第5話 低温火傷につき、



壁に掛けられている時計を見れば、12時を回っている。



もう、俺は風呂にも入った。いまは宇田が入浴中だ、今日も長い。しんでるのかな、わくわく。



宇田が帰宅早々に作ってくれたおつまみメシは相変わらず美味しかったし、相変わらず俺は「まずい」とコメントした。代り映えのしない日常。



ちなみに、さっき寄ったスーパーでは、財布を取り出していた宇田を制したら、しっかり争いにもなった。


内容はこんなかんじ。


「由鶴に車出してもらってるし、ここはわたしが払うよ!」


「いいって、帰ったら料理するのオマエなんだから」


「それくらいは、由鶴の家に泊めてもらうわけだから当然だよ!」


「いや、なんで泊まるの決定事項なの」


「いまからお酒のむでしょ?!」


「タクシー使いなよまじで」


「それなら最初から呼び出してないよ!」



もちろん、語尾強いほうが宇田だ。わかっていると思うけど念のため。俺は喋りに抑揚がないことで定評のある男だよ。


そしてこの結果として、俺らは割り勘で支払った。こうなったら、きっちりと一円単位で割り切るのが俺たちだ。





それにしても、あいつほんと風呂ながい。自分の家でもないのに、1時間は超えている。女のひとってみんなそうなの?え、てか宇田って女のひとなの?違うよね。


心の中で陰口を叩いていたこと、気付かれたのかもしれない。タイミングよくがちゃりとドアが開いて、今日も生きたままの宇田が帰還した。


俺のTシャツを際どい丈で着ているそいつが、どういう神経をしているのか知りたい。




「お風呂あがったよ、入浴剤サイコーだった、ありがとう」



「ふうん、貰い物だけど」




長い髪をタオルで器用にまとめた宇田がほかほかの湯気をまとって、俺のすぐ隣に腰掛ける。このふかふかのソファには座ると立ち上がれなくなる依存性があって、朝は禁止しているほどだ。


そして、近距離におかれた宇田の首筋、生々しい白さに火照った赤み。俺のTシャツをオーバーサイズで着ているせいで見えるその項に、あっけなく視線を持っていかれた。



じわり、浮かんできた欲は。




「オマエ、つかれてるの」



会った時点で、こいつは珍しく疲弊していた。だから俺は、宇田が気に入ってるブランドの中でも、最も好んでいる香りの洒落た入浴剤を入れておいたんだ。もちろん貰い物なんかではなく、ネットであるだけ買い占めた。




「うん、ちょっとね、でももう大丈夫だよ」


「何があったの」


「だから、いくつもの会社から由鶴へのプロポーズがすごくて、」




誤魔化されてあげないといけない。わかっている。

だけどどうしても、宇田が俺に対してへたくそな隠し事をするなんて、気味が悪いし気分が悪い。


俺は無防備な首筋をなぞって、宇田の適当にはぐらかすような言葉たちを遮った。



びくっと身体を震わせた彼女は、俺の真意を探るように上目遣いに射抜いてくる。




宇田が俺に隠すことなんて、俺に関することしかありえない。

それを俺に言えずに疲弊しているなんて、気にならないわけがない。



悪い予感に震えた俺は、そっと宇田の頬に手を伸ばそうとした。


でも、その指先がそこに触れることは叶わなず。



「っ、」



いつになく驚いた様子で、彼女が俺の手を振り払った。



「どうして拒否するの」



俺は複雑に絡み合う負の感情に揉まれて、もう、理性なんてどこにもなかった。


だって、宇田が俺から触れられるのを拒むなんて、初めてのことだ。



べつに、邪念から伸ばした手ではなかった。ただ、無意識に近い領域で、その温度に触れたくて。



「ぜんぶ、話して」


「い、やだ、ごめん、」



頑なに、口を割らない宇田に腹が立つのを通り越して精神がおかしくなりそうだ。


せめて、隠すならじょうずに隠してほしい。そんな、あからさまに、自分が何か悩んでいるのを見せつけるなら、何に悩んでいるのか教えてほしい。

俺には、宇田の、こういう面倒な人間らしさが理解できない。それが悔しいし、もどかしい。




「俺、わからないよ、言ってくれなきゃ」


「それなら、わからないままでいればいいよ」




躊躇なくTシャツの中に手を突っ込んで片手で下着のホックを外せば、宇田は驚いたように瞬きをした。



「宇田の身体は俺のものになったはずだったと思うのだけど、違う?」


「ゆづ、」



薄く嘲笑を浮かべる俺を、宇田が怯える小動物のように見上げる。庇護欲がそそられて、蓄積させてきた濁った欲情がこみあげてくる。


なんだか、もう、ぜんぶがどうでもよくなった。




「俺のこと嫌いになったの?」


「そ、んなわけないでしょ、」



たぶん、いっそのこと、嫌われたほうがいい。そうして、俺のことを突き放して、もう二度と顔なんか見せなければいい。


そろそろ、崩壊が近いことに気付いていた。俺が気付くのだから、宇田なんてとっくに感じていたはずだ。


オマエは、俺の依存から逃げたほうがいい。

それに俺も、オマエから解放されたほうがいい。



感情はいつになく熱を帯びで沸騰しているはずなのに、いつにも増して冷たい声しか出なかった。



「好きな人でも、できたの?」



なにげなく自分で声に出した言葉が、耳に届くと脳が理解して。

心臓が、悪い音で震えた。

宇田は、俺を嫌いになれない。俺のことを心から拒絶するなんて、起こり得ない。


でも、だれか好きな男ができて。

そいつ以外の男に触れてほしくないと感じるのは、当然有り得ることだった。



そして、その好きな男は、俺じゃない。



「ち、がうよ、ゆず、」



だめだ、頭の中に宇田の声が響かない。


だって、何を言われても嫌いになんかなれないから。


もし、宇田が他の意中の男に抱かれていたとしても、俺は宇田のことしか見えない愚かな男のままだ。



こうやって、何度傷つけられても、俺は宇田のことだけを欲してしまう。

ほんとうに、どうしようもない。不毛な初恋は、朽ちた姿のままで存在し続けていた。




「由鶴、話を聞いてよ」


「俺の手を振り払った理由の男の話でもするの?」


「なに言って、」


「勘弁してよ、オマエから拒絶されて、俺が傷つかないとでも思ってる?」


「ゆづ、」



俺に会話の主導権を握らせた宇田を見るのは久しいことで、なんだか、宇田のハジメテを奪ったあの放課後を思い出させた。




「オマエの事情なんてどうでもいいから、俺にも抱かせてよ」




自分の口から溢れる言葉は冷徹で、きっと表情も無く。指先だけがわずかに震えていた。




———宇田と俺は、ただの幼馴染には、もうなれない。



セフレのような割り切った肉体関係に堕ちることもできず、そのくせ、お互いの内側の熱まで知っている。


恋のような刹那的なときめきも、愛のように永劫的なきらめきも持ち合わせていない。


俺らの関係性を示すのには、どうしたって、言葉足らずだ。

変化していく環境で、成長で、年月で、ふたりという単位だけがすべてだった。



この関係の不健全さを頭では理解していた俺は、ひとつだけ線引きをしてきた。




宇田凛子を、俺の寝室には踏み込ませないこと。




それは、これまでずっと守られてきたその掟が、いとも簡単に破られる瞬間だった。



俺の腕に抱かれて初めて入った寝室には、宇田もさすがに驚いていた。


その表情を見下ろしたまま、少しだけ強くベッドに押し倒す。深い色をした布は、宇田の華奢な身体を柔らかく受け止めるのを知っていた。



ここにいるはずのない彼女が、俺に押し倒されている。現実味がなくて、妙に冷静に見つめてしまう。



Tシャツの裾を捲りあげると、白い肌が映える淡い色の下着が見えて、暴力的に色っぽい。常時ダイエットしているからだは官能的な肉付きとは程遠いが、その少し力を加えたら壊れてしまいそうな華奢なつくりが、加虐性を刺激する。

正直、宇田の容姿の美醜なんて俺にはわからない。腕、脚、腹、どの部分も、宇田という人間の一部というだけで欲しくてたまらないから、正常な判断なんてできない。


その欲求を誘うものが“うつくしい”のだというのなら、俺の世界で“うつくしい”のは宇田だけってことになる。



自分だけのものにしたい。穢したい。染めたい。なんとか平衡感覚を保っていた思考回路が、ちりちりと焼き切れていく。




「俺だけの、オマエでいてよ」




つー。冷たい指先で、宇田の腹をなぞる。それだけの動きにも宇田がぴくんと反応するのを見て、俺はひとりで小さく呟いた。



もとから、俺のものなんかじゃなかったのか。



それから、下着の上から指で触れた。そこがすでに熱く湿っていることを知ったら、理性なんてもう意味を持たない。


性急な手つきで身に着けていたものをすべて脱がせた。この行為が合意のもとであるとは言い切れなくて、むしろ、抵抗できない宇田を襲っている最低な男でしかない。



「っあ、だめ、」



くちゅり、たっぷり体液を絡みつくナカに指を差し込むと、宇田は甘ったるい声で拒否を口にした。


いやいやと首を横に振るその仕草さえも、俺を興奮させる毒となっている。彼女のくちびるに自分のそれを重ねてしまえば、拒絶の言葉を聞かなくて済む。



はやく、俺のところまで、堕ちてきてほしい。

後頭部に手を差し込んで熱い舌どうしを絡めれば、弱い抵抗もやめて、従順にキスに応えていく。激しい水音で、耳から犯される。



それでも全然満たされない。もっと、ほしい。ぜんぶ。



挿入れてもいい?」


「だめって言ったら、やめるの?」

「っ、煽るな」



言うや否や、ベッドの小棚に新品のまま仕舞われていた避妊具を開封する。すでに角度を持ったそれに手早く装着して、だいぶ解された熱い場所に擦り付けた。


もうすっかり甘くふやけていたので容赦なく奥まで差し込むと、宇田はか弱く鳴いた。



宇田とひとつになって繋がっているという状況に、性懲りもなく興奮する。あまりのきもちよさに、全身が痺れる。


大きすぎる快感を逃がすように熱い息を吐いて、俺は探るように腰を振った。



宇田は俺の首に腕を回して、しがみついている。その媚びるような仕草に、ついさっき、拒絶されたことを思い出してしまって、俺はさらに行為を激しくした。



恥ずかしそうに、でも我慢できずに快感に流される宇田。いつもの隙のない完璧な立ち振る舞いからは想像つかないその表情を、俺は誰にも見せたくない。


いや、どんな宇田の表情も、俺だけが知っていればいい。



俺の手によって快楽に溺れる宇田は、俺に溺れていると勘違いさせる。



「っあ、やめ、」


「ここ、すき?」


「っだめ、そこ、あ、」



宇田が一際大きく反応する場所を見つけて、そこを重点的に擦りながら、駆け上がるように快感を高まらせていく。


激しい行為にじんわり汗が滲んで、お互いの肌が吸い付くようにしっとりしている。



そのまま上り詰めるように、ふたり同時に果てた。

頭がおかしくなるほどの快感が弾けて、冷静になる。








「由鶴、よく聞いて」




外したゴムを捨てて、そのままベッドに寝転んだ俺に、隣の宇田は情事の後とは思えないような醒めた表情をしていた。



聞くな、と鋭い勘が教えてくれる。


聞きたくない話をしそうな女を、キスで口を塞ぐのは常套手段。

でも、今回はそんなことしてはいけないような、まるで仕事中のような空気が真剣に尖っている。



「なに、こわいよ」



何も身に着けていないままなのにまったく恥ずかしがることもなく、スイッチが入った状態の宇田。なんだかこちらが恥ずかしくなって、布団をかけた。



化粧がないせいでいつもより幾らか幼い、それでもすっかり見慣れた顔。大きな瞳が強い意志で煌めいていて、まったく穢せなかったことを知る。


さっきまでどろどろに抱き合っていたことが嘘みたいに、同じシーツに横たわる彼女は清らかだ。目が、眩む。



俺が動けないのは、激しい行為の甘い疲労なんかのせいじゃない。


完全に、宇田凛子のペースに飲み込まれていた。


そんな俺を誑かすように、宇田は俺の頬に手を添えて、あまく言い聞かせるように囁いた。





「わたしたち、政略結婚しようか」




俺らの関係がこんなにも歪んでいるのは、ぜんぶ、俺のせいだ。





———はるか昔の俺が、軽率に、宇田に惚れてしまったのがわるい。



—————ごめん。



甘く蒸された情事後の寝室に響くのは、ゆるやかな寝息に被せられた抜け殻のような謝罪。情けなく震える自分の声は、なみだを流せずに泣いていた。



気絶したようにぐっすりと眠る無防備な宇田を、抱きしめる権利はいくらで買えるのだろう。


手酷く犯した後でもいまだ気を許されている安らかな寝顔に、少しだけ平穏が訪れる。



いま、ちょうど、夜と朝の縫い目にいる。大人も眠りにつく時間、無意味な夜更かしは精神衛生上よろしくない。


夜の強すぎる引力に吸い込まれてしまうまえに、ほら、早く眠っておけよ。同じ空間にいる宇田は、持ち前の図太さで夜にも圧勝。質のよさそうな睡眠が羨ましい。



ほぼ同じ時間を共有して育ってきたのに、どうしてこんなにも違うのか。


俺が眠った隙に逃げてしまいそうな幼馴染を目の前にして、眠りに落ちることが怖い。次に目を開けた時、宇田が消えていたら、どうしたらいいの。俺は不安な不眠症。



結局、相手を信頼できないのは俺のほうだ。



眠るのが苦手な自分は、ずっと、宇田がいないと眠れなかった。


それを知った宇田が、頻繁に泊まっていくようになったのは、もうずいぶん前のことだ。

それから俺は、寝不足を見せると心配してくれるのが嬉しくて、さらに宇田がいない夜は眠りにつかないようになっていった。子どものような、浅はかな気の引き方をしている。


だけど、いとも簡単に宇田の夜を束縛できると気付いてしまえば、その手段を悪用してしまう。俺の精神年齢は、宇田のことになると幼児レベルなのだから仕方ない。


歪んでいても、拗れていても、俺が宇田を見つめるこころはずっと純真な子どものままだ。愛を語るには言葉足らずだから口を閉ざして、沈黙を美徳とした大人のふりをしている。



だけど純真は、時として残酷な凶器を持っていた。その凶器が振りかざされたとき、崩壊が音を鳴らすらしい。



静かな夜。脳内では警告音が鳴りやまない。



いよいよ、隣に宇田がいても眠れなくなってしまった。宇田が“いる”ということは、宇田が“いなくなる”ということ。


目を覚ましたときに宇田がいなくなっていたら、などと考えて、もう、闇に飲み込まれている。




依存、だ。



将来が有望で、無限の可能性を背負っているこの女。その重荷にだけはならないようにしてきたつもりだけど、とうとう俺はこいつの邪魔になりそうな気がする。


でも、どうしたらいい?物心ついたときから俺の思考は宇田を中心にしか動かないから、宇田から離れることなんて、文字通り、考えられない。想像もできないのだ。


ほんとうは、俺だけの宇田凛子でいてほしかった。

俺とふたりだけの世界に閉じ込めておきたかった。




俺と宇田は、若くして成功を収めたエリート起業家なんて称えられることも多いが、単純に言えば、生まれたときからツイていた。



金と権力を持った状態で起業するというのは、かなりのリードをしている。でも、経営者となった今ならそれがわかるけど、まわりにお金が溢れている生活をしてきた俺らは、当初はきちんと理解できていなかった。



世界は金と権力と嘘と見栄と価値と、そんなふわふわしたもので形成されている。



親同士もある種のライバルとありながらも幼少期からの友人として仲が良い。いや、親戚一同そういった関係だ。


日本随一の英才教育を受けることができる学校に幼稚舎からぶち込まれてるのは、俺らだけでなく、親も祖父母も同じだ。そしてみんな、その狭い学校という世界の中で結婚した。



俺らの同級生も、ほとんどがそう。人格が形成されるおよそ20年間をひどく快適で不自由なその空間に閉じ込められる。温室育ちの俺らは、その世界から出ては生きてゆけない。


でも、俺と宇田は、中等部に入学したときから、この世界を広げる術を考察してきた。このふわふわだけの世界から抜け出すのはきっと無理だ。だからせめて、ふたりで世界を広げていく。



そして、ふたりで起業すると両親に話した宇田が20歳を迎えた誕生日。互いの親を4人集めたので、彼らは「いよいよ結婚かなって話してたのに」と笑った。




面倒臭えな、と無視を決め込んだ俺とは違って、宇田は「そのお話は、また後ほど」と冗談を返した。俺が身に着けるべきだった社交性は、日々、彼女に吸収されているに違いない。



時間帯のせいか、いろんなことを考えてしまう。妙に頭が冴えていた。



さいきん、周囲の人間が結婚式を挙げることが多くなった。いや、数年前からその傾向はあったけど、自分がそれを意識するようになってきたみたいだ。



20代半ばの会社のことで精一杯だった頃は、結婚なんて遠くの話だと思っていた。だけど、そろそろ決める頃なのかもしれない。




俺はこのまま宇田と結婚するのだろうか。

それとも、お互いに他の誰かを選ぶのだろうか。



宇田とは結婚なんてしなくても、どうせ生涯を共にする運命共同体。だったら、他の、邪魔にならない小綺麗な女を見繕ってしまえばいい。




俺は、そう考えて、数人の女性と交際をしてきた。


そして、邪魔にならない女なんていないと知ったのだ。


「仕事と私、どっちが大事なの?」という何万回も使い古された質問。「オマエが大事に決まってるよ、でも、仕事に励む俺ごと愛してほしいな」そんな適当なことを言う俺は、悪くない恋人だと思う。


でも、そうやってなるべく俺に干渉されないように甘やかしていると、彼女たちは絶対に踏み込んでくる。



「宇田さんと仕事だけの関係じゃないよね?」「わたしより宇田さんを優先してるでしょう?」「ほんとうはわたしじゃなくて宇田さんが好きなんじゃないの?」


どんな場面であっても、こんな禁句が飛び出てきたら、俺はなるべく柔らかい言葉を選んで別れを告げる。ぜんぶが、醒める。




俺にとって、宇田凛子は聖域だ。誰にも汚されたくないし、そのことを誰にも知られたくない。


自分でさえも手袋をはめないと触れられないような、大切な場所。




———じー、じー、じー。



情事の匂いも残っていない静かだった部屋に、バイブ音が響いた。


こんな時間に?と首を傾げながら、サイドテーブルに置かれた自分のスマホに手を伸ばす。プライベートの連絡だけを受信するそれが、夜中に震えるのは珍しい。


宇田はぐっすりと眠りについていて、神経質な俺と違って、多少の物音では起きない図太さがうかがえた。それに、やっぱり疲れているんだろうな。



俺の布団をかけて眠る宇田に奇妙な気持ちになりながら確認したメッセージは、茅根からだった。こいつ、まさかこの時間まで働いてないよね?




『夜遅くにごめんね、起きてたら電話して』




敬語を使っていないことから伝わる、プライベートな件について。というか、そんな推理がなくてもどうせ宇田のことだろ。今日の宇田は明らかにおかしかった。



オマエと話すことなんかないんですけど。そう思って知らぬふりを決め込もうとしたら、すぐに『既読つけましたねー』というメッセージが追加されて、しぶしぶベッドを降りた。




窓を開けるには風が強すぎるから、ベランダは却下。暗闇でも意外に歩ける慣れ親しんだ我が家を進み、脱衣所に着いてから電話をかけた。




『やほ、電話ありがとう、こんな時間にごめんね』


「もう切っていい?」



電話越しでも甘ったるく聞こえる声に体が重たくなって、洗面台の前に置かれた簡易的な椅子に腰かけた。こんなの宇田以外に使う人はいないと思ってたけど、なんだ、需要あったのね。初めて座った。



『あれれ、御機嫌斜めですか副社長』


「減給ね」


『パワハラだなあもうほんと』



機械越しに向こうの状況が拾える音を探したけれど、茅根のため息しか聞こえない。ふつうに、自宅でひとり起きているのだろうか。そして、ため息を吐きたいのはこちらのほうだ。


「なんでこんな時間なの」


『副社長、お忙しいから深夜しか空いてないかなって』


「お忙しいので、電話に出ることはできません」


『まあまあ、たまには親友同士で話そうぜ!俺らマイメンじゃん、さいきん調子どう?』


「深夜ノリやめて」



わざわざ宇田が眠った時間を突いてきたのでシリアスな会話になるかと想定していたが、茅根は普段と変わらない様子だった。


いや、2オクターブぶんテンションが高くてだるい。掴み所のない男だ。



「で、早く寝たいんだけど」



洗面台の鏡に感情のない自分の顔を映しながら、要件を急かす。毎日顔を合わせている部下とわざわざ長電話なんてしたくない。マイメンではないので。


汗はひいてるものの、情事の名残でどことなく色香を纏う自分は、綺麗というより無機質だ。整っていると称される容姿にはどこかに狂気すら感じる。




『宇田社長、元気?』


「ふつう」


『そっか、それなら問題ないんだけど』


「なにが」




いろんな情報が頭に残って、外に出ていかない。いつだって俺は、宇田のことになると要領が悪い。そのせいで茅根の言いたいことも、うまく噛み砕けない。



『いや、由鶴くんだいじょうぶかなって』


「は?」


『宇田社長、由鶴くんとのことで悩んでいたから』



そして俺はそんな拗らせたふたりを心配してるから、電話しちゃったってわけですよ。そう付け加えられた声からは、ほんとうに案じているのが伝わった。



その声は、なんていうか、学生時代から変わらない茅根咲という柔らかい男のもので。



「宇田と寝ちゃった」


『げ、明日も会うのにそんな話する?』


「聞きたがったのオマエだろ」



無意識に落としてしまった言葉の責任を、へたくそに擦り付けた。電波の先でくすくすと笑っているそれにも、包容力がある。


茅根特有の甘ったるくて毒のある喋り方がなぜか心地よい。俺は、この重たい秘密をだれかと共有したかったのかもしれない。




『むしろ、今までなかったのが不思議だけど』


「理性が鉄なので」


『宇田さん、よく泊ってるんでしょ?』


「寝室には入れないようにしてるの」


『うわ、まじで鉄じゃん。そういえば、こないだ社長から、酔ったふりして由鶴を誘ったけどしっかり撃沈したって聞いたよ』



会話の延長でさらりと爆弾紛いの言葉を落としていく、これは茅根の必殺奥義だ。ていうか、まって?酔ったふりだったの?俺、すっかり信じてたのに。ほんと、宇田ってこわい。


しゅんとしながら、つい、茅根には話してしまう。



「さ、そわれてはないけど、」


『由鶴くん、その美貌で鈍感とかつまんないからやめてよ?』


「いや、うっかりキスしちゃってすごく焦った」


『~~~はあ?!ピュアなの?!?!』



そうだよ、超ピュアだよ。初恋を引き摺ったまま大人になって、それでも離れられずにずっとそばで飼い慣らされてるの。滑稽なほどに純粋でしょう。


宇田さえいればよくて、宇田の言うことが絶対で、宇田こそが俺の正義。キスだけでどきどきする俺のことなんて、笑えばいいよ。



俺と宇田は、完全なる親友なんかじゃない。もっと歪んでいて、奇妙で、脆い関係だ。


俺らが仕事だけの関係なわけがない。だから、以前の恋人が言っていたことは正しいし、女性というのは相変わらず鋭い。


急に黙ってしまった俺を察してくれたのか、茅根がひとりで会話を繋げた。



『とりあえず、由鶴くんは、社長に手のひらで転がされてるといいよ』


「なにそれ」


『そうしたら、きっと、ぜんぶ上手くいくから』



こういう瞬間に、茅根は親友かもしれないって柄にもないことを考える。


だって、くやしいけど、俺も同じように信じてるからね。

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