第8話 手袋はめて触れてみる
じぶんの価値をだれかに与えてもらいたいとき、ある?
わたしは、ある。
わたしを見つめてくれる瞳を、ほかの誰かに向けないでほしい。
わたしのことを称賛した声で、ほかの誰かを褒めないでほしい。
わたしを求めて伸ばした手を、ほかの誰かに差し出さないでほしい。
屈折している自覚はある。深月由鶴といううつくしい幼馴染に対して、わたしは歪んだ独占欲を抱いている。
由鶴といっしょに帰る約束をしていたが、その前に置き忘れていた水筒を取りに立ち寄った放課後の生徒会室。
こんこん、丁寧なノックが響いた。
ひとりでラジオごっこをしていたわたしの心臓は、どきっと鳴った。びっくりしたからだ。
それから、小さく安堵した。よかった、大声で熱唱はしていないから外まで聞こえていないはずだ。ラジオだから、曲紹介の部分は自分で歌うのだけども、まあ、聞こえていたとしても、かわいい独り言程度だ。
我に返って、よく知っているものとは違うそのノックに「どなたですか?」と室内から声をかけた。少なくとも、これは由鶴のノックと足音ではない。
あまり、良い予感はしていない。
「深月由鶴とお付き合いしている者です」
落ち着いた女性の声が返ってきたので、わたしは深いため息を吐いて、声のほうに向かう。
これから起こる展開に辟易しながら、しぶしぶ生徒会室のドアを開けた。こういったことは、初めてではない。
すぐ廊下に立っていたのは、清楚なワンピースに身を包んだ綺麗な女子大生。品の良い美少年の由鶴と並ぶ姿はさぞかし絵になることだろう、と安易に想像ができた。
由鶴は自分の恋人をわたしに会わせようとはしないけれど、わたしはいつもこっそりと確認しているので、正直に言うとその女子大生を見るのは初めてではない。おっとりと柔らかそうで、なんだかいかにも由鶴が好きそうな女だ。わたしと真逆なのが癪に障る。
「ゆづはまだホームルーム中だと思います」
わたしに用事があるのだろうなと直感で察したけれど、ふつうに考えれば由鶴に会いに来たと思うのが当然なのでそう伝えた。
ゆづ、などと呼んで端々から親しさをアピールする姑息な自分をわらう。
「いえ、今日は宇田さんとお話がしたくて来たのですが、少しだけお時間いただけるでしょうか」
もっと頭悪そうな可愛いだけの女の子だったら良かったのにな。由鶴の選ぶ女の子はいつもセンスが良くて、わたしが攻撃する隙を与えてはくれない。
みんなの憧れ由鶴様の恋人を自慢げに誇示することもなく、由鶴の親に知られても決して眉を顰められないような女の子。
あーあ。この女が嫉妬に狂って、いっそのこと、わたしを酷い目に合わせてくれればいいのに。暴力でもなんでもいい。
そうしたら由鶴は間違いなくわたしを庇うし、恋人である彼女を完全な悪者にしてくれる。負傷したりすれば、由鶴は完治するまでわたしの犬になるだろう。
なんなら、由鶴には、一生直らない傷でも作ってほしい。それを言い訳にして、鎖で繋いで飼い殺したい。
そんな狂気的な思考を穏やかな微笑みで隠して、「屋上に行きませんか?」と柔らかく誘った。
ふわふわとパーマのかかった長い髪。すみれ色のロングワンピースにバレエシューズ。丁寧に施されたアイメイクは、マスカラもアイラインもブラウンでまとめているから、ナチュラルに見える。
こんなに可愛くて、由鶴のヒロインだなんて、ああ、ずるい。
屋上に向かうわたしは、にこやかな表情には似合わない仄暗いことを考えていた。すぐ後ろをついて歩く彼女がなにを考えているのかは分からないし、分かりたくもない。
だってほら、冷静に俯瞰で見れば、悪者はわたしだ。由鶴と彼女の恋愛を邪魔する、嫌な女。
幼馴染を武器にして、我儘ばかり言う気の強い女。嘘ついてバレエを休んで、デートしている由鶴を呼びつける女。
彼女の家でいちゃいちゃしているのが気に食わないから由鶴に電話をかけてみたり、当たり前って顔して由鶴を束縛する女。
本当に、わたしの醜い独占欲には反吐がでる。
でも、それを由鶴が許しているのだから、申し訳ないけどこちらの勝利だ。
「着きました、どうぞ」
生徒会長権限で解錠した屋上に出ると、高い湿度のぬるい夏風にぶつかった。まずはじめに、なんだ、雨降ってないじゃん、と思った。秋はまだ来ないみたい。
高校生にもなれば、どれだけ季節を重ねても、わたしは由鶴になれないと知っている。
由鶴と並びたいのか、彼を超えたいのか、あるいは彼になりたいのか。
どれだけのものが与えられてもずっと満たされずに、自分に足りないものを求めてしまう。そして、その足りない部分を、深月由鶴という人間は平然と生まれ持っていた。
9月の昼間はやたらと長くて、放課後になってもまだまだ明るい。
危険から守るためにフェンスに覆われた屋上は、妙な解放感と拘束感があって、ここから飛び降りてみたくなる気持ちは分からないこともないな、と他人事のように考えた。
そのフェンスに背中を預けてわたしが立ちどまると、彼女もわたしの正面に立った。
ふわふわとした髪を靡かせながら「宇田さんは、」意を決したみたいに、はっきりと名前を呼んでくる。なにもかもが気に食わなくて、その、高い声も耳障りだ。
「由鶴くんのこと、好きなんですか?」
核心を突くなら、もうすこし助走をすべきだ。いきなり放たれた直球に、わたしは気の利いた返しもできず、呼吸も瞬きを忘れてしまう。
やめてくれ、と思った。耳鳴りが、ひどい。
好きだ、と肯定すべきだった。
牽制になるし、ふつうに好きだし。褒められたことではないかもしれないけど、少なくともふたりの恋仲を堂々と邪魔する理由になる。
それが言えないならせめて、好きじゃない、とでも否定すれば良かった。
幼馴染としてはもちろん大切に思っているけれど、これは恋なんかじゃない。恋愛感情だなんて安っぽい枠には入れてほしくないほど、尊くて清いものだ。
「わたし、は、」
でも、わたしは何も言わなかった。気の利いた返しどころか、二酸化炭素すらうまく吐き出せない。
由鶴へのきもちを表すのに、適した言葉を私は知らない。由鶴のことを好きな人間はたくさんいるけど、この感情はわたしだけが持っている特別なものだ。家族とも違うし親友とも違うし恋人とも違う。
それを、なぜ、刹那的な由鶴の恋人ごときに教えてあげなければいけないのか。そんな義理も親切心もないし、何よりわたしは、由鶴のそばにいる人間はもれなく嫌いだ。
「少なくとも、由鶴くんはわたしよりも宇田さんを優先させるのよね」
そんなの当たり前でしょうが。
あのね、わたしと由鶴の間に入ってくることができる人間なんて、存在するわけがないの。
深月由鶴の側にいて好きにならない女がいるならぜひ会わせてほしい。由鶴は、女の子を惹きつける目には見えない魅力がある。
それは容姿や肩書のような明らかなものではなく、彼自身が発している何か。こういうのが、いわゆる色気なのかもしれない。実際に由鶴は、幼い頃から女の子から異常に人気があった。
同じ学校の生徒だけでなく、お稽古や学校の先生までもが由鶴に首ったけになる。その様子をわたしはすぐ側で、滑稽だなと感じていた。
みんなが欲しがるその美少年は、わたしだけに手を伸ばす。その甘美でたまらない優越感は、わたしの満たされない承認欲求を鋭く刺激した。
「それで、」
ここにはいない由鶴のことを想像しながら、由鶴の恋人と目線を合わせた。
わたしに依存している由鶴はきっと今頃、親鳥を見失った雛のように慌てているだろう。約束の教室に姿が見えなくて、それでも誰かに話しかけられれば、冷たく親切に対応するはずだ。
彼は無口で無表情で無感情な男だけど、決して他人を蔑ろにすることはない。いつも、みんなに優しくて、それを当たり前だと思っている。
その善意が、偽善者なわたしを苛立たせる。
わたしは、彼と正反対に、温かくて不親切だ。
「わたしに、どうしてほしいんですか?」
明るい生徒たちの声が遠くで聞こえる屋外に、わたしの声がよく通った。
この女は、何か言いたいことがあって、もしくはお願いがあってわたしのところに来たに違いない。さくっと本題に移ってほしい、駆け引きは嫌いじゃないけど、だらだらと回りくどいのは嫌いだ。
もう少し、時間はある。由鶴のスマートフォンにはGPSをつけてあるからわたしは彼の居場所をいつでも把握してるけど、向こうはそこまでストーカー気質ではないだろうし。ちなみに自分の居場所が特定されていることを彼は知らない。
こういうところから、想いの質量に差が見える。わたしばかりが執着しているのは、歴然だ。
まあ、GPSなんていらないけど。幼稚舎からこの学校の檻に閉じ込められた由鶴の行動範囲なんてたかが知れている。今だってどうせ生徒会室で、わたしの名前を呼んでいる違いない。
「お願いしたら、なんでもしてくれるんですか?」
滑稽で愛おしい幼馴染に想いを馳せていると、目の前に立つ彼の恋人が瞬きもせずに微笑んで言った。余裕のある言葉選びが、なんていうか、女の戦に慣れているのを見せつけてくる。
まあ、こちらも場数は踏んでおりますけど。
ふわふわの長い髪から、この頭を柔らかく撫でる由鶴を想像した。器用な由鶴はよく、女の子の頭に絶妙な加減で触れる。自分の思い通りに進めたいとき、とか。
その仕草は、余裕のある大人びた男子高校生の彼を印象付けるには十分なものだ。きれいな長い指先と彼特有の冷たい温度に虜になる女の子を何人も見てきた。
わたしも、幼い頃は髪の毛がふわふわしていた。いまだって、放っておいたら癖毛が爆発しちゃう。扱いにくい天然パーマがコンプレックスで、由鶴の真似をして縮毛矯正をかけた。わたしが羨むものを由鶴が持っているのか、あるいは由鶴が持っているから羨ましくなってしまうのか。
あ、いけない。また脳内トリップしていた。わたしの空想癖って不治の病なのかな。
「まさか、わたしに、由鶴と離れろとかしょうもないこと言おうとしてませんよね?」
「しょうもないこと?」
「ゆづと恋人なんてやってるご身分で、たかが幼馴染に怯えているとしたら、それはさすがに退屈だな、と」
口元には笑みを携えて、わたしは刻んで攻撃を撃っていく。
あのね、きれいなおねえさん。喧嘩を売るときは、相手をきちんと見定めなよ。
だって、わたし、宇田凛子だよ?
わたしと由鶴は単に同級生の付き合いではない。生徒会同士で、家族ぐるみの仲だ。しかも、うちの家族って、世間での仲良し核家族とはわけが違うし。
だから、そう簡単に離れられない。
ていうか、他人に頼まれて離れられる程度なら、とっくにわたしは由鶴を突き放している。離れられないから、こんなにも苦しいのだ。
宇田の家に生まれたことを嫌だと感じたことは一度もないけど、別に親族がめちゃくちゃ富豪であることへの有り難みはあまり感じていない。
わたしのお小遣いなんて、月曜日の朝に2千円支給だ。それって少ないわけではないかもだけど、日本屈指の資産家にしたらあんまりだと思う。
親ばかだからなんでも買ってくれるかわりに、学生のわたしに大金は持たせたくないらしい。娘が、ドラッグとかギャンブルにハマるとでも思ってるのかな。そんなわけないでしょ。
また別のことをふわふわと考えていたわたしに、だいぶ低温な怒りを堪えている彼女が口を開いた。
「離れろ、とまでは言いませんが、私たちの邪魔をするのはやめていただきたいです」
「嫌です」
「い、嫌?!」
即答した私に、彼女は驚いてそのまま繰り返した。遠回りした打ち合いになると予想していたらしいけど、そんなの時間の無駄だ。
どうせ、こちらの勝利は決まっている。
「わたしが邪魔をしている自覚はありますが、ゆづもそれを望んでいるんですよ」
「そんなわけ、」
「その証拠に、由鶴は迷わず、あなたよりもわたしを選びます。どんな質問をしても、わたしを選ぶんです。好きなのも嫌いなのも、わたしだけ。
あなたもそれを分かっているから、由鶴に直接言わず、こうやって陰湿にわたしに喧嘩を売ってくるんでしょう?」
もし、ここで彼女が激昂して殴りかかってきても、こちらはかまわない。何をしたって由鶴はわたしのものだし、怪我でもして由鶴の同情を誘えたらむしろ彼女に感謝しなければならないくらいだ。
「宇田さんって、実は性格悪いんですね」
「性格の良し悪しなんてこだわっているの、ほんとうに退屈な人ですねえ」
わたしはにっこりと微笑んで、たっぷりの皮肉をぶつける。
性格なんて関係ない。わたしがわたしであるだけで、わたしという人間に価値を見出してもらいたい。それを叶えてくれるのが、わたしよりも“すごいひと”だと、なおさら良い。
深月由鶴という“すごいひと”が認めてくれるから、わたしには価値がある。
ただ、それだけだ。
性格が良くても悪くても、みんなに———由鶴に、求められたらわたしの勝ち。
「私と由鶴くんを、別れさせたいんですか?」
「え?」
「邪魔する理由って、そういうことでしょう?これまでもそうやって由鶴くんの恋愛を邪魔してきたんですか?」
嫌味が8割だけど、たぶん、純粋な疑問もそこには含まれていた。
わたしは、言葉の意味を噛み砕きながら、彼女を改めて観察してみる。大学生だから髪を染めている。アクセサリーは小さなお花のモチーフでまとめてある。自分に似合うものをよく知っている人だ。
由鶴の恋愛の邪魔をしたかったわけじゃない。
むしろ、わたしたちの関係が、恋愛に邪魔されたくなかっただけだ。
これは強がりでもなんでもなくて、ほんとうに、ちがう。あなたのことなんか、どうだっていい。
だって、どうせあなたがゆづと別れても、ゆづにはすぐ新しい恋人ができる。それの繰り返しだ。
それに、どうせわたしは由鶴の恋人にはなれない。ならないし、なりたくもない。
正直、由鶴と彼女がいつも長続きしない理由は謎だった。無意識のうちに女の子の心を上手に転がすはずの由鶴だけど、恋人と半年以上続いているのを見たことがない。
恋愛に関しては由鶴が飽き症なのかと思っていたけど、もしかしたらこれまでも何度か由鶴が振られてきてるのかもしれない、と思った。わたしのせいだとしても、それって、めちゃくちゃ笑える。
いちおう異性だし、あんまり恋の話とかしたことなかったけど、もっと深掘りしておけば良かった。かわいいゆづるんの弱みはいくつ持っていても足りないのよね。
調子に乗ったわたしは、ポニーテールから落ちてきた後れ毛を耳にかけながら、彼女に聞いた。
「わたしが邪魔したら、ゆづと別れてくれるんですか?」
「そんなの分からない、けど、別れたくないって思っています」
そんなの、分からない。正直な答えに胸が詰まった。
わたしは、由鶴と離れるなんて絶対にできないけど、ふつうの感覚で言えば、学生の付き合いに“絶対”なんてない。
わたしをきっかけに仲違いすることも、あるいは、仲が深まる可能性だってあり得るわけだ。悪役女の修羅場によって雨降って地固まる的な展開、よくあるでしょ。
わたしにとっては、この女はしょせん由鶴の通過点。でも、彼女にとっては、きちんとしたひとつの恋。
彼女は何も悪くない。純粋なそれに、吐き気がする。
「宇田さんは、由鶴くんが恋人にどうやって触れるのか、甘やかしてくれるのか、知らないでしょう。
負け惜しみかもしれないけど言わせてもらえば、たしかに宇田さんは由鶴くんにとって特別な存在だと思います。でも、けっきょく、恋人にはなれないのですものね」
自分では、分かっていた。自分だけが、分かっていると思っていた。
誰かに指摘されたのは初めてのことで、息がくるしくなる。踏み抜かれた地雷が爆発した。
由鶴がどうやって恋人を甘やかしているのかなんて、知りたくもない。そして、きっと知り得ないことだ。
由鶴は、女の子に甘い。かわいがっている妹のせいもあるだろう。
昨日も、生徒会室でクーラーの冷気を直接浴びていた書記の女の子の肩に、自分のパーカーを掛けてあげていたし。女教師が運んでいた大量のノートを、何も言わずにそっと受け取って職員室まで持って行ったりする。
どうやら幼馴染は、天性の女たらしのようだ。
「もう、いいですか」
絞りだした声は、もう完全に満身創痍だ。それなのに表面は無傷なので、この女子大生はやっぱり手強い。
明らかに傷ついた顔をしているだろうわたしを伺うように、彼女は「そうですね、お時間とらせてしまってすみません」と丁寧に告げて、もうひとつ言葉をつづけた。
「お願いなのですが、宇田さんから由鶴くんに、電話をかけてもらえますか」
そろそろ迷える美少年を助け出してあげる時間らしい。わたしは頷き、[よく使う項目]から深月由鶴に電話をかけて、スマートフォンを彼女に手渡した。
お礼をしてから受け取った彼女はすぐにそれを耳元に当てて、もしもし、と柔らかいマシュマロのような声を出した。
この女、由鶴の前ではこんな猫みたいな声使ってるのか。ふうん。
さっきまでのユリの花みたいな声のほうがいいと思うけどな。匂いはきついけど綺麗、みたいなソプラノ。
通話中の彼女を見ていたら、また、由鶴のことが羨ましくなった。こんなにも、みっともないところを晒してまで欲しがってもらえるなんて、さぞかし承認欲求も満たされることだろうな。
わたしは、まだ、ずっと足りない。定期試験、体力測定、習字、油絵、いろんなイチバンを集めても、ほんとうに欲しいものは手に入らない。
何かで1位になることが重要なんじゃなくて、それによって、賞賛と尊敬と畏怖の念を抱かれたい。1位をとったわたしをもっと認めてほしいし、もっと興味を持ってほしい。
欲張りだって、自覚はしている。
由鶴がわたしのものになれば、わたしのこころは満たされるのだろうか。由鶴にはなれないけれど、由鶴を手に入れることは意外と簡単なことだ。
わたしのスマートフォンを耳に当てている彼女の瞳は、たしかに、まっすぐ恋に焦がれていた。
ふたりが何を話してるのかあまり気にならなくて、やっぱりわたしは他のことを考えてしまう。まあ、他とは言い過ぎかもしれないけど。だって、けっきょく由鶴のことだし。
今日は、出来のいい幼馴染について考えさせられる日だ。普段、わりと直感で動くわたしは、ひとつのことについてこんなに考え込むなんてない。
なんか、疲れちゃうな。
長話もせずに、通話が切られたスマホが返ってくる。電波越しの恋人同士に何があったのか分からないけれど、彼女は何かを吹っ切れたように破顔した。
「宇田さんは、誰からも愛されるみんなのお姫様ですね」
甘くコーティングされている言葉の真意を読み取ろうと、わたしは彼女の目をしっかり見据える。
たしかにお遊戯会や演劇会では、わたしはお姫様の役を与えられてきた。でもそれは、わたしが〝お姫様らしいから〟ってわけではないと思う。
主役、だからだ。物心ついた頃からわたしはどこにいても、きっちり主役を演じたがる。性根から、目立ちたがりなのだ。
ちなみに由鶴は、幼稚舎でのお遊戯会では王子様を演じてみんなをめろめろにさせたのに、初等部あたりから勘弁してくれと拒否するようになった。黒髪の王子様ってかなり魅力的なのに。
「そんなことないですよ」
誰からも愛されるお姫様、という過大すぎる評価を少し遅れて否定した。これは謙遜でもなんでもない。
だって、わたしのこと嫌いな人とか邪魔だなーって思っている人なんて、腐るほどいる。あなたも含めて、だよ。おねえさん。
「わたしは、神様から愛されているんです」
わたしはお得意の最上級の微笑を浮かべて、由鶴の恋人を屋上から送り出した。
この人は由鶴の恋人を辞めて、他人になるんだ。もう会うことはないかもしれない。
一瞬大きな瞳をきょとんとさせた彼女は、すぐに美女にかえって、満足げな笑みで屋上を出た。
ばたん、とドアが閉まる。
ふと、まだ手に握ったままだったスマートフォンで由鶴のGPSを確認した。うん、ここに向かっているみたいだ。お利口さん。
———わたしは誰よりもツイている。
日本有数の資産家のご令嬢で、家族関係も概ね良好で、様々な分野において最優秀賞を総ナメにしてきた。友だちとも普通にうまくやってるし、勉強もスポーツも得意だから学業は楽勝ってかんじ。
何より、生まれた瞬間からすぐそばに深月由鶴がいるのだ。そんな幸運、他にあると思う?
由鶴は、この世の美の完成形ともいえるような綺麗な容姿の男の子だ。
容姿にこだわりはないものの、稀に見る完璧主義者なので美容においてもきちんと最低限の手入れを欠かさない。細身ですらりと背が高い体型の維持、隙のない制服の着こなし、彼はニキビの1つも許さないタイプの人間だ。
もちろん、顔立ちそのものがどの角度から見ても恐ろしく整っている。
さらさらとした黒い前髪からのぞく切れ長の目。長く伸びた睫毛に縁取られているそれは、見つめられると不思議な気持ちになる。吸い込まれそうな。煌めく漆黒。
すっと通った自然な鼻筋が、彼の整った顔立ちをより際立たせている。口角が上がった薄い唇は、吐き出す毒によく似合っていた。
幼い頃から天使のように美少年だったけど、中等部に入ったあたりからいっきに女の子の支持を集めるようになった。やや陰のある大人びた雰囲気は、妙に女心をくすぐってしまうらしい。
なんていうんだろう、色っぽいんだよね。ほかの高校生よりも圧倒的に。長い指とか、ほっそりした首筋とか。腕の筋肉と血管とか。
わたしは根っからの由鶴オタクだから、由鶴の髪の先から爪先まであいしてる。あの美貌も含めて大好き。
容姿に上も下もないと主張したいけど、由鶴の綺麗な顔がわたしは好きだ。一生見ていられるし、なれるなら、なりたい。
由鶴に、なりたい。誰がどう見ても、由鶴はうつくしい。それは絶対的な価値で、みんなが認めている。たくさんの憧れを当たり前みたいに受け取って、興味がないと振り払う。
わたしが喉から手が出るほど欲しているものに、彼は関心も持たずにいる。
ただ、わたしに必要とされることだけが、彼の承認欲求が満たすことができる。他人からの褒め言葉も批判も、彼にはどうでもいいことだ。“深月由鶴の唯一”は、極上の毒。
わたしは、由鶴に恋をしているのだろうか。
由鶴に恋をしている女の子は沢山いる。つまり、わたしもその中のひとりなのだろうか。
こんなに、好きなのに。
わたしが話しているときの、どうでも良さそうな顔。最後まで聞いてくれた彼は「あ、そう」か「ふうん」のどちらかを言う。ふうん、のほうが機嫌いい。
わたしのマニキュアを塗ってくれる。由鶴はけっこう世話焼きなところがあるし、男の子にしてはかなり手先が器用だから。
肩や首のマッサージもしてくれる。うちにはメイドさんみたいなひとが多少はいるけれど、今日の学校のことなんかを話しながら由鶴に揉んでもらうほうが、ずっとリラックスする。
金持ちの御坊ちゃまとして育っているはずの由鶴だけど、完全にわたしに尽くしたい気質だ。嗅覚の鋭いわたしは物心つくと同時にわたしはそれに気付いていた。
たしかに、由鶴は誰よりもわたしに甘い。もはや彼の狭い世界は、わたしかわたし以外かで成り立っている。
たとえば、生徒会室の空調は、奥の席に着くわたしにとってちょうど快適な温度に保たれている。日光が差し込む窓の側のわたしでも涼しくて、下半身を冷やさない26度。
由鶴はなんの悪気もなく、他の役員にはパーカーで調節させている。
ふと見上げた空の雲行きが怪しくなってきた。この季節の暑い日は、ほぼ確実に夕立ちがくる。
良かった、これで堂々と由鶴の傘に入れてもらえる。ふたりで、帰れる。嫌そうに無言で長い睫毛を伏せる幼馴染を想像するだけで楽しい。
たんたんたんたんたんたん。
屋上に続く長い階段を駆け上がってくる音が微かに聞こえる。
その聞き慣れた足音をBGMに、わたしは過去を振り返っていた。
わたしの後ろをついて歩く人見知りだった幼い頃の由鶴に、彼のお母様が言った。
———ひとりで歩きなさい、りんちゃんだってずっと一緒にいられるわけじゃないんだから。
もちろん、子供に向けたそれに深い意味はない。わたしに頼りすぎちゃだめだよっていうだけのしつけ。
それなのに、当時から仏頂面だった由鶴は、珍しくもみんなの前で大泣きしてしまった。
りんちゃんとずっと一緒にいるもん!!って。今の彼を思うと、それはあまりにもかわいすぎる。まあ、正しくは、りんぢゃんどおおお、ずっどいっじょにい、いるもんんんん!って感じだったけど。ほら、泣いてたから。
よしよし、ごめんねゆづ、りんちゃんと仲良くするには泣いてちゃだめだよ。
慌てて謝るお母様と感情露わにわんわん泣き叫ぶ由鶴を眺めながら、幼いわたしはどうしようもなく嬉しかった。
もちろん、由鶴を慰めるポーズはとっていたけど、心の中では彼への独占欲がむくむくと育っていた。
ゆづ、わたしから離れたくないんだ。ああ、かわいい。
そして、カウントダウンする。さん、にい、いち、ばたん。
ほらね、ドアが開いた。
「宇田はいるの?」
息を切らした由鶴の声には抑揚がなくて、そのいつも通りが、なぜか安心した。
由鶴はまず、空を見た。雨、降ってないじゃんって思ったのかもしれない。もうすぐ降るよ、たぶんね。
それから視線を動かして、ひとりで立っているわたしに吸い寄せられるようにまっすぐ駆け寄ってきた。
「っ、」
何も言わずにわたしを正面から、きゅっと柔らかく抱きしめる。
こうやって抱き締められると、華奢に見える由鶴の背中が想像よりもしっかりしていると分かった。ふわりと清潔な匂いに包まれて、わたしはまた、さらに安心した。
ぴたり、わたしたちの距離がゼロになる。こんなに近いのに、溶け合えない。このままふたりでいたら、わたしが由鶴になれたらいいのに。
こちらの歪んだ思考なんて知る由もなく、わたしに傷がないことを確認した彼が覗き込むように視線を合わせてきた。
その無垢な瞳に言い訳するように、先に口を開く。
「なんにも、されてない」
そのくせ、両方の目からはぼろぼろとなみだが溢れ出した。いきなりのことに、自分でも驚いてしまう。
意図的なものでもないし、生理的なものでもなかった。わたしらしくもなく、感情が昂って泣いていた。
慌てた由鶴がポケットから出して拭ってくれたハンカチがぐっしょりと濡れていく。こんなみっともない嗚咽を他人に見せるのは初めてだ。
「痛いの?」
「っく、だい、じょうぶ、」
「何されたか言って」
「ほんっとに、なにも、っ、されてなくて、」
「じゃあ、なんで泣いてるの」
少し屈んで目線を合わせて、ひんやりと冷たい大きな手でゆるく頭を撫でてくれる。
由鶴のやさしい手はわたしの頭のサイズにぴったりで、さらに安心の波が押し寄せてきた。
ごめん、ほんとうに何でもないんだ。
あのね、さいあくなことに気付いちゃった。
「安心したから、泣いちゃっただけ」
———わたしって、ただ、由鶴のことが好きだったのか。
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