第7話 手袋はめて触れてみる


9月の生徒会室は、ひんやりと空調で冷やされていた。名のある私立高校なだけあって、そのあたりの設備は充実している。



「こうやってふたりでゆっくりしていると、外暑いのが信じられないよねー」



学生服姿の宇田は、高い位置で括られたポニーテールを揺らして俺を振り返った。半袖のブラウスから覗く腕は白く光っていて、残暑を感じさせない。


宇田の肌は、俺のように青白いわけではなく、健康的な桜色のかかった柔らかそうな色をしている。本人いわく紫外線を吸収しやすい肌質のようで、常に日焼けを気にしていた。


宇田って、いろんなことが気になるみたいだ。



「そういえば、茅根がへんな打楽器?買ったらしくて、練習してたよ」



10月末に行われる文化祭に向けて資料を作成している俺は、当然のように生徒会長を無視を決め込んだ。そうしないと確実に絡まれる。



「由鶴くんはいつもぴりぴりしてるから、音楽のちからで癒してあげたいんだってさ。たしかにな~と思って、わたしもへんな笛買った。アフリカのほうの民族楽器なんだけど、なかなか難しいからさ、まいにち練習してるの。もうちょっと待ってね」



いや、すでに絡まれている。しかし、俺の反応なんて初めから期待していない宇田は、スピーカーのようにひとりで喋り続ける。苦痛でしかない。由鶴くんのぴりぴりの根源は間違いなくオマエたちだ。



するとふと思い出したように、宇田が新しい話題を振ってきた。手元ではキーボードを叩きながら、よくもまあ、器用ですこと。



「ねーねー、ゆづるんに新しい彼女ができたってまじですかー?」


「ああ、うん」


「聞いたよ、大学のお色気〜なお姉さまなんでしょ?」




うちの高校は幼稚舎からのエスカレーター式だから、大学までが同じ敷地内にある。おかげで高校生と大学生が付き合うケースもたまに見られるものだ。


事実、そのときの俺の恋人は大学生だった。



「あれ、前の彼女さんも大学生だったよね?」


「そうだね」


「ゆづるんは年上好きだったのかー!まあ、大人びてるし、女子高生なんて相手にしないかんじ?」


「べつに」



別に、そうでもないよ。俺は目の前のブルーライトにあてられたまま、逃げるように睫毛を伏せた。



実際に今、俺、オマエに欲情してる。



白くほっそりとしたうなじ。鍵をかけたふたりきりの生徒会室。紫外線を防ぐために閉められたカーテン。



思春期の俺は、お膳立てされたようなその状況に毎日飽きもせず欲情していた。


そして、その欲求が溢れる前に恋人を作って、また涼しい顔をして生徒会室の鍵をかけていた。


そもそも俺は年上が好みだとかでもない。ただ、あまり近い距離に恋人という存在を置くのが良策ではないと知っているから、大学生を選んでいるだけだ。



それが恋人のためなのか、俺のためなのか、あるいは宇田のためなのか分からない。でも、俺の恋人と宇田凛子とでは、相性が良くないことは確かめなくてもわかることだ。




宇田が生徒会長、俺は生徒会副会長。



幼稚園の頃から狭いコミュニティに閉じ込められた裕福な生徒たちは、日本屈指の名家に生まれただけの俺らを妙に崇めていた。



品行方正、成績優秀、眉目秀麗。学校という社会で地位を得るのは、俺らにとって呼吸をするように容易いことだ。


俺は他人から無遠慮に与えられるだけの評価に、なんの価値も見出さなかったけれど、宇田は違う。他人からかけられる言葉ひとつひとつを、丁寧に、大切そうに受け取っていた。



宇田が生徒会長になりたいと言いだして、俺に副会長になれと言ったから、いつの間にか俺は副会長になっていた。中等部の時もそうだった気がする。


俺と宇田の間には、このときすでに関係性ができあがっていた。


宇田と俺とは、ふたりでひとり。陽と陰。正義と悪。




「いつもね、由鶴くんが彼氏って言うと羨ましがられるんだ」




恋人が、俺の冷たい指先を自分のそれと甘ったるく絡めながら言った。視線に熱が込められているのを感じて、宇田もこうだったらいいのに、とかぼんやりと考えてしまうのでもう末期だ。




「なら、よかった」


「自慢の彼氏なの、だーいすき」




恋人との、放課後デート。


といっても、暑さに弱い俺を気遣ってくれたのか、大学生の恋人が独り暮らししている自宅にお邪魔させてくれた。


ワンルームのマンション。女の子らしい家具の配置。今頃宇田は、お嬢様らしく習い事に励んでいるのだろうか。



生徒会室のときから欲求が溜まっていた俺は、ゆるい会話の最中も、早くシたいなーとか最低なことを考えていたけれど、理性なく盛るほどこの女に溺れているわけではなかった。



すると、淡い桜色のマニキュアが塗られた細い指が、俺のワイシャツのボタンを外してきた。それを黙って上から眺める。




「由鶴くんってさあ、ほんとに高校生とは思えないくらい色気あるよねえ」



まあ、そっちがその気なら、俺は利用させてもらうけど。




露出した腕を引いて、何度か使ったことのあるベッドに恋人を押し倒した。俺は覆い被さるように乗り上げながら、彼女をうつ伏せにさせる。


顔を見ながらするのは、あまり好きじゃない。見たくないのか、見られたくないのか分からなないけど。


それに俺は、彼女のふわふわと長い髪をわりと気に入っていた。



服を脱がせて弱いところを容赦なく刺激すると、恋人は呆気なく快楽に落ちた。シーツを強く握りしめて喘ぐ姿を眺める。



喘ぎ声、卑猥な水音、空調の機械音。甘ったるく湿った空気。



ゆるくパーマのかけられた髪を撫でてみると、宇田の細くて絡まりやすい黒髪を思いだした。ああ、萎えるってば。



赤く染まった背中を見下ろしている自分の感情は、ほぼ無に近い。ただ、快楽を追いかけて腰を振るような、こんなの、本能で生きる獣だ。



うつくしい深月由鶴は、ここにいない。

宇田の前で見せている俺はほんの一部、自分のきれいな部分だけだ。


この恋人は決して股が緩い馬鹿ではない。そういう不衛生な女は嫌いだ。 それに、あまり緩い女を相手にしていると俺の品格が下がる。それは俺の家と宇田にも影響するから、よくない。



「由鶴くんって、っあ、ん」


「俺が、なに?」


「っああ、ドエス、ッ!」



俺に見下ろされたまま散々鳴かされた恋人が、振り返って、喘ぐように言った。



まったく、何にも分かってないなあ。



俺はくつりと喉の奥で笑って、耳元に唇を寄せて甘く囁く。


「なに言ってるの、俺は女に尽くすタイプだよ」




そして、恋人の首筋に舌を這わせて攻め立てると、理性も崩れた彼女は泣きじゃくりながら快楽に溺れていく。



たしかに、行為の最中は加虐嗜好があるけれど、俺の精神はまちがいなく首輪をつけられておきたいほうだ。


だって、俺は宇田の犬だもん。





情事を終えた後特有の、ぬるい空気が部屋に流れている。



勝手に冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを恋人に手渡すと、礼を述べた恋人は、由鶴くんはずるいなあと困ったように笑った。



困ったように笑う、という表情に妙に惹かれる。いわゆる、これが俺の“萌え”なのかもしれない、などとくだらないことを考える。


恋人のことを可愛いだとか愛おしいと感じたことは一度もないけれども、この困ったような笑みは嫌いじゃない。




喫煙者でもあれば、こういうときにゆったりと煙草を吸ってみたりするのかもしれない。酒も煙草も興味のない17歳は、特に余韻もないままシャワーを借りた。


ピロートークなんてもちろん苦手だし、理解力のある恋人も俺にそれを求めない。



シャワーを浴びると自分の汚れた部分がすっきりと洗い流されたような気がした。清潔な状態の深月由鶴だけになる。



欲を吐き出した後に虚無感を覚えるほど大人じゃない。むしろ、年上の恋人のほうがそれを感じていたかもしれない。




「由鶴くん、シャワー浴びてるとき、電話鳴ってたよ?」



そう教えてもらって、スマートフォンを耳に当てながらベランダに出た。通話の相手を確認すると、無意識にも早足になる。


電波の奥にはこちらの状況を一切知られないよう、こほんと咳払いをする。



『もしもし?ごめんねハニー、忙しかった?』



今日は木曜日。放課後はバレエのレッスンがあるはずの宇田。よく聞きなれたメロンソーダ色の声が、電波に乗って耳に届く。



「大丈夫だけど、なに?」



オマエから電話がかかってきて、優先させなかったこと無いだろ。タテマエばかりの挨拶に舌打ちして、要件を促す。




『いやあ、今日バレエの先生が体調不良でお休みだったから、由鶴と遊ぼうかなーとか思ったのよね。もし空いてるなら、今からうちにおいでよ』



ほんの僅か。きっと、俺以外の誰にも気付かれないようなくらい。

宇田の声の端っこが、震えたように感じた。



誘うのに緊張しているのか、あるいは。



「あー、行こうかな」


『やったー!ゲームしよ、ゲーム』


「なんとなくRPGの気分」


『勇者ゆづるんを待ってまーす、気を付けておいで』




ぷつり、わざとこちらから切った通話のせいで、宇田との繋がりが途切れた。もっと話していたかったような、気がする。


でも、そんなの知られたくないし、宇田から電話を切られたらそのあとがもっと寂しいので、俺のほうから切るしかない。単純で、複雑。



ベランダから部屋に戻ると、ゆったりした仕草の恋人はまだベッドの上で微睡んでいた。


その妖美な雰囲気に飲まれるはずもなく、俺はゆるりと目を細める。



「ありがとう、お邪魔しました」



身だしなみを軽く整えて、余計な詮索をされる前に言葉を投げると、恋人は「もう少しゆっくりしていってよ」と想像通りの言葉を返してきた。


それもそうか。さくっと欲だけ吐き出して、電話がかかってきたからすぐに帰る男なんて、低俗にも程がある。


でも、俺、このひとに嫌われてもどうでもいいし。



「予定、あるから」



端的に告げると、恋人は縋るように俺のワイシャツの裾を掴んだ。こうなってくると面倒だ。舌打ちを鳴らしそうになって、なんとか堪えた。




「彼女は、わたしだよね?」


「うん」


「ねえ、ほんとに?」


「でも、それ以上面倒なこと言うなら別れるよ」



俺は、纏わりつく恋人の手をさらりと振り払った。聞き分けの良い恋人はすっと手を離して、捨て犬みたいな目で俺を見つめる。まあ、犬を捨てたことはないけど、たぶんこんなかんじだと思う。




「お利口な子は好きだよ」




女の頭を軽く撫でてやって、俺は部屋をあとにした。


玄関で、またきてくれる?と甘えた声を出す恋人に、音もなく頷いておいた。



こういう無意味な時間を過ごしていると、俺はどうして恋人を必要としているのか分からなくなる。宇田さえいればいい、と思う時間がほとんどだけど、無性に宇田を忘れたい瞬間がたまに訪れるのだ。


そういうとき、恋人という存在はとても便利。当然ながら彼女のことが嫌いなわけでもないし、俺なりに大切にしているつもりでもある。


ただ、それよりも上に、宇田がいるってだけ。



でも、そんなことは玄関を出たらすぐに頭から消えて、頭の裏側ではへらっと笑う宇田が浮かんだら消えたりしはじめた。宇田のことを考えると意味もなく腹が立って、なぜか意味もなく泣きたくなって、どこか甘美で胸焼けがする。


だから、嫌いだ。



あらかじめ頼んでおいたので、深月家で雇っている運転手が外で待っていた。暑いなか歩かなくて済むのは助かるなと思って、ありがたく車に乗り込む。


いくら幼馴染とはいえ、手ぶらでお邪魔するのもどうなのかと思い、宇田がお気に入りの老舗の和菓子屋で羊羹を買った。



風物詩が描かれた季節限定パッケージが売られていて、迷わずそれを選んだ。季節の変わり目にだけ売り出すこの限定品を、宇田は少しだけ楽しみにしている。



宇田はきっと丁寧に包みを開けて、そこに書いてある季節の言葉を読み上げて、絵柄を楽しむだろう。俺は幾度となく見てきたはずのそんな光景を永遠に眺めていて、それでも飽きないから嫌になる。




俺は、脳内を整理しておける冷静な人間だと思われている。幼い頃からそうだったし、高校生になってもそう。


実際、熱量が明らかに欠落しているので、感情が爆発したりすることはない。年齢の割に落ち着いてみられるのは、そういったところだと思う。


だけど、頭も身体も俺のぜんぶは、たったひとりによって乱される。それこそ、物心ついたとからずっと、だ。



だから、やっぱり宇田のことは嫌いだ。



俺を乱してくるような宇田は嫌いだし、俺に乱されない宇田も嫌いだ。他人からどれだけ賞賛を浴びても、けっきょく宇田を超えられないから嫌いだ。



あと、やたらと目立つくせにわざわざ俺の教室に来て、しかも大した用事でもないのに俺を呼びつけるところも嫌いだ。




「ハニー、今日いっしょに帰ろー」




クラスメイトである茅根との会話が盛り上がっていたところで、俺は宇田に呼びだされて仕方なく廊下に出てきた。そして、その要件がこれだ。



「は?なんで?」


「そんなに嫌?!」


「ふつうに嫌だよ、今日雨だからからだ重いし、」



オマエと話してたら余計な体力使うし無理、と言おうとして、気が付いた。




「宇田、傘忘れた?」


「ご名答」



にやりと笑うその顔はどうにも猫っぽくて、オマエもたまには捨て犬の顔でもしてみろと思った。そうしたら迷わず拾って、優しく抱きしめて、大切にしてあげるのに。




「だからあ、おねがいー!いっしょに傘入れてよーゆっづるーん」



大学付属の名門私立高校とはいえ、一般の学力で編入する人もいる。だから、車通学の生徒ばかりではないし、なんなら高校生にもなったらそんなのは一握りだ。


宇田や俺は自分の意思で、電車通学を選んでいた。でも、傘を忘れた日くらいは迎え呼んでもいいと思う。というか、雨の日は送り迎えもいっぱいいるし。



だけど、俺はそれを言わなかった。


宇田だってそんなの分かってるはずなのにわざわざ俺のところに来たわけで。


その意図を汲み取ってあげることで、俺と宇田の関係は成り立っている。



高校生の宇田は、まだ純粋で、多少は考えが読み取りやすかった。



「オマエの教室に迎えにいくから、待ってて」



本当は、俺はロッカーに置いてある折り畳み傘も含めて傘を2本持っていたけれども、それは言わないことにした。まあ、それこそ宇田は気付いているかもしれないけれど。



宇田が俺に対して恋愛感情を抱いているとは到底思えない。決して認めたくないし声に出したくは無いけれど、完全なる俺の片想いだ。



でもたまに、俺への独占欲みたいなものが垣間見える。



他の生徒たちにやんわりと見せつけるように声をかけたり、俺が恋人と過ごしていることを知りながらわざと呼びつけたり。


しかも、宇田の厄介なところは、俺に近寄る女を避けるためとか、俺らの仲を周りに見せつけるためではなく、俺自身を牽制しているところだ。


どこまでの我儘なら俺が黙認してくれるのか、どこまで宇田を優先させてくれるのか、俺を試している。



先日のバレエだって、どうせずる休みだ。脚が痛いふりでもしたに違いない。何をやっても優等生である宇田のずる休みなんて、誰も疑わないから、あいつはたまにそういう狡いことをする。


電話越しの彼女の声が震えていたのは、嘘をついていたからだ。

俺は、とっくに知っている。恋人と過ごしているときに自分が呼んだら来てくれるのか、定期的に試してくること。


それのに、俺はオマエに呼ばれたらいつでもどこへでも行くことさえ、どうして伝わらないのか。




素直な俺は、安心させてあげたい、と思う。いつでもオマエのことがいちばん大事だよ、と言ってあげたいし、それが正しい愛情表現だと思っている。


でも、俺はそれができるほど大人にはなれなくて。安心した宇田は、俺のことなんてどうでもよくなっちゃうかもしれないし。不安があるからこそ、俺を引き止めようとして構ってくるのかもしれないし。



何より、俺の深すぎる愛情を知った宇田は、逃げ出すかもしれないし。

そんな思考をすべて落ち着かせて、廊下に出てきた宇田のクラスメイトに声をかける。




「宇田、いる?」



帰りのHRが終わって少し経ったその教室は、もう半分程度の生徒しか残っていなかった。



「あ、み、深月くん、わ、」



声をかけた女子生徒は、慌てた様子で俺の名前をかろうじて口にした。あの、俺、そんなに怖くないよ。



「うん、で、宇田は?」



無表情の俺に非があるに違いないので、もういちど質問を繰り返すと、彼女の友人らしき別の女子生徒が答えてくれた。



俺は背が高いから見下ろす形になるのがまた悪いのかと思って、少し屈んでみせると、ふたりは耳から首まで赤く染め上げた。



「せ、生徒会室かな?鞄はあるけど、本人はいなくて、」


「は?」


「か、帰ってはいないと思うんだけど、」




なにそれ、教室で待ってる約束なんですけど。


俺は、得体の知れない悪い予感がした。ぞわりと背筋を撫でる寒気、というかなんというか。




「ありがとう、教えてくれて」



早く宇田の無事を確認したくて、お礼がさっぱりしたものになってしまう。




「ううん、役に立たなくてごめんなさい」


「もし宇田さんに会ったら、深月くんが探してたこと伝えておくね」



照れながら話すふたりを見て、良い子たちだな、こういう謙虚さが宇田にも欲しいな、としみじみ思った。


「あ、あの、実は、」



その直後、実はふたりは俺のファンクラブという気味の悪い同盟に所属していることをカミングアウトしてきて、握手を求めてきた。


彼女たちが悪い子だとは思わないから握手はしておいたけど、やっぱり無味無臭な人格者はいないと学んだ。どう考えても、変だろ。




とりあえず、生徒会室に向かってみよう。悪い予感のせいであまり期待できなかったけど、生徒会室にいてくれたらラッキー。というか、ふつうに考えたら生徒会室にいる可能性が高い。



同じ生徒会役員の茅根あたりにだる絡みしてるかもしれない、あのふたりはマジで悪質なコンビだ。俺のストレス、諸悪の根源。。




先週なんて、音色も名前も聞いたことがないような得体の知れない楽器を演奏する宇田と「さすが宇田会長〜!じょうず〜!」とそれをべたべたに褒める茅根の側で、文化祭の予算案を作成した。



そこで俺がキレたとしても、「音楽に癒されなよ」とかなんとか適当な事を言われるだけで、またどこかの民族っぽい打楽器の演奏が続くに違いない。だからなにも言わなかったけど、ああ、ほんとうにストレス。


そんな嫌なことを思い出しながら駆け足で向かった生徒会室の中からは、物音が一切聞こえなかった。


ここにくる途中でかけてみた電話は繋がらないし、不安が煽られる。もう一度かけ直してみるけど、生徒会室内で鳴っている様子もないし、相変わらず電話に出る様子もない。



自慢じゃないが、俺は、足音だけで宇田を見つけられる男だ。しかも、うちの生徒会長はなにかと騒がしいことに定評がある。


だから、宇田がいて生徒会室が無音なんてほぼあり得ないことだ。あいつはひとりでいる時ほど無駄にうるさい。



急いできたせいで熱くなった背筋を、そっと冷気が撫でる。




期待を込めて、そっと生徒会室のドアを開けた。




「ねえ、宇田?いたら返事して?」




吐き気がするほど甘い声で呼んでしまった気がする。迷子の子どもが親を探すような声色だった。


それでも案の定なんの反応も返ってこなくて、不安や落胆が膨らむと同時に、誰にも聞かれていなかったことに少しだけ安堵する。



大丈夫。宇田は護身術だって習っていたし、達人とは言わなくとも、武道は黒帯のはずだ。


大丈夫。口は達者だし、もし心無い言葉をかけられても余裕の笑みを浮かべて言い負かすはずだ。


大丈夫。宇田を傷つけるやつなんて、あとで俺が制裁しておくから。



大丈夫、だから、落ち着いてよ。



俺は、どうしたって、宇田が絡んでくると冷静ではいられない。 明らかに速くなっている鼓動を感じていると、電話が鳴った。


相手が誰なのか確認もしないが、もう、わかっている。俺はワンコールも待たずにスマートフォンを耳に当てた。




『もしもし?由鶴くん?』


「っ、誰?」



電話越しに届いたのは、おそらく聞いたことのある女の声。想定外の声に慌てるが、宇田ではないことだけ脳が処理をする。


宇田か、宇田以外。俺の脳みそは、それしか判別できないらしい。




『うわあ、ひどいなあもう、ほんとうに宇田さんにしか興味が無いのねえ』


「ねえ、はやく、宇田の声聞きたい、」


『由鶴くんって、宇田さんのことになるとかわいいねえ』


「おねがい、宇田は?ねえ、宇田は?」




普段は堰き止められている感情が、洪水みたいに溢れ出してくる。相手の言葉なんて、ちっとも響かない。


宇田の声が聞きたい、そうしたらきっと落ち着くから。早く俺に電話してよ。迎えに来てって、我儘言ってよ。




『私ってば、ばかみたい。由鶴くんのそんな一面知らなかったもん』




———恋人は、わたしなのに。


俺は、駆けっこが得意な少年だった。


体力測定での50メートル走、リレーのアンカー、マラソン大会。背が高いというのもあって、特別な練習をしなくても速く走れた。



でも、もし毎日走り込んでいたら、もっと速く走れたと思う。


もっと速く走って、少しでも早く宇田を抱きしめてあげたかった。



無駄に広い校舎を全力疾走して、屋上に向かった。さっき、電話越しに屋外の音をきいたから、電波の先が外であったことは確実だ。



屋上である確証はないけれど、そこからなら校庭全体がよく見えるはずだ。だから、まずは屋上に向かってみる。俺はこんなときでも、どこかで妙に冷静な思考を持っていた。



屋上に続く階段を駆け上がって、鍵がかかっていないドアを乱暴に開ける。ここが解錠されている時点で、ビンゴ、と思った。




「宇田は、いるの?」




息が切れているのに、やっぱり俺の声には抑揚がなくて、それがまた不気味だった。

だって、こんなにも動悸は激しいのに、外側に反映されていない。




外に出てまずはじめに、雨降ってないじゃん、と思った。



それから視線をぐるり移せば、姿勢良く学生服を着こなした小柄な女がひとりで立っていた。



俺はその女が宇田だと分かるよりも先に、吸い寄せられるように無意識のまま駆け寄って。



何か言葉を選ぶよりも早く、ただ、宇田を正面から抱きしめた。



見たところ外傷はない。湿気を含んだ生ぬるい風がポニーテールを揺らしている。抱きしめた身体は、想像よりもずっと華奢で簡単に壊れてしまいそうだった。


宇田の無事を確認し終えて、ようやく視線を合わせる。


すると、意志の強そうに煌めく瞳が俺を見上げて。


「なんにも、されてない」



何も聞いてないのに、そう言った宇田の目からは、いきなりぼろぼろと涙が溢れ出した。そのしずくがあまりにも透明に澄んでいるので、なんだか清らかで尊いものみたいに思われる。


宇田のような女のなみだが、清らかなはずないのにね。



突然の出来事に慌てながら、ポケットからハンカチを出して拭ってやる。俺は、宇田の嗚咽を初めて見たかもしれない、と思った。


こんなみっともない宇田は、めずらしい。彼女らしくない人間味に触れてしまい、俺のほうが申し訳ないような、恥ずかしいような気持ちになる。



「痛いの?」


「っく、だい、じょうぶ、」


「何されたか言って」


「ほんっとに、なにも、っ、されてなくて、」


「じゃあ、どうして泣いてるの」




少し屈んで目線を合わせて、ゆるく頭を撫でてやる。よしよし、オマエはいい子。


すると、なみだで顔をぐちゃぐちゃにした汚い宇田は、眉根を寄せて困ったようにふにゃりとほどけるように笑った。




「安心したから、泣いちゃっただけ」




————その表情に、ひどく心が揺れたのはここだけの話。

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