第10話 手袋はめて触れてみる

大人になった俺たちは、婚約発表とパーティーから逃げるように帰宅した。いや、正確に言うと宇田は逃げ出したい俺に付き合ってるだけだが。


リビングのテレビをつけたら、速報として取り上げられていた。急成長を遂げる化粧品メーカーの美人社長が副社長との婚約を発表だってさ。


SNSでもトレンド入り、芸能人からも祝福の声。宇田と俺の生い立ちや家系図とかも放送してた。この短時間でよくもまあって感じするし、勘弁してくれって感じもする。俺らは別に、芸能人でもないのに。


俺らの関係についても書かれていたけど、あのねえ、そんなに単純じゃないってばと言ってやりたい。ていうか、テレビの力を使って、俺らの本当の関係について明確な言葉にしていただきたい。今回だけ、プライバシーの侵害は見逃してあげるから早く見つけてくれ。



会社の設立当初から恋愛関係にあったのでは?という疑惑に対して、俺らのことを知る専門家的な人が「有り得ない」とコメントしたりしている。見る目あるじゃん。



婚約発表を知って、家族のメッセージグループが大荒れしている。姉兄はふつうに祝福してくれているけど、妹は「なんで教えてくれなかったの~?!」とお得意のなんでなんで攻撃を連発していた。なんでだろうな、俺も聞きたいよ。

とりあえず「子どもはまだです」とだけ送信しておいた。深月に最も長く仕えてくれている執事長なんて、嬉しくて泣いているらしい。うちの兄妹は人間らしい感情が欠如しているので、お手伝いさん一同のほうがよっぽど家族らしい。




一方そのころ宇田は、ひたすらパソコンと向き合っていた。報道に使われている自分の写真に納得がいっていないらしく、テレビ局に匿名でメールを送っているようだ。実際の社長はもっと美人、こんなに顔丸くないし、もっと首が長いし、鼻が高いのだそうで。



事実を報道すべきだという正義について、原稿用紙5枚分くらい語ってたから、宇田社長本人からだとは特定されないと思う。


テレビ局もさすがに、まさかこの粘着質な暇人が〝美人社長〟だとは思わないだろうから。俺も思いたくないしな。




まあ、そんな迷惑な報道がされまくっているおかげで社名と新商品の宣伝にはなりそうだ。まだまだ知名度を上げたいうちの会社にとってはありがたい話だし、そこまで宇田の計算内だとしたらやはり恐ろしい女だと思う。


カフェオレを注いだマグカップと、クッキーを盛ったお皿を宇田がノートパソコンを広げているテーブルの上に置く。快適そうなおやつスペースになったけど、忘れてくれるなここは俺の部屋だ。



ついでに進捗を確認してみようとパソコンを覗き込むと、宇田は自分の写真を選んでいた。

「これとこれとこれとこれ、どの写真のわたしがいちばん可愛い?」


「何に使うのかによる」



正直、どの写真も宇田だし、どれでもいい。俺にしたら、報道で使われているパーティーでの写真もそんなに変わらないし。


写真なんてそのものを写してるんだから、どれも自分だろって思う。そりゃあ、欠伸していたり、目を瞑っていたりしたら別だけれど。



「報道で使っても許す写真を添付しようと思って」


「それ、オマエが写真持ってたら匿名の意味ないだろ」


「ああ、たしかに!ハニーってやっぱり頭いい〜!」




それには特に返事もしないで、宇田の隣の椅子に腰を下ろす。


食事をするダイニングテーブルだから、正面に向き合うのが普通だけど、なんとなく隣に座ってみた。




「もう俺、ハニーじゃなくてダーリンじゃない?」



カフェオレを舌に馴染む温度まで冷まそうと息を吹きかけながら、俺はさらっと提案してみた。深月由鶴は猫舌である。


すると、無事にメールを送信した宇田はくすくす笑って。



「カフェオレありがとう、ダーリン」



ちょっと満足した俺は、うん、と頷いた。


俺は宇田のことが嫌いだという立場にいるので、ハニーとは呼ばない。てか、俺がハニーって呼ぶタイプじゃないのは勿論だけど、宇田自身がハニーって感じじゃないし。


俺がダーリンって感じなのかと訊かれたら、まあ、なんとも言えないけど。



「ゆづってたまにすごく可愛いよね」




そう言った宇田はにやりと笑って、怪獣みたいにクッキーを頬張った。ああ、くずを落とすなよ。



宇田はパン屋さんで売られているクッキーが好きだから、うちには常備してある。ケーキやプリンよりも日持ちがするし、もし食べきれなかったら会社に持っていけばいいし。



いつものように正面じゃなくてわざわざ隣に来た俺に、何も言ってこないのは彼女の優しさだと思う。俺は甘い言葉を返したりできないし、ただただ恥ずかしくなってソファに移動しちゃうだけだろうから。



「ねえ、宇田?」


「なあにダーリン」



甘やかすように鼓膜を撫でる相槌。


バニラ、チョコレート、抹茶の3種類から、チョコレート味のクッキーを選んで俺は手に取った。宇田のお気に入りは抹茶、次にバニラだから。



「なんで、政略結婚なの?」


「そりゃあ、政略があるからでしょうよ」



宇田の実家の宇田グループは、ホテル、芸能事務所、放送業界、医療関係、とにかく、把握できないくらい多岐に渡る事業を展開している。宇田の祖父のあたりで急成長したとか聞いた。よくわかんないけど、めちゃくちゃ経営が上手いのだと思うし、その血は、宇田も引き継いでいる。


宇田の実家は、超ハイクラスなタワーマンションの最上階。核家族、両親と宇田と妹さんの4人暮らしをしていた。




対して俺の家は、歴史ある深月の財閥だ。


もはや何で稼いで生計を立てているのか知らないけど、実家はいわゆる豪邸。ほら、庭にプールと噴水がある、典型的なやつ。誰の趣味なんだろうと子どもながらに考えていた。



そこに色んな人が住んでいる。大勢のお手伝いさんとか祖父とか祖母とか、とにかく沢山のひと。俺には姉と兄、妹もいるし、うちの父親はいっしょに食卓を囲む機会が多い。決して一般家庭とは言えないけど、広い敷地内でどこにでも温度のある実家だ。



甘やかされていたわけじゃないけど、お金にしか興味ないような冷たい家庭では無かったし、むしろ、お金の話は一切子供たちに聞かせない家庭だった。



俺は、家族が嫌いじゃない。


だからこそ。



「俺、政略で家族になりたくない」



俺の言葉を聞いた宇田は、そう言うと思ったよって顔に書いて笑った。


困ったように笑う女性が好きだけど、俺は宇田の全てお見通しな笑みがやっぱりいちばん安心するらしい。くやしいけど、けっきょく、そういうこと。



確かに、経営上手な宇田グループと世界でも名の通る深月財閥が、実質的に手を結べば、日本を揺るがすような大きな権力になる。



そんなことは誰も分かっていたけれど、俺らの家族や親族は、自分たちの利益のために俺らの結婚を使おうだなんて考えないはずだ。



それなのに、お互いの愛情を確かめもせず、そこから逃げたままに結婚を決めてもいいのだろうか。



表情不足な俺からもきちんと不安を読み取った宇田は、「ハニー」と俺を呼んだ。やっぱりそっちが慣れているらしい。




「あのねー、わたしの政略だからね?」




俺の考えなんて手に取るように分かるらしい宇田が、呆れたように言う。これだから、天才の幼馴染を持つと嫌だ。




「実家の権力拡大だとか、うちの会社を宣伝だとか、そんなしょーもないことに大事な由鶴を使うわけがないでしょうが」




どうやら、宇田社長の政略は、俺ごときの凡人には到底考えつかないものらしい。ふうん。



俺ばっかり分かんない。茅根には、宇田に任せておけば大丈夫って言われたけど、仕事は全部従うにしても、自分の結婚のことくらい俺だって関与したい。



無敵の宇田社長に男を立てろなんて言わないけど、すぐ後ろをついていくだけじゃなくて、たまにはいっしょに歩みたいって思うのは我儘なわけ?


拗ねてみせる俺に、宇田は「聞きたいことあるなら、黙ってないで聞きなよ」とちょっと語気を強めてきた。



「黙ってるだけで何でも思い通りになると思ってるの?由鶴、どこのお姫様よ」


「オマエこそ勝手に何でも進めていくけど、いつでも自分が正しいなんて思い上がるなよ」


「わたしが間違ってたことなんてないでしょ」


「ふたりの結婚だろ、俺の気持ちは無視するわけ?」


「じゃあなんでも聞けば?答えるから」



らしくない熱のある口論をして、俺はカフェオレをひとくち飲んだ。甘い。


この口論は、俺が自然に質問をぶつけるための会話劇だ。宇田なりの優しさは、珍しく分かりやすいものだった。




俺は、隣にある黒い瞳と視線を合わせて、口を開いた。




「どうして政略結婚なの?」


「俺たちに恋愛結婚はできないの?」


「俺が寂しがったりするから、オマエに無理させてるの?」



俺のほうばっかり口数が多いのは、たぶんこれが最初で最後。宇田は口を閉じて、柔らかな笑みを携えている。



「宇田は、俺のことなんて好きにならないの?」



隣同士に座っているせいで、いつもよりも近い距離。そこで宇田は、俺の黒い髪に手を伸ばして、ゆるく撫でた。それが妙に気持ちよくて、ざわざわと毛羽立っていた心がしっとり落ち着いてゆく。



天下無双の宇田凛子に任せていて、失敗することなんて無い。そんなのわかってるし、信じてる。



でも、宇田が何かを我慢して、俺にとっての成功を得るのは嫌だった。宇田にとっての最良の選択が、俺にとっての最高だ。


それから宇田もカフェオレを飲んで、少しだけ困ったように笑った。その表情はかなり良かったけど、その後の言葉のほうが、ずっと良かった。




「わたしは、由鶴のこと、誰よりも愛してるよ」




かちり。凛とした宇田の言葉に、ずっと足りなかったピースが、はまるような気がした。やっと、心のパズルが完成したみたいな気分。



自信に満ち溢れてる宇田が、いま、ほんのり恥じらっている。しかも、それを隠そうとしているのだ。


耳がじわりと赤く染まっているのを見つけて、かわいいな、素直に感じた。



俺はただただ宇田からの言葉を噛み締めていた。メロンソーダの声はいつもより毒気がなくて、無添加のメロンジュースみたいだ。




「なんか言ってよ」


「ふふ、オマエって俺のこと愛してたんだーって思って」


「そこ笑う?マジで血が凍ってるんじゃないの?」


「わかんない、俺の血舐めてみる?」


「どういう思考回路してんの?」




俺は宇田の血でも舐めたいけどなーと思いながら、幸せすぎて口角が緩むのを感じた。



よく考えたら、俺ってヴァンパイアっぽいところあるかもしれない。髪黒いし肌白いし朝苦手だし。ニンニクは食べるけど。


もし棺桶に閉じ込められるなら、宇田に蓋を閉めてほしいな。宇田の顔を見たまま暗闇に飲み込まれたら、残像として宇田が瞼の裏側に映るかもしれないから。


「質問には、籍を入れたら答えるよ」




宇田は申し訳なさそうに言った。政略結婚でなきゃだめな理由は教えてくれないらしい。


たぶん、それによって、俺が政略結婚を反対する可能性があるのだろう。俺が宇田を反対するなんてよっぽどだけど、まあ、結婚ってよっぽどのことだし。



でも、もういいや。


政略結婚でも、恋愛結婚じゃなくても、俺が寂しがるから情けをかけて結婚してくれるだけでも。




少なくとも、俺らの結婚には愛が存在している。


俺のほうは、もう、物心ついた時からずっとずっとそれを捧げていたわけだから、宇田のほうがちょっとでも預けてくれるならもうじゅうぶんだ。



その日の夜は、遅い時間にお互い壁を隔てて眠りについた。


宇田はリビングのソファ、俺は寝室のベッド。宇田を寝室に入れたのは、けっきょく一晩限りとなった。



婚約するなら、いっしょに住むほうがいいのかな、それならふたりでゆったり過ごせる部屋を探そうか。マンション購入してもいいかも。今だって同居しているようなものだと言われるかもしれないが、こちらの気の持ちようが違うのだ。


これからは、ふたりで同じベッドに寝るのだろうか。宇田ってうるさいから、嫌だな。でも、眠りにつく寸前まであの声をきいていられるのは、まあ、そんなに悪くないかもしれない。



そんな、くだらないことを考えているうちに俺は夢に堕ちていたらしい。



おかしな夢を見たような気がするけど、うまく説明できない。なんか、ふわふわと笑う幼い少女がいて、その少女に誘われた俺は“ごっこ遊び”に付き合った。現実の俺はそんなことするはずがないのに。



それから、いつも通りの早朝から宇田に起こされた。迷惑だな、と懲りずに思う。


相変わらず順位の良くない星座占いを見ながら完璧な珈琲を飲んで、俺の車で出勤した。



会社には記者たちが朝から待機していて、社交的な宇田が笑顔で質問に答えていくことになった。


そして最後に、周囲の方にご迷惑をかけてしまうので、皆様ここにいらっしゃるのはもうやめてくださいねとにっこりお得意のアルカイックスマイルを披露していた。なんだろう、怖い。



俺はほぼ他人のふりをして、短い挨拶だけしてすぐに会社に入った。


冷たい夫とか書かれるのかなと考えたけど、宇田がきちんとフォローしてくれたから平気だった。ていうか、描かれてもいいし。俺の性格を知ってる人からすれば、にこにこと対応するほうが気味が悪いと思う。



でも、社内も社内でかなりハイテンションというか、フィーバーしていた。すれ違う社員ほぼ全員からおめでとうございますと声をかけられたけど、たまにいる瞼を腫らした女子社員には目も合わせてもらえなかった。えええ、俺のこと好きだったの。奇特な奴だな。


絶対零度な副社長のつもりだっただけど、今日はかなりガードが緩かったに違いない。こんなに軽々しく声をかけられるのは、副社長という肩書を背負ってから初めてのことだ。おめでとうございます、という声がもはや馬鹿にされているように聞こえてきた。



少しずつ、自分が婚約したという事実に実感がわいてくる。



俺はこれまで妙に異性から好意を持たれてきたけど、これからはそんな機会もなくなるのかななんてだいぶ自惚れたことを考えた。とりあえず、茅根との熱愛疑惑は無くなりそうで安心できる。


秘書の千賀は、おめでとうございますとだけさらりと言って、その後は何事もなかったように仕事の説明をした。こういうところが俺の秘書だな、と笑いそうになった。


千賀は、考えていることが分かりやすくて分かりにくい。俺に好意があるように見せるときもあれば、興味さえなさそうなときもある。


いかにも今どきの量産型なキャリアウーマンってかんじもするけど、俺や茅根なんかよりずっと男気があってかっこいい気もする。親しくないけど、頼りにしている。



「これから、忙しくなりますよ」


「勘弁して」


「私は、仕事で忙しいのも嫌いじゃないです」


「オマエって良い秘書だな」


「、光栄です」



千賀に宣言された通り、その後の仕事はめちゃくちゃ忙しかった。



天下の深月財閥のご子息と宇田グループのご令嬢の婚約は、俺らの化粧品会社に注目を集めるには十分すぎる話題だったらしい。まったく、ありがたいことで。


それから数日後には、宇田だけでなく、俺や茅根や千賀も駆り出されて、取材を受けることになった。それも、いくつもの雑誌やテレビ番組だ。



宇田はもうすっかり、“美人社長”としてよく知られた人間になった。美人という枕詞に笑ってしまうけど、社長本人はたいそう気に入っているご様子なので、まあ、いいでしょう。


俺のほうは、写真を使われまくっているので顔こそよく知られているものの、スポットライトからは逃げてきている。あのね、俺は、柄じゃない。もともと宇田は、そっち側だからいいけど。



そして、今日は美容の雑誌での取材があった。


化粧品会社の女性たちを起用するのは分かるけど、俺と茅根には需要がないだろう。と思っていたら、イケメン起業家特集みたいなものが組まれたらしい。うん、ここ笑うところだからね。



イケメンっていう枕詞の安っぽさが可笑しいけど、その後に続く“起業家”というパワーワードが胡散臭くてよけいに笑ってしまう。羞恥に耐えながら俺は適当にインタビューを終わらせた。



すぐ隣に座る茅根のインタビューが始まり、俺は今更茅根のプロフィールや趣味なんかに興味は無いので聞き流す。目新しい発見はないし、彼は意外にも、こういうところで正直に答えていくタイプらしい。


すると恋人がいないと明かした茅根は「社長と秘書でのロマンスはなかったんですか?」とか訊ねられた。しょうもないな、と俺は目を細めたけど、茅根は丁寧に言葉を選ぶ。



「宇田社長には、副社長っていう超完璧な幼馴染がすぐ隣にいるんですよ?勝てるわけないですし、わざわざ闘おうとも思いませんよ」



くすくすと柔和に笑いながら話す茅根は、さらに続けた。



「うちの上司たちは、お似合いだとか理想のカップルだとか、そんな言葉では足りない、絶対的なふたりなんです。同じ道を歩むべくして生まれてきた、運命共同体だと思っています」


「記者が、そんなおふたりの仲に嫉妬することはありませんでしたか?」


「ありましたよ。どれだけ一緒に働いても、話しても、時間を過ごしても、僕が溶け込めることはないんです。それが寂しく思うときもあったけど、でも、いまは、不器用なおふたりには僕が必要だって勝手に思っています」


「おふたりと茅根さんは、お仕事以外ではどんなご関係ですか」



調子づいた記者の方がさらに問い詰める。無口な俺では特集記事にならないと焦ったのかもしれない。


茅根は、相手のペースに持っていかれないように、きちんと言葉を選んで返した。


「社長とはずっと共に働いていますから、冗談も相談もできる仲です。副社長の由鶴くんとは学生時代からの友人ですからね、彼、落ち着いた大人の男性と思われているかもしれませんが意外とピュアで繊細な男の子ですよ」



俺は恥ずかしくなって、俯いた。だって、逃げ出すわけにはいかないし。


茅根はリアル王子様だ。中性的な顔立ちも、柔らかな物腰も、甘ったるい言葉の選び方も、人当たりの良い笑みも。自分には無いものだったから、羨ましかった。



そんな彼は、俺らをいちばん近くで見守ってきて、何も言わずに信じてついてきてくれた親友だった。こいつの頭の中には、宇田社長への恋愛感情なんてきっと少しも無かった。あるのは、多大なる尊敬と信頼。


それなのに、幼稚な俺は、ふたりで過ごす時間に嫉妬していたりする。たとえそれが仕事であっても、いや、仕事であったからこそ。


仕事しているときの宇田が、いちばん輝きが強いから。


俺だけの宇田でいてほしい。物心ついたときから、俺はそんな仄暗い感情を抱いてきた。


転んで膝を擦りむいた幼い宇田が歩くと痛いと泣いて、俺がおんぶしてあげたことがある。そのとき俺は、このまま宇田が歩けなくなったらずっと俺の背中にいてくれるのに、と考えていた。


痛くてかわいそうにと泣きやんでほしい反面で、宇田の怪我が治らないことを願っていた。

俺がいなきゃおうちに帰れない泣く宇田は、すごくかわいかった。


もしこれが、いわゆる愛なのだとしたら、世の中で犯罪がなくならないのも納得できる。


俺は、宇田が罪を犯してもついていく。隠ぺいするなら協力するし、出頭するなら俺も共犯者になって一緒に行く。世間が何と言おうが、宇田が正義だというなら正義だと信じる。



だって、愛しているから。



でも、茅根は違う。きっと冷静に、止めてくれる。それはいけないことだと教えてくれる。そのためには自分の犠牲もいとわないだろう。


茅根は宇田を愛してないけど、誰よりも側で慕っているんだ。それは恋愛感情にすごく似ているけど、妙に異なるもので。



「宇田さんと由鶴くんは、上司であり、僕の親友です」



柔らかな声でありながらはっきりと、茅根は言葉を紡いだ。



「副社長はどこまでも社長についていくでしょう、だから俺は、社長がきちんと正しい道を選択できるようにお手伝いするだけです。


それが、全方位無敵な彼らの親友としてできる、唯一のことですから」



記者の方は、茅根の人誑しっぷりにまんまとたらし込まれていた。そのあと食事に誘っていたし。仕事が詰まっている茅根は断っていたけど。


どうやら俺らの記事は、6月号に掲載されるらしい。取材があったのは3月だから、かなり先のことって気がする。でも、この忙しさだとあっという間なのかななんて呑気な気持ちでいた。



それから、4月になって新入社員が入ってきたりした。新学期になって新しい自分になろうとする女の子は多いらしく、意外とこの時期は化粧品がよく売れる。つまり、また忙しくなっていた。



それに対して俺らの婚約報道は、すっかり落ち着きを見せていた。エンタメトピックスは当たり前に移り変わる。悪い報道ほど、目につくし耳に残るし、口から吐いてしまうものだな、としみじみ思う。



実家に帰って宇田との結婚の許可を貰ってきたりした。


どうしても政略結婚という形にしたいと言う宇田に、形式は構わないけどふたりは幸せになれるんだよね、とどちらの両親にも強く念を押された。


宇田は、俺の親にも自分の親にも力強く「由鶴を幸せにしてみせます」と明言していた。宇田がいれば何でもいい俺は黙って頷いておいた。自分の親には怒られた。



それから俺は、こっそりと婚姻届を書いた。宇田の書くべき欄以外は埋めておいたから、あとで渡すつもり。



だってほら、あいつの誕生日に籍入れるって約束したから。


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