第3話 低温火傷につき、
社会人という人種になって毎日変わらず会社で働いていると、季節の移ろいに疎くなる。月の変わり目には敏感なのに、数字で表すことのない緩やかな変化にひどく鈍感だ。
きょうは雪が降るらしい。今年は雪が多い年になるそうだ。
お天気お姉さんの言う通りに、俺はカシミアのセーターを着込んで出勤した。たしかに、しんしんと冷たい空気が冬を冷やしている。
そういえば、朝からいちども宇田たちの姿を見ていない。きょうは天候とは裏腹に、穏やかな日となるだろう。
そんなことを考えながら、俺は珍しく社内食堂に足を運んだ。昨日の晩から何も食べていないし、ちゃんとした料理を食べたいと柄にも無い健康的なことを考えてしまったせいだ。
食堂はそれなりに混み合っていて、ちょうどお昼時に訪れたことを後悔した。
生姜焼き定食のお盆を持った俺に、社員たちの控えめな視線が集まってくる。わかるよ、副社長と生姜焼き定食なんて似合わないですねって思ってるんでしょ。ほっとけ。たまには肉も食うよ。
せめて宇田や茅根でもいればな、と思いつつも、彼らがいるとそれはそれで疲労が溜まるのだ。空席に着いて、ひとりで手を合わせ、食べ始める。
俺よりもほとんど若い子しかいないこの会社は、食堂も活気で溢れていて賑やかだ。女の子向けの化粧品会社の副社長を務めながらも、女の子と接することなんてまるでない俺は、つい、こっそり聞き耳を立ててしまう。
だけど、盗み聞きは大抵聞きたくないことを聞いてしまうし、よくない結果しか生み出さない。やめれば良かったと後悔してももう遅い。
「宇田社長と秘書の茅根さんってデキてるのかな」
「それみんな言ってるよねえ」
「めっちゃお似合いだけど!」
なるほど。宇田と茅根が、ねえ。
正直、デキてるわけがない。そんなのはちゃんと分かっているし、自我を見失う程に取り乱したりしない。
でも、噂に立つほど親しい間柄なのは確かだ。そしてこれまで、学生時代に何度も噂になったのはずっと俺のほうだった。
突然味がしなくなった生姜焼きを口に運ぶ機械的な動作に嘲笑が溢れ、タイミング良く通知を鳴らすスマートフォンに何故か無性に泣きたくなった。
『おつかれ、ハニー!ちゃんとお昼たべてる?』
そんな余計なお世話であるメッセージと共に、生姜焼きを食べる元気そうな宇田の写真が送られてきた。これはきっと近くの定食屋さん。
それで、撮影者はきっと茅根。
そんな皮肉な写真を送ってくる女なのに、俺は馬鹿だから。だから、離れていても同じメニューを頼んでいるだけの些細な事実に嬉しくなったりするわけだ。
『奇遇だね、俺も生姜焼きだよ』
宇田は本当にずるい。
決して結んでくれないくせに、俺を離さない。それはひどく優しい行為であり、どうしようもなく残酷だ。
その気が狂いそうな苦痛を知りながらも、俺はもう自ら壊すことなんてできない。壊されるのを待つだけ。
そんなの、もう、ずっと前から気付いていた。
でも、もう俺らは子供じゃない。冷えた体温の暖め方なんて、とっくに知ってしまっている。
初雪が降ったその夜。ふたりで居酒屋さんに立ち寄った、そんなイレギュラーから始まった。
「雪が降った日は居酒屋さんで呑むに限りますなあ」
なんて常人には理解しがたいことを言いながら、朱色の暖簾をくぐる宇田は、会社帰りなのにすでに酔っ払っているような足取りだった。
宇田は走るのが得意なのに、歩くのが下手くそだ。常時千鳥足みたいになって、なんだか頼りない。
いや、天性の猫かぶり女であるので仕事中はしゃくしゃくと姿勢よく歩くけど、オフモードになった途端から踊るような足取りになる。たぶん、珈琲で酔える。
それから、たったの2時間ほど。
嗜む程度の品がある俺の前で遠慮もなく、がぶがぶと可愛げもなく目の前の酒を飲み干す女。もはや女じゃない。
「なんか嫌なことでもあったの」
興味ないけど、いちおう上司相手なのでたずねてみる。それと、しめ鯖、最後の一切れを食べやがったなオマエ。
「別に嫌なことじゃない」
「じゃあ、いいこと?」
「分かんない」
「ふうん」
ことん、音を立てて空のジョッキを置いた宇田は、ようやく酔いの回ってきたらしい表情でこちらを見た。
化粧の下からじんわりと赤く染まった頬の高い部分、ゆるりと緩んだ瞳、ふにゃんと柔らかくとろけた雰囲気にクるものがある。自分の浅い場所に眠る本能を正すように息をのんで、邪念を振り払った。
呂律はきちんとまわってるけど、呼吸も少し浅く感じる。そろそろやめさせないと。
「酔ってるでしょ、ちょっと休憩するか、もう帰ろう」
「ん、ユズルぜんぜんのんでないね」
「オマエが飲み過ぎなんだよ」
冷たい水を差し出してやると、砂糖のかたまりが溶けたようにあまく笑ったそいつに、まわりの客の視線が集まる。
宇田は絶世の美女ってわけじゃないと俺は思うのだけど、生まれもった華々しさと、類稀なるカリスマ性のおかげでよく目を引く。たしかに、筆舌しがたい魅力があって、でもそれは彼女の努力によるものだと知っている。
俺たちは、あまりにも、知りすぎている。
「ねえ、ハニー」
「やだ」
「きょう、泊めて?」
「だから、やだってば」
「えーだめー?おねがーい」
どうせ泊まってくくせに、軽薄な上目遣いで許可なんて取ろうとするな。わざとらしい。
安い誘い文句みたいなそれにも、理性が傾きそうになる俺も大概酔っているとしか思えない。甘えるように俺のネクタイあたりにおでこを擦り寄せる宇田に、俺はうっかり伸ばそうとした馬鹿な手を引っ込めた。
すんすんと鼻をならす彼女は、昔から、何かあると俺の匂いを嗅ぎたがる。前世は犬なのかもしれない。今世には、そんな可愛げないけど。
「わたし、由鶴の匂い大好きなんだよねえ」
「あ、そ」
「やっぱり落ち着くなあ」
「オマエは酒臭い、離れて」
そう言いつつも無理に突き放さないあたり、ね。はいはい、察してくれ。
俺の胸に寄りかかるような体勢になった宇田に、さすがにまわりの視線も考慮して、俺は店を出ることにした。会計の際、きっちり領収書を切るのも忘れない。もちろんあとで社長に支払わせるつもりだ。
呼びつけた代行業者は、中年の男。ふわふわと覚束ない酔っ払いの宇田にわかりやすく欲を帯びた視線を向けてくるので、どうやらゲテモノ好きらしい。
俺はそんなゲテモノをそっと隠すように、自分のコートを脱いで頭から被せた。スーツだけでも平気な温度の車内。車の外は、雪が降り始めたばかりだ。
常識的に考えれば彼女の自宅に送り届けてやれば良かったが、何故か俺は自分の住むマンションに彼女とふたりで降りた。
運転手に短くお礼を告げて、お金を払う。もちろん領収書を受け取るのは忘れない。
宇田は俺のぶかぶかのコートを肩に掛けるようにして、その内側では俺の右腕に両腕を絡めている。こんな白ける誘惑さえも理性を壊しにかかるのだから、もう、勘弁してほしい。
だけど、俺にとっては性欲なんて浅くてやさしいものだ。宇田凛子という人間に対しては、もっと深くて、穢れていて、色の濃い欲求が複雑に絡み合っている。
「そういえば、茅根がさ、」
宇田の話の大半は、茅根に関することだ。四六時中ともに過ごしているのだから、それは必然的なのかもしれないけれど、気分は晴れない。
でも、これは俺が悪い。清らかな関係を築いていけないのは、俺の一方通行な重たい熱量のせいだ。
「ゆづ、ずっといっしょにいようね」
まるで、呪いだ。
それだけの言葉に俺は呆気なく囚われて、身動きなどできずに縛られている。
「どういう意味で言ってるの」
エレベーターという密室でふたりきり、潤んだ上目遣いでこちらを見るそいつに、怪訝な声を吐いてしまった。
自分の中の独占欲がぐつぐつと沸騰してきたのを感じた。冷徹なんかじゃない、俺はこんなに熱い人間だったのか。
この先、唯一の男として俺を選んではくれないくせに、無責任に俺を繋ごうとする。残酷な女にうんざりしながら、俺はどこかで安堵する。
この関係がじんわりと歪みだしたのは、いつからだったか。
「意味なんかないよ、ただ、いっしょにいたいの」
きれいにマスカラが塗られた長い睫毛を伏せて、そっと微笑む宇田。ぼんやりとそれを眺める俺を置き去りにして、彼女は慣れたように俺の家に入っていった。
それに続いて、玄関のドアを後ろ手で閉める。がちゃり、オートロックの鍵がかかった音が響いた。耳に、残る。
それを気にとめず上着をどんどん脱いでゆく宇田は、外しすぎたボタンのせいで、ブラウスから下着が見えそうだった。まっ白な肌が眩しくて、目を細める。
どうやら暑いらしい。飲み過ぎて火照っているのだろう。
「ねえ、ちょっと無防備すぎるんじゃないの」
「うん?」
控えめな俺の指摘にも、こくりと小首を傾げてかわい子ぶってる宇田は、あつ、とか呟いて上着たちを脱ぎ捨てたままリビングに入っていった。
昼間の偉そうにご立派な態度は何処へやら、ソファに寝転がる無邪気な酔っ払いは、いま、この瞬間、俺だけのものだ。
俺だけの、宇田。どうしてやろうか、この甘美な響きを。
「シャワー浴びたら?酔いも覚めるよ」
奴の脱いだ上着と自分のそれをきちんとハンガーにかけて、声をかける。脳内ではいくらだってぐちゃぐちゃに犯せるけど、現実の俺はあくまで副社長。その理性に賞賛と嘲笑。
「うーん、こっちおいでよ由鶴」
「どんだけ酔ってんの」
「はーやーく」
宇田を無視してカーテンを閉める。窓の外は雪らしき白がちらちらと見えた。この女も雪に打たれて酔いを覚ましてきたほうがいい。それで凍死でもすればいい。
もし、ここで凍死したら、永劫的に俺のものになる?そんなのどうでもいいか、だってどうせ俺もしぬ。
「ゆづ、」
「いかないよ、風呂はいってき、」
一瞬、呼吸を忘れた。
俺がどうしてそっちに行かないのかも、知らないくせに。
「ん、」
気付けば俺は、ソファに横たわる宇田と口づけを交わしていた。
ああ、ちがう。俺が無理やりキスをしていた。
「っはあ、」
宇田とのキスは、甘い酒の味だった。俺までくらくらと酔ってしまう。むしろ、骨まで酔わせてほしい。
熱い吐息を漏らす彼女は、ひどく官能的で。
ふと、我に返って、顔を離した。ふたり、至近距離で目線を絡め合っている。
「ごめん、俺、」
宇田の大きな瞳に写り込む俺は、不安げで、好きでもない男にキスまでされた被害者が心配そうになるのも納得できた。
宇田に謝ったのなんて何年ぶりだろう。仕事のことなら迷わず謝るけど、そこで失敗することもない俺は、社長に頭を下げることもなかった。
そんな俺を、無言で見つめる彼女は、ほとんど酔いも覚めた様子で。
数秒の沈黙の後、宇田は俺のシャツをゆるく握って、上目遣いでお願いしてきた。
「もっと、したくなっちゃった」
ああ、気を遣わせてしまったのかもしれない。お膳立てなロマンス、早く醒めろよ。
続きなんて、俺だってしたいよ、したいけど。
「っ、」
男女ふたり、窓の外は雪、言い訳はアルコール。
十分な条件が揃った夜なのに、良い大人にもなって、ただ、くちびるだけが熱を共有しあっていた。腰を引き寄せる腕さえまわせない。
この先に触れたら、もう、戻れないと知っていた。
自分のなかの熱い血が勢いよく逆流してるみたいな、なんとも不思議な気分。たぶん、俺、いま、興奮してる。
妙に冷静な部分が少しずつ焼き切れるように狭くなっていって、本能の部分が熱くなる。それなのに、まだ、据え膳を食らえる度量が今の俺にはない。
キスだけで、泣きそうなくらいにしんどくて、くるしいくらいに満たされる。
決して大袈裟じゃないはずなのに破壊的に鼓膜を刺激する甘い呼吸音は、俺のくちびるにひどく従順だ。
俺はようやくこの女に対して思ったことに名前をつけた。
かわいい。
俺、いま、宇田のこと、かわいいと思っている。
抱き合うこともなく、指を絡めることさえできず、ただ、重なるくちびるだけが、お互いの温度を知っていた。
ただ、静かに呼吸を奪うようなだけの行為は、言葉もなく、感情を共有することもできず。
—————でも、このとき。俺らの世界は、たしかにふたりきりだった。
低血圧な自分に鞭打って目を覚ましたら、そこはいつもと変わらない朝だった。
ドア越しに聞こえる、がちゃがちゃと何かしている騒音。リビングにはよく知った人の気配。楽しげな鼻歌。は?朝から鼻歌?正気の沙汰じゃない。
そんな、いつもと変わらない朝だった。
たかがキスの感覚なんてもう残っていなくて、ただの朝だ。
そして、けっきょく、くちびるを重ねる以上のことはできず、ただ、それを繰り返すだけの夜だった。
どちらからということもなく、なんとなく、終わりが来た。酔いが醒めた、と表現するのが正しいかもしれない。
そのあと、きちんと別々に風呂に入って、宇田はソファ、俺は寝室で眠りについた。
何もなかった、のかもしれない。
だけど、宇田のことになると思春期も同然の俺にとっては、これまで触れずに保ってきた距離感をひとつ崩したというのはもはや事変だ。
何故だか抱えきれないほどの不安に押し潰されそうになった俺は、カーテンを開けて、窓の外に薄っすらと積もる雪を確認した。ここではじめて、昨日の朝とは違う点を見つけて、ほんの少しだけ安心する。
この程度の雪でも、電車は遅延があるかもわからない。今日の遅刻は大目に見てやらないと。
ベッドから抜け出すと、寝室はひんやりとしていて、妙に頭が冴えた。普段ならこんな寒い朝は、宇田に最強なうざさで起されるまで布団から出られないのだけど、今朝は着替えもせずにドアを開ける。
宇田の姿を一目見ないと不安だった。
ノリでヤってしまった夜、朝起きて隣に人がいない、そんなワンナイトラブは聞いたことがある。それに、帰ったやつの心情を理解はできる。
だけど、俺らの関係はそんな脆さじゃない。だから、そんなことで壊されたら困る。いや、一線は超えてないけれども。
「ゆづ、おはよ?ちゃんと起きて偉いね」
コーヒーを淹れながら軽い挨拶をしてきた彼女を見て、立ちくらみしそうなのをなんとか耐えた。
ああ、そういうこと。
この女にとっては、酔ってしまった際の仕事の火遊びなんて小さなミス。こうやって無かったことにするつもりなのか。
こうやって、俺との距離を変えずに、ずっと上手くやっていくつもりなのか。
「着替えてくる」
「まず挨拶でしょうが。まあ、いいけど、いってらっしゃい」
朝から口うるさい宇田は、無音で動揺しまくりの俺とはちがって、やっぱりいつも通りそのものだ。
ずっといっしょにいる、その儚い約束は腐りかけのまま一生かけて果たされていく。
着替えて、姿見に映る自分は陰鬱な若い男だ。異性から好まれる容姿だと思っていたが、この淀んだ黒い瞳の男に近寄ってくる女はいないだろう。
事実、俺は女性から敬遠されて生きてきた。かっこいいだの抱かれたいだのと騒がれながらも、俺を前にして親しげに話しかける女は多くない。だから、いわゆるモテる人間ではないと自負している。
それは、教養のある者ばかりが集う環境だけで生きてきたおかげもあるだろうが、間違いなく俺の性質に由来するものだ。
正直、女の扱いが不得手というわけでもなかった。誘いをかわすのも、柔らかく断るのも、機嫌を取るのもできるほうだ。
でも、宇田のことになると、ほんとうにだめ。
俺よりウワテな女なんて、ああ、ほんとうに可愛げがない。
そして、俺はこの先もずっと彼女の部下であるし、彼女よりも上に立つことはなく支え続けるのだろう。
逃げられない過去に自ら縛られたまま、平然と部屋を出た。
テレビは星座占いを早口に映していて、宇田はそれをしっかり見ながらコーヒーを淹れている。彼女は占いを信じるタイプらしい。いや、どうだろう。信じているふりをしているだけ、のような気がする。
「山羊座、12位だったよ」
「へえ」
「なんかわたしが見るとき、いつも山羊座最下位なんだよねえ」
山羊座の俺にとっては、知りたくもない情報だった。占いなんてどうだっていいけど、今日に限っては、まあ、でしょうね。むしろこれで1位だったら、この先どうしたらいいの。
何も答えない俺を気にすることなく、宇田が窓の外に視線を向けて話し出す。
「今日、車で行くのやめようよ。雪が残ってるし、危ない気がする」
「地下鉄?」
「歩き」
「……」
クビを覚悟で、社長をぶん殴ってもいいかな、いいよね。都内とはいえ7駅分を歩いて出勤するらしいんだけど、完全にパワハラだもんね。
なんとか殺意を封じ込めて、俺はひとつ提案をする。
「宇田、ここで仕事しようよ今日」
「珍しいこと言うね?」
「うん、茅根も呼んでいいよ」
「んー、たまには良いかもね」
確か、宇田も俺も今日は特別大きな仕事はないし、雪が積もった東京では、外部から誰かの訪問って可能性も少ないだろう。関東の人間は積雪に慣れていない。
それに、俺らは社長と副社長なのだ。ごく稀に家で仕事をしたって咎める者はいない。
それから、いったん出勤した茅根に俺ら3人分の仕事を持ち帰ってきてもらうよう頼み、千賀には他の社員にもノルマ分を持ち帰って家で仕事をする許可を伝えてもらった。今日はまたさらに雪が降るらしいし。
そうして秘書に連絡し終えたいま、茅根を待ちながら、俺はわざわざさっき着たスーツから緩い服装に着替えた。仕事ばかりしている俺は、私服と呼ばれる類の服をあまり持っていない。
ハイブランドな服なんかはいらないから、黒くて落ち着く服が欲しいな。時間があるとき、適当にネットで買ってしまおう。
私服で会う相手もいないし、休みなんてあってないようなものだ。仕事が恋人なんて言うが、ほんと、束縛が激しい奴で困る。
すると、ぴんぽんとチャイムが鳴った。茅根が到着したらしい。
宇田がロビーのロックを解除してやると、エレベーターに乗った茅根は間も無く玄関に来た。質の良いトレンチコートを羽織っているその男は今時のファッションモデルみたいで、やっぱり自分もちゃんとした服を買おうと思った。
「ほんともう、人使いが荒すぎるって」
お邪魔します、と革靴を脱ぎながら家にあがる茅根は、疲労を滲ませて文句を言う。
「ありがとね、おつかれさま」
湯気の立つココアを差し出しながら、俺のパーカーを着た宇田が話しかける。それにお礼を言う茅根は、相変わらず甘ったるく微笑んだ。
「なにで来たの」
邪魔をするみたいに会話に入る。わるいけど、ここは社長室じゃない。俺の家だ。
「自分で運転してきたよ」
「無事でよかったねー?」
「あ、社長にはこれ、下着と部屋着買ってきましたよ」
「うちの秘書ってば優秀すぎ」
……恥じらいはないのかオマエたちは。
ピンク色の袋を手渡す茅根が「千賀ちゃんが買ってきてくれたので、あとでお礼言っておいてね」と付け加える。こんなよく出来た秘書といたら、それは結婚できないよな宇田も。
着替えを受け取った宇田はリビングを出ていった。脱衣場にでも行ったのだろう。
俺の服を着てるあいつ、悪くないんだけどな。なんていうかこう、自分より何年もずっと立場が上のやつをさ、支配してるみたいな気分。それだけじゃないかもしれないけど。
「また泊まってたんだね、社長」
仕事の資料を整理している茅根が、ひとりごとを呟くように俺の顔も見ずに言った。
とはいえ、ここはふたりっきり。「まあね」と答えるのは俺だ。
「もはや一緒に住んだほうがいいんじゃないの」
「絶対やだね」
「ふうん、でも社長ってあんな美人で独り暮らしだし、危険じゃない?」
「どこが危険なの」
もし、もしも気の狂ったやつがあいつを犯そうとしていたとしても、あんな変人、ストーキングしてる途中で萎えるわ。
そして、なんとなくミント色のネクタイを思い出して。
「茅根もあいつの家、行ったりするんでしょ?」
余計なことを言ってしまった、けど、もう遅い。もしかして、俺が気にしてるみたいに聞こえる?マジで、そんなはずないのに。
3人分の仕事をきっちりと整理して並べた社長秘書は、甘い顔立ちに色気を孕ませて「たまにね」とだけ答えた。
茅根は俺とふたりっきりになっても、余裕のある笑みを浮かべていて、おそらくこれがこいつの真顔なんだと思う。でも、余裕のない今日の俺は、それがちょっとだけ腹立たしく感じたりする。
八つ当たりしても良いのかな、良いよね、だってほら、上司だし。
そんな野蛮なことを考えていることを察したのか、「糖分足りてないんじゃないですかあ?」とアーモンド型の目を細めて笑う茅根。
……宇田と茅根がいる職場では、どれだけチョコレート食べたって足りずに苛々するに違いない。
うん、と自分で肯定して、手のひらを丸めようとしたところで。
「ただいま戻りました!よし!働くぞ!おー!」
うるさいやつが着替えを済ませてリビングに入ってきた。いっきに活力が低下、この宇宙人は俺の士気をぐんと下げる。
「おー!今日の仕事はこれだけですよ、頑張って終わらせましょうね」
「……あ、ありがとう」
にっこりと甘ったるく微笑んで、『これだけ』の仕事が書かれたメモを社長に渡す秘書。俺には『これほど!どれだけ!』の量に見えるけど、まあ、手伝う気は無いし所詮他人事だ。
俺は俺の仕事が『これだけ』ある。俺はパソコンと資料で自分の周りを聖域として固めてから、仕事を始める支度を整えた。
何も考えずに目の前の作業に没頭する。自分に言い聞かせて、眠っているパソコンを立ち上げた。
仕事をしていると、時計の進み方が明らかに速くなる。だから今日も、気付いたら13時を回っていた。
何も食べずに働いてしまう俺らを心配して、自分も仕事人間の自覚があるらしい茅根がタイマーをセットしておいたみたいだ。なんて良く出来た男だ、毎度感心する。
宇田がこの男を秘書として選んだのは、こういう気の利くところだろう。納得しながら、暖かいじゃがいものポタージュを飲む。
大雪の積もるなか、外に出るのも面倒だし、出前を取るのも気がひけるので、宇田が即席でパスタとスープを作ってくれた。
冷凍庫にあった魚介類で作ったペスカトーレだが、有頭エビなんて自分で買った記憶ないから、いつか宇田が買っておいたみたいだ。うちの冷凍庫に触れるのはこの上司くらいだから、きっとそう。
「ハニーどう?すすんでる?」
自分で作ったパスタをフォークに巻き付けながら、話しかける宇田。俺はまだハニーって呼ばれるの許してないけど、毎回訂正していてはこちらの生命力がもたないので、会話を続ける。相手は上司相手は上司相手は上司。
「俺はゆっくりでもいいけど、おまえらは定時で帰ってよね、てか今すぐ帰れ」
相変わらず抑揚の無い声、そして宇田との会話では饒舌になってしまうそれに舌打ちしたくなりながらも返すと。
「えーぼく呼び出されたんですけどー」
「ハニーってつんでれさんだからねえ」
「かわいいですねえ」
……だからオマエらと会話するの嫌なんだよ。
ほとんどの大人が硬直する俺の究極に冷やした視線を向けても、けらけらと楽しそうに笑うふたりには、溜息をつくほかない。
「そういえば今週、テレビ撮影きますね」
「俺にカメラ回さないでよね」
「頑張ってくださいよ、うちの社長は副社長と並んだ時がいちばん魅力的になるんですから」
くすくすと笑いながらエスプレッソマシンをセットする茅根に、俺は眉根を寄せてみせる。俺の家のものを随分涼しい顔で使うよね、と思ったけど、このエスプレッソマシンはいつかの誕生日に茅根がくれたものだった。
何度も、誕生日を三人で迎えている。きっと、次の誕生日も。
「学生の頃は由鶴が隣に立ってないと不安だったなあ」
「嘘つき」
俺はこの長すぎる付き合いの中で、宇田が何かでミスをした瞬間を見たことがない。これほど隙が無いのだから、男が寄ってこないのも納得できる。というか結婚もできないと思う。
成績は余裕で学年トップ、たまに俺が逆転することもあったけど、やっぱり宇田には適わなかった。
コンテストでは必ず優秀賞を持ち帰り、大勢の前のスピーチはどんなに体調が悪くても完璧にこなしていく。宇田凛子は、そういう星の下に生まれたのだと思う。
「だって由鶴がいれば、何があっても大丈夫っていう気がするんだもん」
「オマエが何かやらかしても別に助けないよ」
「嘘つき」
ようやく食べ終わった宇田が、さっき俺が吐いた言葉を同じように繰り返した。それと同時に茅根がエスプレッソとチョコレートをテーブルに並べる。
なんとなく居心地が悪くなった俺は、宇田のぶんも重ねて食べ終わった食器を片付けた。手をかざすとぬるいお湯が出てくる蛇口は、潔癖な気質がある俺にはありがたい。
「社長と副社長の関係って、ほんと、全校生徒の憧れでしたよ」
「ゆづは人気あるよねえ、この絶対零度の視線に耐えなきゃいけないのに」
「でもやっぱり、由鶴くんの隣には社長しか並べないですよ」
「ふふ、そうかな?お似合い?」
「うん、お似合いです。おふたりって、付き合っていたことはないんですか?」
俺がキッチンにいた間、ふたりはすでにマグカップを傾けながらきゃっきゃと話していたらしい。
ちょうど戻ってきた俺に、宇田が顔を向けて訊ねてくる。
「あれ、あったっけ?」
「あるわけないでしょ、気持ち悪いこと言わないで」
そんなの、ない。だって、いちどでもそうなったら。
俺はオマエのことを、もう離したりなんかできない。
「まじで健全な友人関係なんですねえ」
感心したように茅根は言うけど、俺は目線を逸らしてしまった。
男女間で完全な友情を築けるのって、どれくらいの確率なんだろう。少なくとも俺たちはそうじゃない。
俺はまだ、宇田みたいにサイボーグでも宇宙人でもないから、昨夜のたかがキスごときだって、忘れるなんてできない。
宇田でしか味わえないあの甘美でほろ苦い感覚、思い出すだけで無性に泣きたくなった。まあ、きっと無表情だろうけど。
俺と宇田は、幼馴染、同級生、上司と部下、親友、絶対的な危うさで、たくさんの関係に名前をつけてきた。それでも恋人になれないまま。
俺は宇田の“初めて”を奪った男だ。
刹那的な性欲なんかでは片付けられない沢山の欲にまみれた指先で、清らかな少女を穢した。
俺が宇田を抱いたのは、高校生のときだった。
無理矢理ソファに押し倒された宇田は、抵抗することもなく微笑んで。
———わたしのからだをあげたら、由鶴のぜんぶをわたしに頂戴。
あいつがそう囁いたあの日から、宇田の身体は俺のものになったのかもしれない。そして、俺はすべてを差し出したのかもしれない。
でも、宇田の中身は、まだ宇田だけのものだ。
動きの止まっていた俺の視界に、するりと細い腕が流れ込んで来た。
「ねえ、食べないならこのチョコちょうだい?」
俺のぶんとして茅根が用意してくれたチョコレート。それを宇田は食べたいらしい。他人のぶんまで横取りして食べるなんて、教養のある人間の仕業ではない。彼女には教養があるので、結論として人間ではない。
とはいえ、べつにチョコレートに執着もなかったので、返事もせずに宇田と目を合わせた。
それだけの仕草で彼女は俺から許可を得たと思い込み、迷わずそれを口に放り込む。まあ、宇田の欲したものを俺が否定したことなんて、これまでに一度もないけど。
あげるよ、チョコレートだってなんだって。
俺が持ってるものなら、金でも時間でも喜んで差し出す。もし持っていないものなら、手に入れるために惜しまず努力する。
そのことを口に出して伝えたら、宇田はどう思うだろうか。欲張りなオマエはきっと、俺なんかでは手にできないようなものをさらに欲しがるのかもしれない。
ちょうど、かぐや姫の求婚場面が頭を過ぎった。俺はかぐや姫と結婚したくてたまらない、馬鹿な男の、大勢の中のひとり。
かぐや姫が俺なんかと結婚したくないから欲しがってるふりしてることなんて、とっくに理解している。それでも俺は、きっと命がけでそれを見つけに行く。
貴女を俺だけのものにできる可能性があるならば、命なんてあまりにも安価だ。
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