第6話 低温火傷につき、
結局、茅根と話した後は上手く眠ることなんてできず、部屋の掃除をしたり仕事を片付けたりして新しい朝がくるのを待った。
いつでもきちんと同じように整頓された部屋が好きだ。昨日と違う部屋になっていると落ち着かない。それはリモコンの位置から気温に至るまで。
ここ最近は忙しくて、家のことを疎かにしていた。年を越す前に元の状態に戻せてよかった。
そして、部屋が綺麗になると同時に、自分の考えすらまともに整理できていないことに気付く。宇田のことになると俺は思考力の低下がひどい。あいつのことはやっぱり嫌いだ。
7時を回ったとき、宇田がぺたぺたと裸足で起きてきた。我が家を裸足で歩くなと何万回言っても改善されない。
俺の舌打ちを無視した宇田は「先に起きてるのめずらしいね」と無邪気に笑った。
きょうはふたりとも休みだ。まあ、夜に催される春の新作のためのパーティーには出席するから、半日休みといったところだろうか。
どうでもいいけど、そういう場に行くと茅根との熱愛疑惑が浮上する。化粧品について詳しい男への偏見かと眉を顰めたが、シンプルに俺らの距離感が怪しまれているらしい。
俺がベッド脇に畳んでおいた部屋着を着た宇田は、ゆらゆらと不安定な歩みでシャワーに向かった。
彼女に背中を向けられると目を逸らしてしまうのは、置いていかれることへの不安からなる悪い癖だ。
人を駄目にするソファというキャッチフレーズのそこからなんとか立ち上がって、冷蔵庫を開けた。朝ごはんを食べよう。ずっと起きていた俺はそれなりに空腹だった。
冷凍庫には軽井沢のパン屋から取り寄せた食パンがあった。これは宇田のお気に入りだ。野菜やチーズ、ツナを使ってホットサンドの準備をした。片付けはあいつにやらせるから問題ない。
やけに発色の良い野菜を切ってゆく。まな板に包丁が触れる音が心地よい。宇田が口にすると思うと、食材にもこだわってしまう。味というより、健康面で。
焼く手前までの過程を終えて、濡れたままの髪の宇田がリビングに戻るのを待つ。どうせそろそろだ。ほら、ドアが開く。
「おなか空いたー」
「髪乾かしてから来てよ、廊下が濡れる」
「あーごめん、面倒臭くて」
「期待した目で見るな」
諦めて視線を合わせると、彼女は嬉しそうにこちらに寄って来た。俺は小さい頭にふわふわしたバスタオルを被せてやる。
もちろん、仕方なく、呆れている、というポーズは忘れない。柔らかいシャンプーの香りに目眩がするなんて、絶対に言いたくない。
「ゆずが髪拭いてくれるのってわたしだけ?」
「茅根とやってたら気持ち悪いでしょ」
「たしかにー!じゃあこれからもわたしの髪以外は駄目ね!」
「オマエの髪も嫌だよ」
宇田の髪は細くて絡まりやすいから、丁寧に拭いてやらなければいけない。普段さらさらと流れる髪は、濡れていると少しだけウェーブがかかって見える。
そういえば、幼少期の宇田はふわふわの髪の毛だった。それがすごくかわいくて、生まれつき直毛の俺はその違いに宇田の“おんなのこ”を感じ取っていた。
それはたしか、中等部にあがったとき。美容室帰りの宇田は、新しくなった髪型を自慢げに披露してきたんだ。
さらさらになった、まっすぐな長い髪。それこそ、俺と同じような黒髪。頭を囲う艶の輪っかまでお揃いで、なんだか、つまらなかった。
だから、女の子の敏感なきもちなんて察することができるはずもない当時の俺は「ふわふわの髪の毛、すきだったのに」とがっかりしてしまって。
褒められることしか想定していなかった宇田は「もとからサラサラのゆづには分からないよね」と怒って2週間も口をきいてくれなかった。こういうことは、たまに、ある。
「ゆずは、意外と女の子の扱いが丁寧だから狡いよね」
自分の回想からはまったく見合わない褒められ方に、苦笑してしまう。
これは髪を乾かしている俺のご機嫌を取ろうとしているだけなので、「そう?」と返事するだけにした。
「そうだよ、歴代の彼女も自慢げだったもん!わたしにだけ優しいのよーみたいな」
「俺、優しくしてかな」
「知らないよそんなの」
拗ねたようにバスタオルの中でむっとする宇田がおかしくて、つい、甘い言葉をかけたくなってしまう。
「まあ、扱いが丁寧なのはオマエだけだよ」
「〜っ、ああ、ほんとずる、」
なんだこれ、両想いみたいだな。なんて、何度も繰り返した馬鹿な妄想に口元が緩む。水分を含んだバスタオルを手渡して「ドライヤー行ってきて」と声を掛けた。
今日は晴れている。カーテンのレース越しでも日差しに目を細めてしまうくらいだ。冬の太陽って、夏よりも眩しいような気がする。
皿を2枚、グラスを2つ。そこに浮腫みを気にする宇田のためにオーガニックのルイボスティーを注いだ。黄金色の液体はきらきらと美しい。
ドライヤーの風音が止まったと同時に、タイミング良くチーズがとろけて焼き上がった。
なんだか今日は素晴らしい日だ。
そう、気味が悪いほどに。
ヒールがないと頼りない脚で、ぺたぺたと朝食を食卓に運ぶ宇田。また裸足だ。床暖房って案外電気代かかるんだからね。
彼女はひとりで2人分の朝食を丁寧に並べた。皿を割ることも、ルイボスティーを零すこともなく、朝食が完成された。
「ほら、食べよ?冷めちゃうよ」
先に座って手招きするそいつは、なにを考えているのだろう。昨日の今日だというのに、なんの感情も読めない。
俺は食卓につきながら、思わず声に出してしまった。
「良い朝だ、ね」
声が震える。どうしてこんなに怯えてるんだ?
そんな俺に対して曖昧に微笑む宇田に、鳥肌がたった。
彼女はもう、わかっているんだ。
この先に起こる何かは、もう、宇田が握っている。
だって、なにもかもが完璧すぎる。
いろんな言い訳はできようにも、合意のもとになく襲った俺が迎えるにしては『良い朝』すぎるんだ。
美味しそうにホットサンドを頬張る宇田を見て、俺は生きた心地がしなかった。悪い予感がしてる。もういっそ、ひと思いにやってくれ。
「なにか言いたそうだね?」
自分で作ったくせに口もつけない俺に、宇田は呆れたように声をかけてきた。
「なにか言いたいのはオマエでしょ?」
「やだなー、駆け引きみたいなこと言わないでよ」
「俺はとっくに手の内を明かしてる」
「それもそれで趣がないね」
グラスを置いて、彼女はうちの新しいスキンケアシリーズのおかげで艶が増した頰に手を添えた。ふっくらと健康に見えるし、何よりぴかぴかと光っているような肌の煌めきがある。
今晩はその商品たちのお披露目パーティーだ、ドレスコードあったよね、確かピンクだったような。そんな仕事のことを考えて気を紛らわせる。
「きょうの夜、パーティーあるじゃん?」
ちょうど考えていたことだったので驚きながら、宇田の話に頷いた。すると彼女は得意の畳み掛けるように喋り出した。
「そこで発表するから、きょうは白を着ようね」
「あれ、春夏の新作だから、ドレスコードはピンクじゃなかった?」
「うん、ネクタイでもピンクにすればいいよ。スーツはわたしのほうで用意してあるよ、あとでここに届くから」
「うん、あんまり理解できてないけど」
「大丈夫、社長に任せて」
そう言って彼女は難しい相手との取引を成功させたときみたいに嬉しそうに、そしてすでに勝利を収めたかのように笑った。
「由鶴は安心していいからね」
その言葉が耳に届くと、よく飼い慣らされた俺は、急激に食欲が湧いてきたんだ。
それから数時間後。
ややフォーマル装いの俺らは、自家用車でパーティー会場に着いた。茅根や千賀とも合流する。もちろん、出会ってすぐに茅根から散々からかわれたことは特筆すべきでない。深夜の会話を明るい時間に持ち出すな。
ちなみに宅配で届いた2人分の衣装は、鞄から靴まで宇田が選び抜いたものだった。お揃いのブランド、いつかにふたりぶんの採寸がされてあったらしい。サイズはぴったりだったけど、宇田とセットの衣装なのはそれなりに恥ずかしいお年頃だ。
久しぶりに着るオフホワイトは、なんだか茅根の服を借りているような気分だ。俺には、黒のほうがしっくりくる。
宇田は白いドレスを堂々と着こなしていて、「新婦さんみたいで素敵です」という千賀のお世辞に対し「ゆづるんと合わせて新郎新婦なの」という気持ち悪い冗談をかましていた。
冗談、だよね?
ベッドでの真剣な宇田が脳裏に過って、それを搔き消すように周囲を見渡した。
パーティー会場は薄暗くて、上品ながらもDJなんかもいるおしゃれな空間だ。春を先取りしているらしく、色とりどりの花がたくさん咲いている。
それから、どういった基準で招いてるのか知らないけど、口紅を試している彼女たちがさらに華やかな空間にしているのは事実だ。
そんなゲイノウジンと並んで写真にうつる宇田や茅根は、彼女たちに勝るとも劣らない美貌だと再確認した。ちなみに宇田はここで撮られた写真が雑誌やテレビでも使われることを意識して、日々準備していた。小顔マッサージの効果は正直わからない。
それからも順調にパーティーは進み、宇田社長がステージに立つ番がきた。天使の羽のように裾をなびかせて優雅に歩く姿は、やはり生まれつきのお嬢様。しょせん彼女は、日本屈指の金持ちの家に生まれた娘だと改めて思わされる。
しかし、壇上でマイクを握れば、もうそこには若くして成功を収めた女社長の姿があった。楽しそうに愛おしそうに、新作の化粧品たちを紹介してゆく。
今期はくっきりとした3次元な顔立ちが流行る。くっきりとした目鼻立ち、顔の凹凸を化粧で作るわけだ。それによって小顔効果も強く期待できる。
そこでようやく俺は、宇田が小顔マッサージをやり込んだ理由に辿り着いた。
自信のある新商品たちをさらに魅力的に披露する、これも宇田社長の仕事のひとつだ。そんな静かな努力をする姿勢を高く評価するし、俺の前でだけその努力を見せてしまうところに優越感を覚えていた。
なんて、白い立派な柱に寄りかかったまま、茅根と並んでステージに立つ宇田をぼんやりと眺めていた。周囲からの熱視線を感じ、宇田の話に集中できなくて隣を盗み見る。
けれど、同じように壇上を見上げている茅根が何を考えているのかは、まったく判別できなかった。穏やかな笑みを浮かべているけれど、彼にとってこの顔がデフォルトだ。喜怒哀楽のぜんぶが笑顔。しかも子供の頃からこんなかんじ。
金持ちが集う社交界での大人ウケは抜群だった茅根の幼少期に脳内で小旅行していると、視線に気づいてこちらを向いた茅根がにやりと悪戯っぽく笑った
「副社長のその視線で俺らの恋人疑惑が浮上するんですよ」
わざと俺の耳元でそんなことを囁く茅根も、その疑惑に一役買っているに違いない。
「マジで勘弁して」
「サービスでキスでもしておきます?」
「誰に向けてのサービスなの」
「パフォーマンは大事でしょ?しかも、ギャップを狙って俺が攻めです」
俺が社内で2番目に苦手としているこいつは、相変わらず飄々と冗談をかます。いちおう上司の立派なスピーチの最中なのに。
まあね、その上司こそが、社内で1番苦手としている相手ですけれども。
そんなやりとりをしていると「この場を借りて、私事にはなるのですが、ささやかな発表をいたします」みたいな感じの言葉が会場に響いた。ざわめく周囲に、俺の心臓もざわざわと毛羽立つ。
発表なんて何も事前に聞かされていない。
だけど、思い当たることがないわけじゃない。
ひどく不安になってしまったこころを落ち着かせたくて、相変わらず堂々としている宇田を見上げる。
『———、—————』
だめだ、聞きなれた声の日本語が、まったく頭に入ってこない。異国の言語みたいだ、喋っているのはわかるけど内容が処理できない。
宇田の声は有色透明だ。着色料の毒々しい緑、ちょうどメロンソーダみたいな色の声をしている。
きれいに紅が引かれたくちびるの動きと合わせて、スピーカーからメロンソーダの声が流れる。しかしその音色は、脳内に言語として伝達されない。
冷静沈着なことだけが取り柄の俺が完全に取り乱しているのを見つけて、茅根は秘書らしく要約した。
「社長と婚約したんだね、おめでとう」
端的なそのせりふから事態を把握した俺は、心臓が冷たく震えるのを感じた。まるで、青い炎がぼうっと燃えたような。いや、それなら熱いか。なんだろう、これ。
「どうしよう、ぜんぶ俺のせいだ」
俺はどうしようもない後悔に押し潰されて、茅根の肩に頭を預けた。自分の両脚で立っていられない。もう、周囲の目とかどうでもいい。
そうだ。そんなの、どうでもよかった。
俺は、宇田のことだけを気にして生きてきた。
宇田の饒舌なスピーチは、いかにも幸福だと知らせてくる。それに感化されえて、まわりは歓喜と祝福の雰囲気に包まれていた。嘘だらけのそれが、さらに俺の呼吸を苦しめる。
「とりあえず、ここを出ましょう」
婚約を発表された相手とは思えないほど青ざめている俺に、茅根は混乱することもなく秘書モードに切り替えた。俺の肩を抱いて、すれ違う人に挨拶をしながらパーティー会場を抜け出した。
俺はいつでも愛想がないから、あまり挨拶を返せなくても相手は何も思わないようだ。婚約おめでとうございます!社長と副社長ってお似合いすぎます!憧れのカップルです!思いやりの言葉たちが、鈍い棘のように全身を刺してくる。
茅根、迷惑かけてごめん。千賀もごめんね、俺ちょっと体調悪いから帰りたい。
あとね、宇田、本当にごめんなさい。俺が我儘を言ったりしたからだよね。
パーティー会場になっているホテルのロビーにある喫茶店。逃げ込んだそこで注文した珈琲を飲みながら、ひとり、昨夜の失言を考えていた。
———だから、俺を置いていかないで。
———俺だけの、オマエでいてよ。
こんなこと言われたら、それは婚約でもするしかないだろう。宇田なら、する。自分の利益が少しでもあるなら、恋や愛にふらついた結婚よりも最も近しい俺との契約のほうが彼女らしい。
俺らの結婚なんて、周りの誰も驚かない。
生涯をかけた償いを、俺だけが知っている。
宇田は、俺のことが嫌いだ。
だけど、俺を決してひとりにしない。
だから、俺が欲しいと望んだら、必ず与えてくれるのだ。
宇田はどこまでも俺に優しい。
その優しさに漬け込んで、ここまでずっと隣を保ってきた。彼女ほどの賢い人間なら、俺の凶器を見透かしているはずなのに、何も気付かぬふりをしてまた甘やかすんだ。
昨夜の俺は人生で最も体温が上がっていると思った。宇田を押し倒したベッドの熱で、こころが火傷しそうな夜だった。
でも、今、さらに温度が上がっている気がする。これはきっと、怒り。
だって、自分の性格をよく考えてみれば、思ったことをうっかり口に出してしまったなんて軽率で生ぬるいものじゃない。そんな純粋でかわいげのある失言ではない。
俺は本当に、こうなるって予想していなかった?朝あんなに不安になっていたのに?
俺が弱いところを見せれば宇田が離れないでくれるとわかっていて、彼女から婚約を発表してくれることを期待していたんじゃないか。そんな打算的な失言だったのではないか。
揃えた白い衣装を着ている自分に、なぜか呼吸が浅くなる。動揺して脈が早いけど、周囲からは今日も冷徹な副社長に思われてるのかな。思われてるといいけど。
こつんこつんこつん。
よく知った靴音が聞こえて、俺は顔を上げた。足音だけで彼女を判別できる俺はどうかしているかもしれない。全世界宇田クイズがあったら間違いなく優勝できる。そんな恥さらし、参加しないけど。
向かいの席についた宇田は、「顔が青すぎるよ旦那様」と笑った。どうやら内情は見抜かれていたらしい。
「昨日言っておいたでしょ、驚きすぎだよ」
「俺ら、ほんとに婚約したの?」
「あとは、アナタが指輪をくれるだけかなあ」
「オマエは、俺と結婚、したいの?」
「こんなにずっと一緒にいるんだもん、結婚しても変わらないしむしろメリットしかないでしょ」
余裕のある笑みを浮かべて、俺の冷たい頬にそっと触れる暖かい指先。一瞬触れた指輪の金属がひんやりとして、肩が震えた。
宇田の言葉選びによって、欲しかった答えはあっさりとすり抜ける。
俺と宇田の婚約について、実家は大喜びだろう。親族からお互いの印象も良いうえに、日本屈指のグループが手を組めばもはや無敵だ。
仕事だって、夫婦となればやりやすいことも多いし、しょうもない誘いも消え失せるだろう。
宇田の言う通り、お互いがお互いの性格や気質もよく知っているから、いっしょに暮らしても揉めたりはしないかもしれない。
だから、メリットしかない?それは本当?
整理して考えたいのに、白い衣装のせいで周囲からの視線が気になる。婚約発表のための白だったことに気付かなかった俺は、どうかしていた。
みんなが祝福しているのが奇妙に思えて、まるで夢の中にいるように、自分を客観的に見下ろしていた。
最終地点にたどり着く気配のない、思考の迷路。宇田の考えは複雑すぎるから、俺には到底理解できない。
どうせ、宇田社長に手のひらで転がされるのが最も上手くいくらしい。そこには絶対的な信頼があるので、おそるおそる黙考を放棄した。
宇田は俺の飲みかけのコーヒーに手を伸ばして、こちらに視線を向けたままカップを口をつける。その仕草に色気なんて感じられず、ただ、盃を交わすかのような真剣さがあった。
うっすらと口紅の跡が残ったカップが戻ってくるけど、もう飲む気にはなれない。どうしてオマエは自分のぶんを注文しないわけ。
「ほら戻るよ、旦那様」
彼女は先に席を立って、俺が立ち上がるよりも早く会計に向かった。よくわからないけど奢ってくれるらしいから、俺はその華奢な背中を眺めて、仰せのままにゆっくり席を立つ。
たまに、宇田は女王様みたいだなと思う。お姫様じゃなくて、女王様。
でも、俺は王様って感じじゃない気がする。どちらかというと騎士みたいな。王子様は茅根が定説だし。
「仕事に戻る前に、ひとつだけ聞いてもいい?」
きらきらとシャンデリアに反射して輝くクラッチバッグを抱えた宇田の横に並び、そっとたずねる。いつもより高いヒールのせいで身長差がわずかに縮まっている。
それでもだいぶ小柄な彼女は、「どうぞ?」と同じ速度で歩きながら笑った。ヒールを履いた途端に宇田は、歩く速度が速くなるので、靴に何か仕込んであるのかもしれない。
俺はあまり言葉選びが上手じゃないから、少し考えてみたけど、ありのままの疑問をぶつけた。
「オマエって、好きな男とか、いたことあるの」
すると、ぴたっと立ち止まって、宇田は俺の顔をまじまじと見た。言葉には出さないが、本気で何言ってるのこいつ、みたいに呆れているのが目で伝わる。
でも、けっこう重要なことだ。だって、結婚したら、もう恋愛なんてできないし。ていうか、絶対にそんなのさせないし。
俺は宇田から、いろんなものを奪ってきた。そしてまた、大事なものを奪おうとしている。
こんなにも悩んでいる幼馴染に、宇田はいつもの口調で絶対的な口にした。
「誰を好きになったとしても、結婚するならハニー一択じゃん?」
彼女は魔性だ。
求めていたのと違う、余白を残した答えなのに。
力強くて、自信があって、俺を何度も虜にする。
それと同時に、俺をそっと優しく突き放す。
「宇田ってやっぱり変だよ」
「奥さんって呼んでもいいよ?」
「ほんと、勘弁して」
周囲に親密度をアピールするためするりと腰に腕を回せば、宇田は満足そうに笑った。その表情を確認して、ようやく安堵の溜息が零れる。
「ほんと、美男美女だしお似合いすぎる」
「副社長ロスだけど、宇田社長なら仕方ないよねー」
「しかも幼馴染でしょ?うらやましい」
政略結婚にはメリットばかりだ。そう、だけど。
祝福やら何やらの声をかけてくれる招待客たちに囲まれて、その幸せらしき空気の中で、俺は妙に冷静になってしまった。
—————宇田は、俺のことなんか好きにならない。
俺と宇田はずっと、同じ目標に向かい、お互いを信じてやってきた。同級生や幼馴染だなんて、甘やかな関係じゃない。自他共に認める運命共同体だ。
ところで。
ふたりの関係を結び続ける秘訣のひとつは、お互いあまり干渉しすぎないことではないだろうか。これから先ずっと共に永遠に歩み続ける運命ならば、どこかで余白を作るのは必要なことだ。
早い段階でこれから永遠を誓うだろうと悟っていた俺らは、物心ついたときから無意識のうちに、お互いに余白を残していた。
それが、恋愛だ。
俺らは何でも理解しあっているが、情報を何でも共有しあっているわけではない。俺から宇田に恋愛相談を持ち掛けるなら死んだほうがましだし、宇田から好きな男の話など持ち掛けられたら俺はその場で死ぬと思う。
元来俺は恋愛に熱をあげる類の人間ではないし、自分の話をべらべらとスピーカーのように話すわけでもない。恋人の存在に浮かれることも無ければ、失恋に泣くことも無かったのである。
そして、それは宇田も同じだった。なんなら、彼氏の雰囲気すら匂わせたことがない。おそらく男に言い寄られることもないのだろう。小柄な体躯でか弱いと判断して近づいてみようものなら、大火傷は必須の女だ。
いや、違う、いまはそんなことを思い出したいわけじゃない。
腕を回した細い腰を抱き寄せながら、考える。
宇田って、俺のことどう思っているのだろう。そして、その本音を彼女の言葉で綴られる日は来るのだろうか。
これから彼女は、必要とあらば俺への愛を語るだろう。その言葉たちはきっと、まわりの人間がうっとりするほど綺麗な彼女の真実の愛が込められているように聞こえるに違いない。
でも、宇田が多くの人が集まる場において、本音を話すことなんて、まず、あり得ない。俺だって、そこらの女優を圧倒的に超えている宇田の演技に騙されていればいいものを、それをするには過ごした時間が長すぎる。
だけど、踏み込むにはまだ短いのだ。また、宇田の本音に傷つけられない自信もない。
「俺って、宇田に気を遣いすぎかな」
「毎日わたしに暴言吐いてるの忘れた?」
思わずひとりごとを言っていたらしい。しかも小さい声量のおかげで周りは気付いていないが、すぐ隣で歩く宇田には聞こえてしまったらしい。よかった、本人の耳に直接届いたから、陰口にならずに済む。
ばっちり視線が絡んでしまい、俺はいたずらを誤魔化す子どものように瞬きをして見せた。
それから、自分よりずっと年上の金持ちや年下のモデルと挨拶を交わしながら、欠伸を我慢していた。俺なんかに媚びてくる人間は多いけれど、媚びているのを隠している大人は特に気味が悪くて嫌だ。
「新作のグロス、すごく良くてヘビロテしそう」
「とてもお似合いです、肌が白いのでブルーのお色味が映えますね」
綺麗な容姿の女性というのは、この世界において大量生産されているようだ。新商品を試した招待客を丁寧に褒めながら思う。
とはいえ、俺だって無個性な人間のひとりだ。個性といって思いつくのはやや身長が高いことと実家が金持ちなこと、でもそれはどちらも両親のおかげに違いない。
「深月さんって本当にお美しいですよねえ、欠点とか無いんですか?」
「どうでしょうね」
質問にはなるべく短く答える。長所も短所もないようなところが欠点な俺は、それを上手に答える話術を持たないことが最大の欠点だ。
ゆるく微笑んで、その場を立ち去る。宇田と茅根を撒くときに使う技だから、忙しいふりをするのは得意だ。
でも、二歩も進めばまた声をかけられる。また同じような容姿の美女、美女、美女。
美女との会話は、決して対等にはならない。
「深月さん、もっとコスメのお話したいので、お食事でもどうですか?」
「宇田も誘って、是非」
向こうが俺に媚びているようで、けっきょく俺が折れるしか会話は成立しない。美女はたいてい気が強いしプライドが高いし、扱いにくい。
宇田だから許しているというだけで、俺はそういう女がすこぶる苦手だ。宇田って、まさにそういう女だけど。
接待という仕事はあんまり好きではないが、これも好きな仕事をするためには必要な仕事なのだから複雑だ。
社交性ってどこで得られるスキルなわけ?生まれつきかな。だって、育ってきた環境は宇田と変わらないはずだもん。
「そろそろ帰る?」
人混み、というか人間そのものが苦手な俺に再会した宇田は頃合いを見て、脱出を促してくれる。もちろん、迷わず頷いた。
いつもより早いけど、宇田が言うのだから今がベストなタイミングなのだろうし、俺の疲労は限界だった。
みんなに挨拶を終えた宇田社長は、華奢な肩をぐりぐりと乱暴に回しながら俺が運転席に着くよりも早く後部座席に乗りこんだ。
俺もあとに続いてシートベルトを締めながら、後ろでピンヒールを脱いだ足を椅子にのせたのをバックミラー越しに確認する。ああ、こういう些細なところに苛立つ。
それにしても、パーティーにはリムジンってどこかの誰かが決めてくれたはずなのに、俺は自家用車を運転している。あした時間できたら洗車にいこうと決めた俺は、副社長の器ではないかもしれない。執事、あるいはタクシードライバー。
「新作の反応、けっこう良かったよねー」
俺が車のエンジンをかけると、宇田が喋り出した。なぜだかいつもリンクしている。
俺の婚約者はご機嫌で、独り言のボリュームが調整できていない。気味が悪いのは、相変わらず。
俺は無言で頷いて、アクセルを踏む。立派な車も入るような広々とした駐車場のため、ふつうの国産車を運転するのは容易い。
そろそろ良い車買おうかな、と考える。でもこのサイズが便利だし、家族も荷物も多くないし。貧乏性ということは決してないけれど、散財することに快感を得る浪費家でもない。
何にも興味を持たない自分は、流行りの音楽をBGMに選んだ。歌詞をひとつひとつ理解するというよりも、歌詞の音のリズムを楽しむのが宇田の聴き方。俺は無音のほうが好き。
「ねえ、ハニー!きいてるー?」
「ごめん、聞いてない」
「ひどいなあ、もう一回そのまま喋ろうか?」
「興味ないからいいよ」
独り言じゃなかったのか、と思いつつ、まだ会場に残って仕事をしている秘書のことを考える。
あのふたり、いつ買い物とかしているのだろう。多忙を極めているだろうに、いつも小綺麗にしていて立派な社会人だ。
無理矢理にでも休ませてあげないと、真面目な秘書たちは過労死してしまいそう。宇田や俺は仕事くらいしか趣味もないからいいけど、せめて千賀は女性だし。次に少し空きができるのは、おそらく来週の後半あたりかな。
「ねえ、わたしたちいつ籍入れる?」
助手席のほうに身を乗り出した裸足の宇田が、俺のすぐ横に顔を寄せてうきうきした声音で聞いてきた。黙っているのも話を聞いていないのも気にしないくせに、俺が他の誰かを思い浮かべるのは気に食わない女王様。
その独占欲に嬉しくなって、「オマエの誕生日かな」と答えると、宇田ははしゃぐように同意した。
本当に、宇田と結婚することになるとは思わなかった。
いや、思っていたような気もする。いつかはどうせ宇田と結婚するんだろうなって。
「わたし、いつもハニーに無理させてるよねえ」
後部座席の背もたれに戻って窓の外を眺めはじめた宇田が、そっと問う。夜の景色は流れていく。車内の空気をそのまま運ぶ。
「別に」
当然、気の利いたことなど言えない俺は、深く傷つけないように短い言葉を選んだ。別に、無理なんてしていない。
会社を立ち上げたのも、毎日仕事に追われているのも、オマエを乗せて運転するのも、結婚するのも、ぜんぶ俺が希望したことだ。
宇田が望むことは、すべて、そのまま俺の意思になる。
「いつか女子高生にプロポーズする予定は無かった?」
「まったくないけど、なんなのそれ」
「スーツのハイスペックイケメンが、平凡な女子高生にいきなり言い寄ってくる少女漫画は多いんだよ」
「それは法的に大丈夫なやつ?」
本質の表面を撫でるような、生産性のない会話。
青いイルミネーションに照らされた道路を走る。俺は興味ないけど、窓を開けた宇田は嬉しそうに「冬の醍醐味だねえ!」とはしゃいだ。寒いから閉めろ、と俺は言う。
「わたし、お嬢様だからさあ、」
バックミラー越しに窓を閉めたのを確認していると、そうした俺に視線を合わせた宇田がさっきと変わらない声音で話し出した。
「ゆづるんに甘やかされると、どんどん我儘を言いたくなっちゃうのよね」
「ん?」
「あのね、わたしをいちばんに優先させてくれなきゃ嫌だし、わたし以外のことに興味も持たないでほしいし、わたしから離れたら許さない」
絶妙に冗談と本音を絡ませたそれは、妙に甘美だった。どれだけの形式的な賛辞を浴びても枯渇していた承認欲求が、ゆっくりと満たされていくのを感じる。
たったひとりの、ハートマークが欲しかった。俺の感情は、幼少から成長できていないらしい。
「はやく、わたしだけのものになってよ」
どろりと流し込まれたのは、黒く淀んだ独占欲。清らかな宇田の中には、昔から黒が沈殿していた。
ずっと、こうして気の狂いそうな距離感を保っている。これを依存の沼だと呼ぶのなら、もう抜け出すなんてできないから、一生溺れたままでいい。
「俺は、とっくにオマエだけのものだよ」
あまり重たくならないように、ハンドルを右に切りながら言葉を返す。
これ告げるのは初めてではない。宇田の情緒が不安定になるたびに、何度も声にして伝えてきた。
本音を孕んだそれは、汚い部分を隠してくれる。まるで、そこには自分の意思がないように聞こえてくれる。
宇田を最優先にさせているのも、他に興味がわかないのも、ただそばに居続けるのも、ぜんぶ俺が勝手に望んでしていることだ。宇田のためなんかじゃない。
だって、首輪をつけてくれるなら俺はオマエの犬になってもいい。そのかわり、責任持って、餌を与えて、飼い慣らして、愛してほしい。
俺、いい子にするから。
俺がいい子にしている限り、宇田は俺を捨てないだろう。そのことを知っていたくせに、また俺は宇田から自由を奪った。
宇田が誰かと結婚しても構わないと豪語していた過去の俺は、ただの強がりだと今なら思える。
宇田が誰か他の男と誓いのキスをするのが嫌だとか、子供を産むのが嫌だとか、そういった可愛げのある嫉妬ではない。
俺以外の誰かを、たったひとりの特別な存在として選ぶのが嫌だ。俺ではない男と生涯を誓い合うという、結婚そのものを受け入れられない。
「宇田と結婚するのは、本望だから」
相変わらず温度の無い声に言葉を乗せると、宇田は困ったように笑った。それは高校生の時に見たものと変わらなくて、どうしようもなく切ない。
いつも自信たっぷりで堂々としている宇田凛子が、困ったように笑う、という表情の振り幅に俺は弱い。惑わされる。
そんな優しい宇田は、困った飼い犬のせいで、好きな男と結婚することもできない。
でも、お利口でずる賢い俺は、好きな奴と結婚しなよ、だなんて言うつもりはない。好きな人に幸せになってほしいだなんて、あまりにも綺麗事がすぎる。
かわいそうだけど、諦めろよ。
諦めて、俺のところまで堕ちてくれ。
イルミネーションの光がなくなった細い道だけど、東京の夜はどこもかしこも明るくて眩しい。夜の終わりを知らないのか、知らせないのか、知らないふりがしたいのか。
「わたし、由鶴のことなんでも知ってるよ」
「だろうね」
「でも、ゆづはわたしのことを何も知らない」
宇田はいつも、少しだけ先を歩いている。
ふたりが向き合うことなどめったになくて、ただ、俺だけが後ろから、ずっと静かに見つめていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます