第4話 低温火傷につき、

あの大雪の日から何日か経ったが、世間でいうクリスマスさえもしっかり仕事をして気付けば夜中になってしまったため、ここに特筆すべきことは何もない。ただひたすら働いているだけだ。


クリスマスコフレとは、そういう大人が作っている。



誰しもそうだと思うが、師走というのはすごく忙しい。さらに忙しいときは必ず誰かがミスをしてしまうので、それをカバーするという仕事がまた新たに加わる。会社に寝泊まりして3日目にもなると、身体に負担がかかっているのを感じる。こういうとき、ああ、30代が近いなと思う。



だけど、伸びっぱなしの髭も、キーボードを叩きすぎて痙攣しそうな指先も、カフェインで覚ました頭も、俺は正直に言うと嫌いじゃない。これだから、仕事人間だと他人から揶揄されるのか。



宇田はよその人間と接触する仕事がほとんどであるため、きちん身なりを整えている。俺のことを言えない、あいつこそ完璧主義者だ。毎日きちんと帰宅しているということは、おそらく休息をとれていない。


彼女こそ疲弊しているのではないかと心配に似た感情を覚えたけど、それはすぐ消えた。



あの宇宙人みたいな女が、仕事疲れで倒れることなんてありえない。そんな可愛げや人間味のある奴なら、起業して社長なんてやらないだろうし。何より、それは宇田じゃない。


きっと、年始の休みでぶっ倒れるのだろう。高熱のまま実家の新年会で得意なバイオリンなんかを弾いて、完成された宇田凛子を演じる。毎年おきまりの流れだ。




「副社長、お疲れさまです」




何十時間もぶっ通しでやっていた仕事がひと段落して一息ついたところの俺に、秘書の千賀が淹れてくれたハーブティーを丁寧に置いて、声をかけてきた。



「ありがとう、千賀もお疲れ」


「いえ、私は社長や副社長に比べたら全然、」



などと謙遜するが、いつも掛けていない眼鏡を身につける彼女も、相当な疲れを感じているのだろう。だからどうしてあげるってわけじゃないけど、労いの言葉くらいかけるよ、俺は大人だ。



決して敬えそうにはないが、俺にとって宇田は永遠の上司だ。それと同じように、多くの社員たちにとって俺は彼らの上司として務めならければならない。


茅根のように柔らかい言葉をかけることはできなくても、彼らが仕事をするにあたっての少しの不満だって解消してあげたいと思う。それは雇っている身として当然のことだ。



だから、このあと千賀がひどく申し訳なさそうに声をかけたとき、俺は上司として承諾したわけだ。




「明日の忘年会、宇田社長が参加できないので、副社長だけでも参加していただけます、か?」


他人と明確に距離を置く俺にこれを申し立てたのは、相当緊張したと思う。だって、飲み会とか全然好きになれないし、公言こそしていない(はずだ)がおそらく周知の事実で、俺は人嫌いだ。



「俺がいくと、みんなが余計な気を使うんじゃないの」



こういうのは上司がいない方が、特に俺のような話しかけにくく冷たい男副社長はいない方が良いのではないか。そう思って、たずねる。



「いや、社員たちはみんな、副社長に来ていただきたいみたいで、」


「なにそれ、支払いなら俺で領収書切ってもいいけど?」


「そういうことではないです!ほんとうに、みんな、副社長との交流を願っているのだと思います」



ふうん、と無機質な相槌を打てば、俺が機嫌を損ねていないか不安そうにこちらを伺う秘書がいた。



あのね、言っておくけど俺、別に短気とかじゃないからね。いつも不機嫌ではあるけど、滅多に苛立つこともないから。宇田には会うたび苛立つけど、あれはあいつが悪い。


でも、そんな宇田が行けないのならば、俺が行くべきなのかもしれない。そうやって会社全体の交流を思いやるべきなのかもしれない。



珍しくそんな人間味のあることを思った俺は、「明日ね、いいよ」と承諾したわけだ。

これも仕事のうち、と言い聞かせて。



「ありがとうございます、社員たちも喜ぶと思います」


「だといいけど」



せめて茅根だけでも来いよ、連絡しようかな、いや、女々しいと散々からかわれるのが見えているからやめよう。そう考えながら明日の会議の資料へと視線を戻す。




「副社長は、ご自分の人気をもっと自覚すべきです」



いつまで目の前に立っているのだろうと視線を投げれば、ようやく口を開いた千賀がいた。なにを言ってるんだ。


本気で理解が追いつかず、数秒ほど見つめてしまった。すると、くわあっと耳を赤く染める千賀がいて、ああ、可愛いところもあるんだな、人間だなあと思った。



宇田は動揺したり照れたり、顔を赤らめたりなんてしない。

少なくとも、俺の前では一度も。




「こんなにも魅力に溢れた男性であるのに、どうして卑屈になられるんですか?」



魅力、か。心の中で繰り返す。


あまり他人と接触したがらない上司に対して、思わず声に出してしまったのだろう。俺は少し苦笑を漏らした。



容姿や家柄、経済力や権力、そういった人気へと直接的に繋がるもの肩書は昔から他人よりも秀でていた。学生時代はそれに加えて成績や運動能力もかなり優秀だった。


でも、それらすべて、本当に認めてほしい相手にはまったく魅力としての効果なんてないように思えてしまう。



学生時代、幾度となくかけられた『宇田さんの隣に並べるのは、深月さんしかいない』という言葉。


俺はその言葉に酔いながらも、決して並べてなどいない自覚をしていた。 だって、俺が他人から『魅力』として異様に高く評価されるものたちは、どれも宇田凛子に及ばないのだ。



あの女は、必ず俺の手前をふらふらと歩いている。

そして、振り返って、さも隣を歩いているかのように笑うのだ。



俺は、宇田と並びたいと思ったことなんてないし、むしろ、俺はあの頭のおかしな女の後ろをついて行くのが好き。彼女の進むところに間違いはないし、もしそれが世間の言う悪だったとしても俺にとってそれこそが正義。



だから、彼女のすぐ後ろを離れないために、俺は自分の『魅力』と呼ばれるものをきちんと理解して、それを利用してここまできたんだ。



たとえば、そう。




「俺のこと魅力的だなんて思ってくれていたんだ?」




こうやって、適当に甘さを含む音色を出すことも。




「副社ちょ、」


「嬉しいよ、さ、仕事の続きをしよう」



宇田以外のために出す自分の声は、たとえどんなに優しい言葉を紡いだとしたって、なんの感情も込められていない。それは空気を震わせるだけの音だ。



だって俺は、いま、首まで赤く染めた秘書を見ても、なんの感情も動くことがないのだから。


———そして、華の金曜日。

我が社でも忘年会を行う、年の暮れの寒い日のことだった。



じつは寒がりである俺がきちんとマフラー手袋を装備して他の社員よりも少しだけ遅れて会場となる居酒屋へ向かった。


そこは、開始して2時間と経っていないはずなのにそれなりに出来上がってる奴らばかりで、“楽しそうな空気”が充満していて、軽く吐き気がした。


化粧品会社ということもあるのか、男女問わず比較的容姿の整った者が集まっているうちの社員たち。その若くて覇気のある視線たちが一斉にこちらへと向けられて、根が陰鬱な俺はすっと視線を落とした。



俺は冷気を纏った上着を脱ぎ、端っこの席に着いた。それだけの仕草できゃっきゃと喜ぶ部下たちを心底不思議に思う。



俺が来たことによって空気がなんとなく厳かなムードに変わってしまいそうだったので、目の前にあったお冷に口をつけながら「気にせず話して」と促した。




すると。



「うわあ、近くで見ても美しい…!」


「僕、副社長に憧れて、この会社受けたんです!」


「先日のプレゼン、アドバイスありがとうございました!」


「かっこよすぎます、尊敬してます本当!」




流れ込むように俺に話しかける言葉たちが溢れて来た。

さすがに理解が追いつかなくて、「ひとりずつにしてよ」と愚痴る。


いつも思うけど、俺のポテンシャルに対して、周囲からの評価は高すぎる。見合ってない。ほんと。



達筆で書かれたメニュー表を差し出す部下に浅く頭を下げ、ソフトドリンクの欄をさらりと眺めた。四方八方から明るい声が飛んで来て、慣れない空気にすでに疲れている。



呼ばれた店員に「烏龍茶」と伝えれば、「副社長ってまさかお酒、」と居酒屋タブー説が流れ始めた。ああ、頼むから、もう、俺を放っておいてくれ。


とは言えずに、首をゆるく横に振って否定する。



「今日は車で来ちゃったってだけだから、オマエたちが気にするようなことじゃないよ」



スマホが手元にあるのを確認しながら、メニュー表を返す。オマエらの無礼講も許すから、根暗な上司のことも許してくれ。


それから、味付けの濃い料理を少しつまむ。初めて口にしたタイプの鍋が想像以上に美味くて、いつか宇田に食べさせたいと思った。似たようなものなら家でも作れそうだ。


あいつはたまに俺が料理してあげると異常に喜ぶからね。絶対宇田が自分で作るほうが美味いのに、と思うけど、そういう理屈で彼女を片付けることは不可能だ。




「副社長って学生の頃からそんな格好よかったんですか?!」



烏龍茶をストローで飲んでいる姿を見て、向かいに座っていた営業部の子が話しかけてきた。




そいつは男のくせに合コンで女の子が飲むような甘ったるい酒を飲んでいた。男女差別?どうでもいいけど、甘い酒とチャンジャの組み合わせって最悪だろ。


そんなことを考えていたせいで返事を疎かにしていると、次から次へと声が飛んでくる。


なんていうか、さすが、宇田が選んできた社員なだけあるな、というかんじ。うちの採用は、しっかり社長との面接がなされている。



「社長は、副社長のことずっと変わらないって仰っていましたよ」


「男女の幼馴染で会社立ち上げるってどんな夢物語ですか」


「あれ、おふたりっていつからの知り合いでしたっけ?」



こういう交流の場に姿を見せるのが珍しい上司は、やたらと絡まれるらしい。仕事納めの疲れも重なって、「家族ぐるみだから、生まれる前から知り合い」と淡白に答えた。




宇田と俺とはここまでくると、もう、運命共同体だ。


宇田は俺のことを兄か何かだと勘違いしていると思うし、自分のテリトリーが狭い女だが、俺に対してはかなり心を許しているように見える。まあね、自分でそう思いたいだけかもしれないけど。



ライバル心というものを抱いたことがない、わけじゃない。


いや、宇田の上に立とうなんて野心を抱いたことは一度もないし、お互い異性であったおかげで周囲からも比較されることはあまりなかった。


だけど、誰よりもお互いを意識してきた。勝負はなくとも、優劣は常に付き纏う。



こうやって30年近く隣にいて、宇田の才能を誰よりも認めているからこそ、自分という人間の無力さを思い知らされる。


あいつはぶっ飛んだサイボーグだから、自分が普通の男であることに気付いて、遣る瀬無い気持ちになるのだ。



嫌いだ。宇田なんて嫌いだ。少し喋るだけでも目眩がするほど疲れるし、うるさいししつこいし、何より人間味がない。


基本的には我儘で、典型的な我が道を行くタイプであるけど、俺がしたいことは決して止めたりしない。



俺たちが高校生だったあの頃、俺が押し倒した時だって、あいつは止めてくれなかった。


俺はその時のことを今でも鮮明に覚えていて、きっとあいつも覚えていて、それでも宇田と恋愛関係を結べていない現状に嘲笑が溢れる。




好きだ。なんて軽々しい言葉じゃ伝えられないこの想いは、きっと音として俺の唇から漏れることもなく。


泡となって消えてくれることもなく、ただ、奥深くに蓄積されて、いつかその重さに耐えきれなくなったときに崩壊する。



嫌味なほど純白なドレスに身を包んだ宇田が誰かと、そうだ、たとえば茅根と、腕を組んでいる晴れた日の様子を思い浮かべるのは簡単なこと。


幼馴染であり同級生であり上司と部下の関係である俺は、無表情のまま友人代表スピーチをこなす。


それでも俺は泣いたりしない。ちっとも心の込められていないおめでとうをそれらしく吐き、その冷えた温度に気付きながらも宇田は大袈裟に喜んで見せるのだ。



そして新婚旅行にも行かず、2日後何事もなかったかのように出勤する宇田と俺は何も変わらない、社長と副社長。離れない距離に安心しながら、近づかない距離を嘆くだけ。


その直後に俺も、会社に貢献できそうな相手を見つけて籍を入れる。それはきっと同じ位置に立っていたいという男の見栄と、墓まで持っていく秘密になるだろう大きな嫉妬だ。



宇田が旦那に抱かれているのを想像して、俺も奥さんと呼ばれる女を抱くのかもしれない。





「…副社長?」




自分でも恐怖を抱くほどの歪んだ欲求に顔を顰めていたせいで、隣の席についていた長い髪をひとつにまとめた女社員が、心配そうに覗き込んできた。




「ごめん、考え事してた」



軽い謝罪を口にして烏龍茶を口に含めば、「いえ、年末ですしお疲れですよね!」と気の利いた言葉が返ってくる。



「また烏龍茶で大丈夫ですか?」



俺の空になったグラスを見たその社員は気を利かせて、注文をしてくれるらしい。「うん、ありがとう」と当然のお礼を言えば、彼女は顔をぐっと赤く染め上げた。



お礼くらい言うよ、俺をなんだと思ってるの。



「副社長ってずるいです」



その社員ははらりと落ちてきた自分の後れ毛を耳にかけ、小さく困ったように笑った。決して鈍感ではない俺は、空気の変化を感じ取ってしまい、心でわらう。



ずるくないよ?とか適当なことを言えばいいのかもしれないけど、俺は無言でその女を見据えるだけにした。



俺の周囲に現れる女性はみんな、恋愛の空気を持ってくる。普段敬遠されている俺に、少し触れるきっかけがあればすぐこれだ。



でも、さすが宇田の選んだ社員である彼女は、思い上がりの馬鹿とは少し違うらしい。



テーブルの隅にあるスマホのバイブが小さく震えた。プライベート用のそれは、おそらく急ぎの要件ではない。というか、要件はもう分かっている。


だから、どうしたって俺の意識はそちらに引かれてしまうけど、さすがに、ここでスマホを弄る程の最低さはない。


しかし、目の前の彼女から意識が外れてしまったのは事実。俺に向かって話している声も、きちんと言葉として耳には届かない。



「大事な社員として想われているだけなんですよね、それも嬉しいですけど、」



それでも続けて話した彼女だったが、いつまでもスマホに気を取られたままの俺にいよいよ「気にせず返信してください」と促した。

きっとそれなりに勇気を出して話しかけて会話を振ってくれた彼女にも、なんの反応も返すことができない。俺は、ずっと、そういう人間だ。


返事代わりの瞬きをゆっくりしてみせてから、スマホの通知を確認する。




『いま忙しくなかったら、会社まで迎えにきて』




いま忙しくなかったら、なんて。ああ、ほんとうに白々しい。


宇田はどうせ、俺が迎えに来ることを知っている。

俺がオマエからの連絡を待っていたことを知っている。


タクシー代わりにつかわれている?ああ、そんなの結構なことだ。


俺にしかできないことも、誰にでもできることも、ぜんぶ、宇田に関することは俺が頼られたい。


誰かを呼ぼうかな、と脳裏に他の人物を浮かべられることさえ腹立たしいので、もうとっくに俺は気が狂っている。



しね、とだけ返信して、落ち着いた俺は、ようやくすぐそばに座っていた女社員と会話の途中だったことを思い出した。


でも、俺にとって、宇田社長のお迎えより大事な用事なんてこの居酒屋にあるはずがない。


自分の欠落をじゅうぶんに理解しているつもりだけど、それでも、もう、直せない。




「ごめん、クソ社長がお呼びだから先に帰るね」




さっと荷物をまとめて、周囲に頭を浅く下げる。みんな残念そうな反応を見せてくれて、良い部下だなと副社長としての俺が思った。


出入り口では、酔いも見せずにきちんと姿勢よく立っている秘書の千賀が待っていた。丁寧に施された化粧は、どことなく宇田を意識しているとわかる。




「お気を付けてお帰りください」


「領収書は会社でいいから、社員たちを楽しませてあげてね」


「かしこまりました」



じゃあ、と片手をあげて、俺は店を出た。外の風はきんと冷たくて、冬特有の澄んだ空気に包まれた。星は見えないが、月は明るい。


白い息を2回ほど吐いて、俺は運転席に乗り込んだ。車内は店を出る前に遠隔操作で暖めておいたから、まだマシだった。



ここから会社まではそう遠くない。宇田もそれを知って、呼び出しているのだろうし。


夜も深くない時間のわりに、道にそれほど車は走っていなかった。


信号も調子よく進み、景色が流れるように窓に映る。車内は無音だ。音楽も流さず、ほんのわずかに聞こえる外の音を聞く。




15分程度車を走らせれば、毎日通っている俺らの会社が見えてきた。まわりも同じような建物が並んでいて、ここはいわゆるオフィス街。


道中に、自分の実家が経営している一際立派なビルのひとつが見えて、なんともいえない気持ちになる。親の背中はあまりにも遠くて、学生までは当たり前に与えられてきたものの偉大さを知る。



そのまま慣れ親しんだ自分の会社に車を停めて、運転席から宇田に電話をかける。履歴のいちばん上。


1コールで『もしもし?ダーリンだよ』と鳥肌が立つようなことを言ってきた宇田の声が、俺の足りない部分を満たしていく。



「いま地下の駐車場ついたからはやく来て」



それだけ伝えて、気持ち悪い言葉を返される前に通話を切った。


あいつとの会話はなるべく少なくないと俺の寿命がもたない。ちなみにこれは決して、断じて、ロマンスのあるドキドキという意味ではないから間違えないように。


乗馬みたいなブーツを履いた宇田が見えたので、俺は車を出してそちらに寄せた。立ち止まる宇田の表情にはいつものようにへらりと薄い笑みが貼られていなくて、少し疲れているみたいだ。




「いきなりごめん、ありがとうね、ハニー」


「そう思ってるなら深月って呼べば?」


「ハニー、お酒買ってかえろ」




いつでも宇田を迎えに行けるよう、烏龍茶を飲んだ俺。それを分かっているこの女は、シートベルトを締めながらようやく笑った。


だってもし、俺と離れているときにこいつに何かあって、駆けつけることができなかったら?どんなに小さなことでも、俺は必ず後悔する。


俺は酒が飲めないわけじゃない。でも、宇田と離れているときにわざわざ飲酒しようとは思わないし、そうなると必然的に宇田としか酒を飲む機会がない。ほんと良い部下だよね、俺って。



慣れた駐車場を運転しながら、ちらりとバックミラーから後部座席を盗み見る。窓の外を眺めている整った横顔は、やっぱり疲労が滲んでいた。



でも俺は、こういうときにどういう声をかけたらいいのかわからない。


茅根ならうまくやるんだろうなと思いつつ、どうしようもないから、何も話しかけずに宇田がお気に入りのバンドの曲を流した。



小さな音量だったけど、音楽に合わせた宇田の鼻歌を聴いて、緊張が解ける。



「きょうはみんなで忘年会だった?」


「そうだよ、分かってたなら呼び出すな」


「わたしだって、ゆづに超大事な用事があるって知ってたら呼び出さないよ」


「ふうん」



馬鹿なことを言う。オマエよりも大事な用事なんてないし、それに宇田は、俺が何か用事があるときほど呼び出してくる。


彼女はそうやって、じぶんの優先順位を確認している。こんなにも尽くしているのに、なぜ安心できない?



そう思いながらも無言で、宇田が気に入っている高級食材を扱うスーパーマーケットに向かって車を走らせる。


クリスマスが終わった今日もまだイルミネーションが彩られたままの華やかな歩道。肩を寄せ合う若い男女を見つけて、寒そうだなという感想。




「わたしはちょっと疲れたなあー」



ぐーっと伸びをした後部座席に座る上司が、バックミラー越しに見えた。感情を見せた人間味のある宇田はめずらしく、いつだって完璧な人間だと再確認させる。



完璧すぎて、全てが嘘くさい。



隙がなくて、人当たりが良くて、会話が得意。上から目線に見えないのにしっかり自信があって、それに見合う実力がある。だから、多くの人は宇田を『欠点のない人間』として評価する。



でも、そんなのぬるい。宇田を人間として扱っているうちはまだまだだ。



こうやって、たまに感情を見せるけど、それさえも完璧な人間を演じるための嘘のように思えてしまうのだ。感情がない人間なんていないわけだからね。




「何がそんなに疲れたの」




興味もないけど、上司に対する礼儀として、右にハンドルを切りながらたずねた。


俺はドライブが好きだから、次の休みは少し遠出をして海辺を運転したりしたいな。どうせ、起きたら夕方なのだろうけど。




「うちの娘を由鶴と結婚させたいっていう取引先の方が多すぎる」


「へえ?」


「ご結婚されてないんですよねって何回も確認されるんだよ、由鶴って欠点がないから、未婚なのが不思議みたい」


「余計なお世話だね」


「ほんとそれ」




俺が誰と結婚するかなんて、どうだって良いことだろうが。それなのに、日本の経済を大きく動かすと勘違いしている大人が多すぎる。


どこの令嬢と結婚しようが、俺は、うちの化粧品会社に利益さえあればなんだって良いんだから。あと、うちの実家にも損害がないとさらに良いけど、あれは俺の結婚どうこうで動かす程度の規模じゃない気がする。




宇田もそうだけど、本当に大きな権力を持つ家では、もはや政略結婚にしがみついたりしない。それに、時代も時代だし。


宇田のご両親は、パーティーなんかで俺や俺の親に会うと、「うちのおてんば娘、もらってくれない?由鶴くんなら、凛子も親戚一同も大歓迎なのだけど」なんて冗談めかしてみたりするけど。


どうせなら、もっと激推ししろよ。それこそ俺とお見合いとか——いや、それは笑うかも。




「ハニーって結婚する気あるの?」




いかにも宇田が好きそうな話題だ。面倒だな、と思いつつもスーパーの看板が見えてきたから「もう着くよ」と返した。




なに?結婚する気あるよって答えたら、オマエ、結婚してくれるの?ごめん、これはひとりごと。



駐車場の空きを探しながら、俺のほうから宇田に話しかけた。



「ひとつ、わがまま言っていい?」



なんだい?とふざけたように促す宇田。



「オマエは、俺より先に結婚しないで」



目を合わせずに言うと、宇田は笑いながら「約束するよ」と答えてくれた。



「わたしに負けるのが悔しいの?」


「オマエに何かで勝ったことないけど」


「わたしよりモテるじゃん」


「それは宇田がぜんぜんモテないだけ」



ようやく見つけたスペースに駐車しながら会話する。

宇田はくすくすと楽しそうに笑っていて、俺の我儘に機嫌を良くしたらしかった。



「えーじゃあ、さみしいんだ?」



エンジンを切りながら俺は振り返らずに頷いて、静かになった車内で弱弱しい言葉を吐く。




「そうだよ、だから、俺を置いていかないで」




どうせまだまだ結婚できないよーと言いながら、車を降りる宇田の表情は、あえて見なかった。

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