い声を出す由鶴は、いつもの朝と変わらない。
だけどわたしから挨拶しにいかないのをちょっと疑わしげに薄目で見てきた。普段なら由鶴が嫌がるくらいのテンションで挨拶しているからだ。
どうやら彼は、試験の結果を見に行ってもいないらしい。そんなの毎回の様子なのに、きょうは異常に腹立たしかった。
どうして、試験の順位に何のこだわりもない人が1位をとれるわけ?簡単だった?
わたしが敏感になりすぎてるだけって頭では理解しているけど、中学生のわたしの心はそんなに冷静沈着ってわけでもない。
嫌味を込めて、それから、自分の余裕も見せたくて、こちらから話を振った。
「ゆづ、試験1位だったよ、おめでとう」
「そうなの?ありがとう」
さらり、いつも通りに無機質な言葉が返ってくる。
あと数時間後の目が冴えた由鶴なら、わたしの声が震えていることに気付いてしまっただろうけど、弱すぎる朝の由鶴はあっさりスルーした。
その余裕のある姿がどうしようもなくムカついて、わたしはこれまで溜めてきた幼馴染への嫉妬がぼわっと燃える音を聞いた。
火がついてしまったら、もう、ただただ燃え盛るだけだった。
「そんなに余裕なの?」
「は?」
「そうよね、何も言わなくても、みんなが由鶴を認めてくれるんだもんね」
最低なことを言っているという自覚はあった。
人の少ない廊下で、ヒステリックにもなりきれず、泣きそうになりながら八つ当たりをするわたしは、かなり悲惨だったと思う。
「実家は伝統ある深月財閥で、絶世の美少年で、友だちもいて、勉強もスポーツも楽器もできて、まだ何か足りないの?」
「え、」
「もう、ゆづの隣にいると、自分が惨めでしょうもない!!!」
まだ頭の働いていない由鶴は、呆気にとられた表情で吠えるわたしを見下ろしていた。
ぞろぞろと廊下に人が増えてきた。いつもとは違う、嫌な感じの視線を感じる。
普段明るく快活な宇田のご令嬢が、幼馴染の美少年にきつくあたる珍しい光景は、野次馬根性を刺激するらしい。それでも、わたしの苛立ちはまったく収まらず、むしろぐつぐつと沸騰していた。
試験期間にも遊びに行ったくせに。授業中うとうとしてるくせに。
「由鶴って、ずるいよね」
悪意を持って放たれた言葉に、彼は傷ついたようだった。ほんの少し目を見開いて、射抜くような黒い瞳にわたしを映す。
「わたしの後ろについてるふりをして、わたしのこと見下してるんじゃないの?」
「そんな、」
「わたしなんか、由鶴が本気出したら何も敵わないよ。全敗。ゆづが手を抜いてくれるから勝っているように見えるだけ」
由鶴がそんなことするはずない。誰よりもわかってるのに、わたしの口撃は止まらなかった。
「もう、由鶴といっしょにいるのが辛いの」
「ん、」
「みんな、由鶴ばっかりで!由鶴がいるとわたしなんて全然すごくない」
「うだ、」
「だからもう、由鶴とは仲良くしたくない」
ひどいことを言ってるって自覚はあった。でも、どれも誇張や大げさな表現ではなくて、本当にわたしの心から出てきた言葉だった。
由鶴は何も言えずにただただ傷ついているようで、その被害者ヅラにも妙に腹が立った。
まーた綺麗な幼馴染に意地悪を言ったわたしが悪者にならなきゃいけないの?わたしのほうが、ずっと傷ついてるのに。
近年大きく事業を増やしている宇田グループのご令嬢は、この学校でかなりの権力者だ。でも、しょせん、歴史ある深月財閥には一生敵わない。
それなりに整った容姿で、褒められることも少なくない。だけど隣に由鶴が並んだら、わたしなんてただの〝かわいい子〟だ。言葉を失うような美貌ではない。
そして、由鶴唯一の欠点である社交性も、今ではすっかり問題ない。きちんと友だちがいて、ひとりでも話せる。もう、わたしを必要としていないみたいに。
感情に任せて言葉を発するなんて、わたしらしくない。
だけどもう、止められなかった。
「わたし、由鶴のこと、大嫌いなんだよね」
ひゅっと息を飲んだ恐ろしいほど美しい顔を見て。煌めく瞳のなかにある瞳孔が、かっと開くのを見つけて。
———ああ、わたしは言ってはいけないことを言ってしまったのだと理解した。
純粋な由鶴のこころに、ざくり、傷口をつくった。透明な血が噴き出している。
幼馴染に残酷な言葉を投げつけられた由鶴は、肌の白い顔を真っ青に変えて、「俺、保健室いく」とだけ告げてわたしの前から立ち去った。
付き添ってあげるわけにもいかないわたしは、何ひとつ言い返さなかった由鶴に対してぐちゃぐちゃな気持ちのまま立ちすくんでいた。
その日から2週間程度、わたしたちは会話するどころか、視線を合わせることもなかった。
何を偉そうにって感じだけど、わたしのほうから目を逸らしてしまう。だって、怖い。わたしと視線が合うと安心したように目を細める由鶴は、もういないかもしれない。むしろ、彼のほうから逸らしてくるかもしれない。
そう思ったら、怖くて、由鶴のいる方向を見ることさえできなかった。
だけど、永遠に逃げまくることなんてできるはずもなく、ある放課後、わたしは生徒会室にいた。
「ちょっと話したいんだけど、いま、時間、平気?」
生徒会の仕事があると言ってわたしを誘き寄せた由鶴は、久々に見ても変わらずに美しかった。
わたしのスケジュールなんてほとんど把握している彼は、返事を待たずにがちゃんとわざと音を立てて後ろ手で鍵をかけた。その姿を立ち尽くしたまま呆然と見つめるわたしに、彼は酷薄な笑みを浮かべて言った。
「ごめんね、大嫌いな俺とふたりっきりにしちゃって」
ちがうよ、嫌いなんかじゃない。
かわいくて、大切な幼馴染だ。わたしが守ってあげたいし、わたしだけが甘やかしてあげたい。
だけどわたしは、このうるわしき幼馴染を、大っ嫌いに〝なりたかった〟。
「久しぶり、だね」
なんとかわたしの口から出てきた言葉が、これだった。そんな、語彙力の乏しすぎるわたしに、由鶴は何かを諦めたように生徒会室の扉に寄りかかった。
「もう、俺とは話もしたくない?」
「そんなこと、」
「あれから目も合わせてくれないし、嘘でも謝ったり慰めたりしてくれると思ったんだけど」
言葉数の多い由鶴は、2週間前よりも、なんだか大人びて見えた。少しだけ伸びた前髪が、さらさらと目にかかっていてミステリアス。
どの瞬間を切り取っても絵になるので、うっかり吸い込まれてしまいそうだ。深月由鶴と目を合わせたら正気でいられない、などと彼の美貌は謳われているけれど、わたしはちがう。
ようやく絡んだ視線に、じんわりと安堵した。
「ごめんなさい」
心の中で何度も繰り返した謝罪を、ようやく口に出して言えた。
言葉の凶器を知らない程に幼くない。そのくせ、未然に防御できるほど強くもないのが中学生だ。
わたしの謝罪を聞いて、皮肉っぽく笑った由鶴がぽつりと、零すように声を出した。
「喜んでくれると、思ったんだ」
その純真さが嫌だった。
ほんとうは、凄いね、一緒に勉強した甲斐あったねって温かい言葉をかけてあげたかった。由鶴がわたしをいつも褒めてくれるときみたいに、頭を撫でてあげたかった。
でも、悔しさが上回って、それだけのことがうまくできない。
そんな負の感情にぐるぐると巻きつかれたわたしを知ってか知らずか、彼は澄み切った黒い瞳でわたしを見つめた。
「俺はオマエが1位をとったら毎回やっぱりすごいなあって感心するし、幼馴染として勝手に鼻が高くなる。
だから、俺が1位になって、宇田にもその気持ちを味わってほしかったんだけど、」
ああ、この綺麗な子は、本当にわたしのことしか見えていないんだ。
定期試験の結果なんて心底どうでもいいはずなのに、わたしが1位をとったら嬉しくなるんだ。わたしに喜んでもらうために、試験勉強をしたんだ。
彼は困ったように眉根を寄せて、弱々しく笑った。
「オマエに嫌われるくらいなら、1位なんてとらなきゃよかった」
————いま、由鶴はわたしから離れて自由になるチャンスだ。
おそらくこれを逃せば、由鶴は一生わたしの半歩後ろで、わたしの示す場所だけを歩くことになる。
あとひとこと。あと一言だけわたしが傷付けることを言えば、彼はわたしのもとから立ち去るだろう。
逆にここで、由鶴を甘やかすような言葉をかけてあげるだけ。それだけで彼がわたしに囚われてしまうのを分かっていた。
分かっていたけど、わたしは何も口には出さなかった。
これ以上傷付けたくなかったし、本当にわたしから離れてしまうのは寂しかった。
それに、少し我にかえると、さすがに言い過ぎたなと反省もした。
わたしが悪いと思う。今回の件について、由鶴に罪はない。あえて言うならちょっと無神経だったけど、まあ、それだけだ。
わたしが勝手に勝負して、勝手に負けただけ。
だけど由鶴は、わたしに勝ったとか負けたとか思っていないんだろうなと思うと、それがまたひどく悔しくて腹立たしかった。
それなのに彼は、扉に背中を預けたまま、ずるずるとしゃがみこんで負け犬みたいに鳴いた。
「大嫌いなんて、言うなよ」
ニキビひとつない滑らかな肌をナイフでざくざくやられたみたいな苦しそうな表情は、初めて見るもので、わたしはゾクっとした。
わたし以外の誰も、この美しい顔を見ることはできないのだ。
だってわたし以外の誰にも、深月由鶴をここまで深く傷つけることはできないから。
「あんなに酷いこと言われても、由鶴はわたしのこと嫌いにならないの?」
ようやく口を開いたわたしの問いかけに、生徒会室の扉の前で体育座りになった由鶴は顔を上げた。
どんな姿も絵になる美少年だけど、学生服で体育座りしていると、なんだか、年相応ってかんじがする。
浮世離れした雰囲気も今は薄れて、顔全体に感情が乗っている。お人形のゆづるちゃんがこんなに表情を見せてくれるのは希少な機会だ。
それから長い睫毛を伏せるようにして、「あのね、」、彼はわざとらしく深い溜息をついた。
「嫌いになりたくてもなれないから困ってるの」
道のりは違うけど、奇遇にもわたしと同じ気持ちだったらしい。嫌いになれたら楽なのに、くるしいほうしか選べない。そのことに嘲笑がこぼれる。
そして、緊迫していた空気が解けてくると、誰にも吐き出せなかった見栄っ張りな私の柔らかな弱みが、するすると口からあふれてきた。
「わたし、由鶴に嫉妬した」
「うん」
「ひどいこと言ってごめんね、八つ当たりだった」
「いいよ、気にしてない」
「でも、由鶴も無神経なところあると思う」
「そうだね、ごめん」
「それにわたし、由鶴のこと好きじゃないと思う」
「そのこころは?」
由鶴のところまで歩み寄って、わたしも同じ視線の高さになるようにしゃがみこむ。
わたしの言葉の続きを促すように真っ直ぐに黒い瞳を向けてくる彼は、いつだって主人公で、気に障る。
「なんていうか、由鶴には、わたしよりも少しだけ不幸であってほしいから」
わたしはいつもよりゆっくりとした口調で、言い聞かせるように言葉を選んだ。
愛情であっても友情であっても、本当に好きな相手だとしたら幸せを願うものだと思う。
わたしだって、大切な幼馴染に不幸になってほしいわけではないけれど、わたしよりも幸せになったら嫌だ。由鶴がわたしよりも少しだけ下の位置にいると、ひどく安心する。
わたしのせいで傷ついた由鶴がすきだ。それをわたしが慰めたい。
そんな最低な思考をどう思っているのかわからないけど、彼は小さく苦笑した。
「俺の幸せなんて、ぜんぶオマエ次第だよ」
この関係がどこまでも真っ直ぐで、ひどく歪んだものであることに気付いたわたしは、同時に、もう修正はできないと知ってしまった。
「わたしって、由鶴にとってそんなに価値のある人間?」
「価値とかじゃなくて、空気とか水より重要だね」
「それじゃあ、わたしと一生離れられないね?」
冗談のつもりで言ったのに、彼は真顔で「うん、そうだよ」と答えた。
「オマエが俺を嫌いでも、俺は離れてあげられない」
わたしの右手を取った由鶴は、自分の冷たい左手を、温度を馴染ませるみたいにゆるく絡めた。
美しいひとは、指の先まで美しい。短く切り揃えられた爪。すっと細くて長い指は意外と節がごつい。白くて滑らかな手の甲。
繋がるわたしの手よりも大きく、妙な包容力があった。
まさかわたしがフェチみたいに手の観察をしているとは思っていないのか、彼はいつもよりゆっくりな口調で言葉を続けた。
「だから、俺に追い詰められて苦しめられたら、俺のことを殺していいからね」
綺麗な顔にも、穏やかな表情にも似合わず、物騒なことを言う由鶴に、思わず「え?」と聞き返してしまう。
たしかに由鶴さえいなければいいと思うことはあるけれど、彼を殺したいとは考えたこともなかった。と、思う。さすがに。
動揺するわたしとは裏腹に、さも当然みたいな顔と品のある口調で、なかなか重たいことを口にする由鶴。
「だって、宇田がいないところで生きるのって、死んでるのとそう変わらないし」
「いや、だとしても、」
「それならいっそのこと、宇田の顔を見て、温度に触れて、声を聞いて、それを忘れないうちに眠りたいな」
想像を超えた幼馴染の執着に、わたしは驚いて困惑を見せたけど、ちょっとずつ満たされていくのを自分では感じていた。
わたしだけしか見えていない由鶴。どんなに歪んでいても、どんなに危うく儚くても、これが、わたしたちふたりだけの現実だ。
ソファや椅子ではなく、床にぺたんと座り込むわたしたちは、数分間、お互いを見つめ合っていた。
茜色に染まりつつある生徒会室は、ふたりの呼吸の音が響く。
外では部活動に励む生徒たちが大声で頑張っているのだろうけど、無駄に防音設備まで整ったここは静まり返っていた。
「宇田、なに考えてるの」
わたしのことを分かってくれない幼馴染が、分かろうと歩み寄る。その器用な不器用さが愛おしくて、わたしは正直に答えた。
「ゆづに殺されることを考えてたよ」
由鶴はわたしに殺されたいらしいけど、わたしも同じかもって考えていた。
すると由鶴はちょっと悩んで見せて、
「俺が宇田を殺したら、俺より宇田が先に死んじゃうってこと?」
「まあ、そうなるね」
「嫌だよ、そんなの」
うちの幼馴染は、どうしようもなく可愛い。ちょっと拗ねたのを隠すように顔を、体育座りの膝に埋める由鶴。かわいすぎて抱きしめてあげたい。
「由鶴はわたしのこと殺したくならない?」
「いや、ふつうになる」
「なるの?!」
「大人になったら、たぶんもっと殺したいってなると思うし」
相変わらず物騒なことを言う由鶴は、ゆったりと立ち上がった。
つられてわたしも立ち上がるけど、人ひとり分くらいしか隙間を開けずに立つものだから、わたしは見上げないと目が合わない。
151センチのわたしよりも頭ひとつぶんくらい背が高い彼は、ちょうどいまが成長期らしい。由鶴はぐんぐん伸びているから、僅かに成長しているわたしとの差が開いていく。
とはいえまだ少年らしさが残る華奢な体躯と、壮絶な色気を孕む美貌のアンバランスさは、思春期の由鶴が持つ最大の魅力だ。
「でも、離れるほうがキツイってわかるから、殺したいくらいに苦しくても、俺はオマエから離れられない」
由鶴はそう言って、丁寧な力加減でわたしを抱き締めた。彼の体温はわたしより低くて、それがなんだか心地良い。縋るような抱擁に、わたしへの依存や執着を感じる。
———わたしをいちばんにして。
わたしのことだけを見つめて。わたしだけが特別なのだと、わたしこそが正義なのだと、泣いて縋って手を伸ばして。
客観的に見たら〝抱き締めた〟だけど、実感的には〝抱きついた〟ってかんじかも。でも、華奢だと思っていた由鶴の背中は想像よりもずっと広いと知った。
由鶴とわたしがいくら仲が良いからといえども、こういうのが日常的に行われているわけではない。由鶴をこんなに近くに感じたのは、いつぶりだろう。
由鶴は、いま、すごく弱っているんだ。
わたしの八つ当たりを許してくれても、わたしが彼の心につけた深い傷は癒えていない。言葉は凶器だ。それを知っているくせにわたしは、いや、きちんと知った上で由鶴を傷付けた。
そのナイフがどれほど凶悪かを理解して、わたしは思いっ切り彼をぶっ刺した確信犯。
「ゆづ、ほんとにごめん」
「俺、怒ってないよ」
「うん、でも、ごめん」
こんなにそばにいるのに、的確な言葉も見つけることができない。
目を閉じて。口を閉じて。それでもずっと側にいて。
———この日からわたしは、由鶴に凶器となる言葉を投げつけることはしていない。
むしろ罪を償うかのように、ぬるい言葉ばかりを選んできたように思う。
由鶴自身も、何事もなかったのように〝わりと仲の良い幼馴染〟の距離感を保ち続けてくれた。
なんでもイチバンできる宇田グループのご令嬢と、彼女を支える冷たい美貌の深月財閥の御曹司。
だけど、この日から変わらずずっと由鶴がわたしを支える位置にいるのは、間違えて、わたしを超えてしまうことがないようにするためだ。
その健気な純真が、いつまでも、わたしたちの不平等な関係を壊さずにいる。
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