第11話 夢で逢えたって、
【!大特集!〝現代版王子様〟こと国宝級イケメン 深月由鶴さんの素顔に迫る!】
[ 大財閥の御曹司にして、いま話題の化粧品メーカー『CRANE』を立ち上げた起業家の深月さん。先日婚約を発表した話題の美青年の魅力に迫ります。]
〜特集①〜
読者にアンケートを実施。美しくも危うい雰囲気を持つミステリアスな彼に、読者が聞いてみたい質問をぶつけていきます。
Q1)深月さんのファンです。クールで掴み所のない感じですが、ご自分ではどんな性格だと思いますか?
深月)ファン?僕の?握手会とか開いたほうがいい?性格については、僕も正直わかりません。昔は人見知りでしたが、大人になるとほとんど治りました。ああ、朝は気が短いです。
Q2)猫派ですか?犬派ですか?深月さんは高級な黒猫っぽいです。
深月)猫派です。犬は、太宰治の『畜犬談』を読んでから苦手になりました。猫っぽいとはたまに言われるし、確かに猫とはわりと仲良くやれます。猫のほうも僕のことは「デカイ黒猫だな」くらいに思っているのかもしれませんね。
Q3)国宝級イケメンの深月さんは、老若男女問わず魅了してしまうと思います。それなのにいつも謙虚で、ナルシストには見えません。たとえば、芸能人になろうと思ったことはないのですか?
深月)国宝級イケメンってなに。ニキビできたら文化財保護法違反とかになるのかな?
えっと、そもそも僕には芸がないので、芸能人にはなれないです。それに、自分の容姿は何の努力もしていないので誇れるものではありません。スポーツジム、あんまり好きになれないんですよね。
Q4)好きな女性のタイプ、キュンとする仕草とかあったら、教えてください。
深月)頭の回転が速いひとが好きです。困ったように笑う顔にキュンとします。
▶︎つづく!
社員証を首からぶら下げて、ふらつくように朝の社内を歩く。もう、副社長室という自分の部屋には目を瞑っても行けそうだ。
俺はどうしても朝が弱い。睡眠欲求はそこまでないのだけど、朝の行動は苦手だ。基本的に社会人には向いていないのかもしれない。
もうすっかり俺と宇田の婚約フィーバーはほとんど落ち着きを見せている。世間はくるくると目まぐるしく動いていることを常に実感する。
「副社長、おはようございます!」
社員たちの快活な挨拶が鬱陶しいけど、彼らは決して悪くない。むしろ素晴らしい。分かっているけど、自分のおはようはかなり低い声だった。ほんとごめん。
でも、社員のほうも良くできた子たちだから、あんまり気にしていないようだった。経営理念か何かに、相手の朝の挨拶が小さくても気にしないっていう項目あったっけ。
ひとりで出勤した俺は、少なくとも頭が冴えないうちはなるべく社長と社長秘書に出会さないように気を付けてエレベーターに乗り込んだ。余計なところで疲れたくないから。
ぐんぐん上がっていくエレベーターに乗っていると、少しずつ頭が冴えてくる。今日は、特別な日になるだろう。俺ら少しだけ緊張していた。
ちん。軽快な音を鳴らしてとまったエレベーター。降りるのは、社長室と副社長室のある危険なフロア。
「おっはよーゆずるん」
「、」
「ちょ、間髪入れずに閉めるボタン押さないでよ!」
声を聞くなり迷わず閉めるボタンを押す俺に、慌てて外からのボタンで対抗してきた。
待ち構えていたかのように、大きめの丸襟がついたサックスブルーのワンピースを着た宇田が立っているんだから、この会社に安寧の土地は無い。
エレベーターを止めておくのは迷惑行為なので、渋々降りて、宇田の隣に並んで歩き出す。普段の仕事着よりほんのり華やかな今日の宇田。高い位置でポニーテールにしている様子から、今日は人と会う仕事は無いのだろう。アイメイクにもピンクを入れている。
おしゃれをすることが唯一の趣味である宇田は、メイクはもちろん、身に付けるものや髪型にも毎日こだわっている。きちんとTPOをわきまえているおかげで、ファッションによって予定や気分が分かりやすい。
俺は出勤する日はほとんどが黒いスーツだから、おしゃれも何もない。たまに、紺色とか灰色とかも着てみるけど、なんとなく、今の俺にはスーツがいちばん似合う気がする。
今日は灰色のそれを選んできた。よく晴れた5月に真っ黒を着るのも気が引けたから。それに宇田と同じで、俺も今日は人と接する仕事は無いから。
黙って歩いていると、宇田が俺の腕にするりと自分のそれを絡ませてきた。暑苦しいな、と思ったけど、〝今日は特別〟だから振り払わなかった。
「ねえ、わたしに言うことなーい?」
「髪切った?」
「切ってないですー」
ご機嫌そうに笑う宇田は、「朝のコーヒー飲も!」と俺を社長室に連れ込んだ。
社長室の中には誰もいなかったけどもう快適な温度に調整されていて、この会社の空調って一括管理だったのか、なんて考えた。それと、いつかの生徒会室を思い出させた。
5月も後半になってくると、けっこう暑い。俺はスーツの上着を脱いで、勝手にハンガーにかけた。
もう5月か。春は意外と化粧品の売り上げが良い。みんな新しい季節に何か期待してしまうらしい。それにしても冬はあんなに長いのに、春って本当に短い。あと、花粉症がひどい。
俺は部下なので、宇田好みの珈琲を淹れてやりながら、さりげなく彼女の今日の仕事のスケジュールを確認する。
ホワイトボードに茅根の綺麗な字で、ざっくりした予定が書かれている。多忙な宇田のスケジュールだけど、今日の午後は空けてほしいと茅根に伝えておいた。
「オマエも午後は空きなんだね」
「あ、ゆづも?美味しいもの食べに行こうよ」
深く察していない宇田に安心しながら、俺は今日のネクタイがサックスブルーの生地に小さなピンクのドット柄だったことに気付いた。宇田の服装と妙にマッチしていて気恥ずかしい。
「それもいいけど、行きたいところあるから付き合ってくれる?」
「いいよー」
この部屋を使う社長秘書はまだ姿を見せない。気を利かせているのだろうから、ありがたく受け取って、婚約者ふたりのコーヒータイムを過ごすことにした。
「あと、社長のサインが欲しい書類あるから渡すね」
接待用のソファに座りながら、緩やかに会話を誘導していく。正直、俺はかなり緊張していた。
———今日は、宇田凛子の誕生日だ。
それから、宇田のどうでもいい話を聞き流しながら、珈琲を飲んだ。少しずつ目が覚めてくる。宇田が猫を飼いたい話。毛並みの整った美人な猫に鈴をつけて飼いたいらしい。白と灰色どっちがいいかな、と悩んでいる。
「三毛猫のほうが役に立つかもよ」
「うーん、どうだろ、謎解きする機会なんて滅多にないもん」
俺と宇田は、推理小説が好きだった。探偵と刑事になりきって遊んだ記憶もある。宇田が探偵で俺が刑事さん。それも悪くなかったな、と思う。幼馴染同士で私立探偵と刑事になる。けっきょく刑事は探偵に頼って、難解な事件を解決してもらうんだ。なんて。
この会社を設立しなければ、俺らはどんな人生だったのだろう。ご立派に実家を継ぐのが妥当かな、でもそれって簡単なことではないし。今は兄が実家を手伝っているけど、彼はすごく優秀な人だから。
姉と兄はもうすでに既婚者で、どちらも実家で暮らしている。実家といっても広いから、そのなかにそれぞれの家庭があるみたいな感じ。でも、何かあればすぐに家族に会って話せるというのは、まだ幼い兄や姉の子どもたちにも良い影響を与えていると思う。
ちなみに俺の妹は医学部の学生で、彼女も実家から通っている。彼女は隠れてやんちゃだから、そろそろ家を出るんじゃないかなと思うけど。
さいきん家族のことを思い出す機会が増えた。俺にも家族ができるから、だろうか。
「ゆづって綺麗な黒猫みたいだよねえ」
「俺って不吉なの?」
笑って返しながら、鈴つけて飼ってくれないかな、とか思う。あんまり音がするものを身につけるのは好きじゃないけど、宇田に可愛がってもらえるならいいや。
「くろねこさん、鳴いてみせてよ」
「にゃあ」
抑揚のない声で鳴いてみせると、宇田は楽しそうに声を上げて笑った。お気に召したらしい。平和だな、とおもう。
こんこん。
社長室のドアを礼儀正しく叩く音がした。それを追いかけるように聞こえるドア越しに聞き慣れた男の声。
「おはようございます、茅根です」
「おはようー、どうぞー」
宇田が許可すると、相変わらずスマートに頭を下げて茅根が入ってきた。鞄の他に、高級そうな紙袋を提げている。
自分の上着をハンガーに掛けながら、彼は接待用のテーブルと椅子でだらだらしている俺らに視線だけ寄越した。
「おはようございます」
「おはよう、茅根ものんびりコーヒー飲もうよ」
「朝からティータイムですか?」
「今日はあんまり仕事ないし、いいじゃん」
宇田に促されて、茅根は少し呆れたように俺を見る。俺も許可するように頷いた。
「おはよ、コーヒーマシンにまだ残ってるから、注いできなよ」
「そこまで言われたら、お言葉に甘えて」
社長室にあるコーヒーマシンは3杯分までいちどに淹れられる、この部屋だけの特別な機械だ。透明なガラスで出来ている、宇田が気に入ってドイツから取り寄せたもの。俺は、この機械がコーヒーを淹れるのを見ているのが好きだ。綺麗。
それから、なんとなく俺は茅根の行動を眺めていた。茅根用のミント色のマグカップを棚から取り出し、コーヒーマシンから液体を注ぐ。きちんと保温を切って、コーヒーマシンの一部を軽く洗い流してから元に戻した。
ここには簡易的な調理場がある。冷蔵庫もある。どちらも副社長室には無い。俺はしょせん副社長なので、給湯室に行かなければならない。
茅根は棚からフォークをいくつか(おそらく3本)取り出して、例の高級そうな紙袋とマグカップと一緒に接待用テーブルに歩いて来た。
「ふたりとも、お腹は空いていますか?」
質問した茅根は紙袋とマグカップとフォークをテーブルに置いて、宇田の隣に浅く座った。
「コーヒー飲んでるから甘いのほしいかなあ」
茶番かっていうくらい茅根が欲しがりそうな答えをした宇田に、想像通り彼はふんわり笑った。俺ら3人は、いつまでも、こういう空気でやっていくのかもしれない。
「奇遇ですね、ケーキを買って来たんですよ」
そう言った茅根が、袋から白い立方体の箱を取り出して、それをゆっくりと開ける。
いくつになっても、箱から何か出てくるときはそわそわして見守ってしまうものだ。俺も宇田も黙って熱視線を送ってしまう。
そして。
「おおおおおおお!」
これは、宇田が拍手するのも無理はない。
箱から出て来たのは、綺麗に飾り付けられたホールケーキだった。
純白の生クリームによってすっきりとした印象だけど、表面に描かれている絵が茅根らしい。赤い花弁がひらひらと飾られているのが美しい。『Happy Birthday RINKO‼︎!』と口紅の形のお菓子が描いている。
どこで買って来たんだろう、すごくおしゃれなケーキだ。センスが良くて、茅根らしくて宇田らしい。
社長本人は奇声を発しながら大喜びしていて、茅根のおかげっていうのはくやしいけど、やっぱりその姿はけっこう可愛いなと思ってしまった。
「社長、お誕生日おめでとうございます」
「ありがとう、すごくうれしい」
「ふふ、喜んでもらえて良かったです」
そうして、ふたりは写真撮影なんかを始めた。キメてる宇田をかしゃかしゃかしゃ。しゃしゃしゃしゃしゃ。連写なら動画でいいだろ。
俺もスマホを出して、こっそりふたりの様子を撮影した。俺は動画で。ケーキを囲んできゃっきゃとはしゃぐ大の大人は、気味が悪かった。
それから、茅根はどこからか、チャッカマンを取り出した。そして、これまたどこからか出てきた2つのロウソクをぶすりと躊躇なく洒落たケーキの中心にぶっ刺した。
「にじゅう、きゅうか、、」
「ラスト20代ですよ」
「どうりでお肌も曲がり角なわけよ、、」
青いロウソクは2、黄色のロウソクは9の数字型。俺は、カーテンを閉めて部屋の明かりを消すために立ち上がった。茅根はカチカチとチャッカマンを点けて、ロウソクに火をつける。
薄暗くなった部屋で、ロウソクの2つの小さな炎はかなり幻想的だった。それなのに、俺ら3人でその可愛らしいケーキを囲んでいるのが可笑しかった。
「ふたりとも、願い事は決まってる?」
ロウソクの揺れる炎の前に身を乗り出す宇田が、俺と茅根の表情を確認する。俺は浅く頷いたし、茅根はにっこりと笑って頷いていた。
それをしっかり黙視した宇田は、もう一度、正面に座る俺を見た。
俺は、はあ、と諦めたようなポーズで小さい溜息をついて(大きくため息を吐いたらロウソクの火が消える)、宇田に向かってようやく言えた。
「宇田、お誕生日おめでとう、オマエが生まれてきてくれて本当に良かった」
そして、俺は死ぬ間際に宇田に会えますように。
俺の人生がどんなものだか分からないけれど、最期に話すのは宇田が良いし、最期に触れるのは宇田が良いし、最期に目を見るのは宇田がいい。ぜんぶ、宇田がいい。
俺が心の中で願い事まで言い終わると同時に、ケーキにふうううううっと息が吹きかかる。
2つしかないので、ふにゃっと揺らめいた後にどちらのロウソクもすぐ消えた。
なんとなく、3人そろって拍手をする。ぱちぱちぱち。
ひと通りの儀式が終わった後、こんどは茅根が席を立って、部屋を明るく戻してくれた。ううう、眩しい。俺は思わず目を細めてしまう。
「よーし、ケーキを食べよう!」
宇田が声高らかに宣言すると、茅根は悪戯っ子みたいににやりと笑って提案した。
「切らずにホールのままいきませんか?」
俺と宇田は同時に各々フォークを手に取って、大きく頷く。
「「賛成」」
そして、声も揃った。
いっただきまーす。誕生日ご本人様の宇田が先陣を切って、花弁が舞うケーキにフォークを勢いよく刺した。29歳の宇田も、明るく元気でうざそうだ。明らかに自分の口よりも大きい体積のひとくちに安心する。
「お、い、しー!!!」
口周りに白いクリームをつけたあざとい29歳に、俺は自分の口角がゆるゆるだと気付いていた。
「やばい、めちゃくちゃおいしい、ゆづも食べてみて」
「うん、いただきます」
「はやく、ほら早く」
「うん、いま食べるから」
宇田に催促されて、控えめなひとくちを食べてみる。おいしい。食レポとかできなくて申し訳ないけど、とりあえず美味しいのは分かる。くどくない甘さ。
「由鶴くんもハイチーズ」
美味しくて二口目をいこうとしたら、茅根にスマホカメラを向けられた。顔も上げず、無視だ無視。
「そういえば、朝買ってきたんですよ、ケーキうま」
「なにをー?ケーキうま!」
「これです、これ」
自分もケーキを食べてみながら、茅根は鞄の中に手を突っ込んで、一冊の雑誌を取り出した。
「ゆづたちが載ってるやつじゃん!」
それは、先日俺らが取材を受けた例の雑誌だった。俺は恥ずかしくて絶対読みたくないけど、宇田は興味津々で食いついている。
「今日発売日なのに?」
「コンビニ寄ってきました」
「さすが!もう読んだ?」
「さっき少し読んでから来ました」
どうやら俺と宇田が社長室でだらだらしていた頃、茅根は自分たちの取材記事を読んでいたらしい。写真も載っていたりするんでしょ、嫌だな。黙々と美味しいケーキを食べる俺に対して、他人事の宇田は早速茅根から雑誌を受け取った。
「え、ふたりが表紙やってるの?!すごくない?」
「は?」
「え、ゆづも知らなかったの?」
「聞いてない」
慌てて覗き込んだ女性の美容雑誌の表紙に、お得意のアルカイックスマイルを浮かべる茅根と伏し目がちに薄く微笑む俺。こう見ると、なんとなく雰囲気は似ている気がしなくもない。
共通して言えるのは、ふたりとも得体のしれない微笑を浮かべている。あと、なんだかわからないけど影がある。快活さが足りない。
なぜか俺と茅根の素人が表紙に抜擢されたらしい。これ、ほんとに需要があるのかな。売れても恥ずかしいけど、売れなくても恥ずかしい。最悪でしかない。
「表紙なんて聞いてない」
思いっきり睨みつけると、絶対に申し訳ないなんて思ってないくせに、申し訳なさそうに眉を下げて茅根が言った。
「ごめんね、うちの商品のメイク紹介だけの特集ページを作るって約束で、表紙許可しちゃったんです」
「商品のこと持ち出すのはずるい」
「最初は副社長ひとりで表紙をお願いされたんですからね、それはさすがに難しいってお断りしました」
「そんな日には、俺は迷わず死ぬからな」
「プロの目から見ても、稀に見るハイレベルなルックスだそうですよ副社長」
比喩とか脅しとか冗談じゃなくて、いつか俺のキメた顔のどアップが雑誌の表紙になっていたらマジで死ぬと思う。ていうか、いっそのこと殺してくれ。
そもそも、俺はそんなに高い評価をされる程の容姿ではない。なんの癖も味もないような顔立ちだし。いま、そういうのが流行りなの?わからないな。
とにかく、これが全国の書店に置かれていると思うと、めちゃくちゃ恥ずかしい。表に立つのは宇田の仕事だから、俺は裏で支える役目なのに。
意外とこういうのやっちゃうんだ、みたいなことを思われるのも恥ずかしい。秘書の独断です、副社長は嫌々やってます、ってきちんと明記していただきたい。
俺が不機嫌なのにも慣れっこなので、パラパラと雑誌を流し読みする宇田。『雨の日でも楽しくお出掛け!簡単ヘアアレンジ10選』のページを開いている。
「でもインタビューを読むのは副社長のいないところのほうがいいですよね?」
愉快そうにこちらを伺う茅根に、もうケーキは満足した俺は席を立つことにした。ご馳走さまでした、と手を合わせる。
だって、実際に俺の目の前で読まれたりするのはごめんだ。それこそ恥ずかしくて死ぬ。
雑誌に気を取られている宇田に、午後の約束を忘れて仕事なんかされると困るので、いちおう声をかけておかなければいけない。
「とりあえず、仕事片付いたらここ来るから」
「はーい、楽しみにしてるね」
「午後はそのまま空けておいてね」
「わかってるってば」
ちょっと面倒臭そうに返す宇田に、俺は顔を寄せてムッと拗ねてみせる。
「オマエ、俺に早く出ていけと思ってるだろ」
「あ、ばれた?早く雑誌読みたいんだもん」
悪戯がばれた子どもみたいに、ぺろりと舌を出す宇田。こういう仕草で嫌味がないのは宇田の特権だと思う。俺はわざと深いため息を吐いてみせる。
飲みかけの珈琲をわざと片さないまま、テーブルに置いていくことにした。洗い物をしてくれる茅根への些細なやり返しだ。
そして、一度立ち上がった俺は「あ、忘れるところだった」という名演技をした。
悪いけど、俺はもとから無感情な声色だからね。棒読みこそが名演技だ。
「目を通して、問題なかったらサインしておいて」
俺はファイルに入れた書類をさらりと宇田に手渡して、宇田もスムーズにそれを受け取った。
生徒会のときからこの仕事を始めて、通算何万回も繰り返された動作。それなのに、俺はとてつもなく緊張していた。動悸が、どきどき。うん、俺らしくないこと言っちゃう。
思考回路がショート寸前の俺に、それを分かっている茅根はハンガーに掛けてあった上着を手渡してくれた。さすがの秘書。
「じゃあ、また」
向こうから何か余計な声をかけられる前に、逃げるように社長室を後にした。
誰もいない廊下に出てきても、まだ心臓の動きが大きかった。俺はまだ心拍数が上がっているのを感じながら、すぐそばの副社長室に入る。中ではすでに秘書の千賀が仕事をしていた。
彼女は俺が入ってきたのに気付くと立ち上がって、挨拶をする。
「おはようございます」
「おはよう、ごめん遅くなって」
「いえ、今日は宇田社長のお誕生日でしたよね?」
「そう、いま会ってきた」
千賀は優秀な秘書だ。めちゃくちゃ気を許してるわけでもないし、あんまり仲も良くないけど、やっぱり毎日顔を合わせてる関係だなって思う。だって、 なんだか、彼女と話したらちょっと呼吸が整ってきた。
「何かプレゼントお渡ししたんですか?」
しばらく仕事に向き合えそうにない俺に、作業の手を止めた千賀は、軽い口調で話しかけてくれた。
千賀は俺よりも2つ歳下の、3年程前に雇った秘書だ。もとは茅根が俺と宇田ふたりぶんの面倒を見ていたのだけど、会社が軌道に乗ってきて、茅根だけでは手が足りなくなったせい。
でも、あらゆる意味で優秀な茅根の後を引き継げる者はなかなか現れない。そこで取引先の大手企業で秘書をしていた千賀に、俺と宇田と茅根の渾身のスカウトで入ってもらったのだ。
たまに色目を使われるのが嫌だったけど、婚約発表の後はそんなこと一切無くなったし、千賀はかなり優秀な秘書だと思っている。元から仕事中にそういうことは無かったし、まあ、色目を使われるのは正直慣れてるし。
だから、なんだかんだ信頼していて、俺はつい、打ち明けてみた。
「プレゼントっていうほどじゃないんだけど、」
「ええ?」
「婚姻届、渡してきた」
ちょっとだけ早口になってしまった俺に、彼女は珍しいほど表情を崩していた。目と口を開いて、ぽかんとしてる。
「そんなに驚くことじゃないだろ」
普段冷静沈着な部下が間抜けな顔を見せてくるから、思わずムッとした。だって、俺と宇田っていちおうは婚約者だし。
すると慌てて上司へのめちゃくちゃ失礼な反応を詫びながら、彼女はノートパソコンを閉じて、会話に乗り出した。どいつもこいつも、きょうは仕事をする気がないらしい。
「いや、副社長から行動するなんて、信じられなくて」
「どういうこと」
「プロポーズも何もかも受け身で、オマエの好きなようにしろよって後ろから見ているだけかと見くびっていました」
「え、オマエ、どうしたの?今日は無礼講?」
「すみません、副社長がそんな男らしい一面をお持ちだったなんて存じませんでした」
完全に茅根に似てきた千賀は、マジでもう、俺にその気はないらしい。ていねいな言葉の凶器でざくざく刺してくる。
俺から千賀への評価は、仕事ができるイイ女というありがちなものだったけど、これからはちょっと考え直したほうがいいみたいだ。やれやれ。
「俺、宇田には相当尽くしてるつもりだけど」
副社長の心地いい椅子に座りながら、小さいボリュームで独りごちた。千賀は少し離れたところにいるけど、しっかり聞こえていたようだ。
彼女は涼しげな目元を緩ませて、呆れたように言った。
「女性に尽くされ慣れてる貴方の仰る〝尽くしてる〟なんて、程度が知れていますよ」
絶句。
仕事での彼女の的確な鋭い指摘は、すごく有り難くて、ほんとうに頼りにしている。そう、仕事では。
「この会社に俺の味方はいないのか」
「いえ、私はいつでも副社長の味方にございます」
「茅根は宇田にめちゃくちゃ甘い」
「宇田社長は、上司としては勿論、女性としてもどこにも隙がないお方ですからね」
「俺には隙があるって聞こえる」
「その隙こそが、副社長の魅力ある人間味ですよ」
寿退社には絶好のタイミングだし、転職しようかな。
きょうは長い1日になりそうだ。こんなに疲れているのに、まだ朝なんて。会話にひと段落ついて、毎朝のスケジュール確認が始まった。千賀が俺の机の前に立つ。
「本日は、午後から早退ですね」
「うん、大丈夫だよね?」
「はい、1日を通して本日は久々にゆっくりできます」
「千賀も休めるときは休んでね」
俺なりに気遣いの声をかけると、彼女は嬉しそうに頷いた。白いブラウスに濃紺のワイドパンツというシンプルで清潔な服装に、丁寧なアイメイクが映える。
「いつでも、万全の状態で貴方の支えになりたいです」
そんな部下のかわいい言葉に、俺は小さく笑った。
俺も、宇田に対してずっとそう思っていた。いや、明日からも思い続けるだろう。そして、いつのまにか自分もそんな上司になれていたのか。
「アイシャドウいいね、カーキ色似合うよ」
「え、あ、ありがとうございます、マスカラはネイビーにしてみました」
「うん、白目が綺麗に見えて良いね」
「そう、目元の透明感がですね、」
千賀は、楽しそうにメイクの話をし始めた。彼女は、基本的に社交性が足りない俺が1日のほとんどを一緒に過ごしている相手だ。
なんでも包み隠さず話す仲でもないし、というかプライベートは干渉しないけど、でも、毎日の表情の変化をすぐそばで見ている。
だから、いろんなことを知っている。
たとえば、背が高いことを気にしている千賀は普段ローヒールを履くけど、大事な商談のときなんかは高いヒールを履くこと。そうすると、俺と並んで見栄えが良いし、年上を相手にしても見くびられにくいから。
たとえば、週に2日程度、ヨガに通っている。たまにふざけて、鳥のポーズとか披露するユーモアもある。真顔で変なポーズをとる千賀を見ると、絶対に笑っちゃう。
たとえば、定期的にダイエットをする。長続きしているのは見たことないけど、たまに分かり易くベジタリアンになるから。あと、コンビニのサラダチキンに対しての信頼がすごい。
「あの、お聞きしてもいいですか?」
おそるおそる顔色を伺いながら、というか感じの千賀だけど、今ならイケる!と思ったに違いない。
実際今日の俺はわりと機嫌が良いので、なに?と返して、質問を促した。
「社長とは、ずっとお付き合いしていたわけではないんですか?」
「ないよ」
「でも、明らかにお二人は想い合っているというか、真実の愛です、相思相愛です」
「ふは、なにそれ」
いつになく女の子らしい思考回路の千賀に、俺は思わず笑ってしまった。俺の最も近しい女はちょっと常軌を逸脱した変人だから、千賀のような普通な女の子の考えることが俺にとって珍しいものだ。
「でも、政略結婚なんですよね」
「うん、宇田が絶対に政略結婚って決めてるからね」
「どうして、恋愛関係になってはいけない掟でもあるんですか?」
そんなのないよ、と答える。
俺もそこはすごく悩んだ。悩んだけど、もう、悩むのはやめた。
「あいつは誰よりも思慮深くて、めちゃくちゃ直感的だからね」
だって、宇田の進む道で、間違っていたことなんて一度もないから。
たとえ、この結婚で、俺への恋愛感情が1ミリも無いという結末だとしても、宇田が選択した結婚なら、もう何も言うべきことは無い。
「でも、私はすぐとなりで副社長を見ているので、本当に宇田社長を愛しているんだなと感じます」
「ふふ、俺が?」
「運命の相手っているんですね、私も早く出会いたいです」
うんめいのあいて、か。千賀の言葉を自分で繰り返してみる。
どうして、みんな、この感覚が愛だな!ってわかるのだろう。愛の形なんて人それぞれだと思うし、その表現方法なんてさらに人それぞれだ。もし、俺が宇田に向ける感覚の全てが愛なのだとしたら、愛はぜんぜん綺麗なものでも尊いものでもない。
物心ついたときからすぐに宇田に愛を捧げ続けているとしたら、俺の中の愛はそろそろ枯渇してもいいはずだし。
恋にも鮮度がある。時間をおいたそれを熟成と呼ぶなら愛、発酵と呼ぶなら情、———腐敗と呼ぶなら、もう潔く捨てるべき。
「千賀の運命の相手は、どんなひとだと思う?」
俺と宇田は共通点が多い。それどころか、ほぼ同じ人生を歩いているようなものだ。でも、そういうのがなければ、運命の相手ってどうやって見つかるのだろう、と思ってしまった。
千賀は俺からの質問にちょっと悩んだ素振りを見せたけど、恥ずかしそうに言った。
「それこそ、もしかしたら副社長がわたしの運命の相手かもって思っていたんですよ」
「俺?」
「冷たい場所から、口説き落として、この会社に入れてくれたんですもん」
たしかに以前千賀が秘書として勤めていたのは、売り上げだけを重視した大手企業だった。
千賀の魅力を顔だけみたいに扱う会社で、これほどに優秀な彼女にお茶出しだけやらせていたのだ。お茶出しで良い給料が貰えるなら、そっちの方がいいって感じる人も多いだろうけど、千賀は違う。
「お金と権力ばっかりの会社から、わたしを救い出してくれた王子様みたいでした」
そんな寝ぼけたことを言うから、俺はまた笑った。
「そうしたら、宇田も運命の相手じゃん」
「そ、そういうのは違うんです!副社長しか見えなくなるのが恋なんです!」
「ふは、オマエって馬鹿なんだね」
「ひどい!話し損でした!」
ほんのり頰を赤らめたうるさい目の前の秘書は、仕事のデキるいい女ではなかった。でも、間違いなく、俺のいちばんの秘書だった。
「悪いけど、俺は千賀の運命の相手じゃないよ」
「もう分かってますよ、それに副社長はわたしの手には負えません」
黒髪を耳にかけて深呼吸した彼女は、ちょっと我に返って、「それに、」と。
「副社長みたいに魅力的なひとが旦那さんになったら心配です」
と、考え込んで言った。
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