第2話 低温火傷につき、
がちゃんがちゃんがちゃん。少し前からリビングに繋がるドアの外が騒がしかったので、すでに意識は起きていた。
あれ、俺って怪獣か何か飼ってたっけ。この騒音は早朝の人間がなせる技じゃない。
今後の宇田との距離の置き方ついて悩んでいると、俺のいる寝室のドア越しに、しつこいノックが鳴り響いた。子どもか。子どもならもっと可愛いだろうけど。
「由鶴ちゃーん!起きなきゃ遅刻しちゃうよー」
……仕事、変えようかな。
なんのカバーもついていない黒い裸のスマートフォンに表示されるのは、5:30の文字。5時半。俺ね、5時半に上司から起こされてるの。どうよ、ブラック企業でしょ。
低血圧の俺はベッドから起き上がる気になれず、宇田が寝室に踏み込むことはしないのを良いことに、そのまま寝たふりを続けようとした。
だって、出勤は7時でもじゅうぶんだ。なんなら社長出勤という言葉もあるくらいだし、宇田もたまには遅刻しろよ。それが社員のためだ。
だというのに、ドア越しに張り上げた声で呼び起こされた。
「出社前に家寄りたいから、もう起きなきゃ間に合わないの!」
「タクシー」
「勿体無いでしょ、由鶴が運転できるんだから」
なにが勿体無いんだよ、オマエそれでも社長だろうが。ていうか、俺の人権どうなってるわけ。
そう言い返したいけれど、朝から大きな声を出して言い返すがしんどい。それに、俺自身もタクシーを使うという行為が苦手だ。あの個室空間で初対面の人とふたりっきりというのは苦痛だ。
俺も、不必要な出費は好きじゃないし。今はそれなりに裕福だとしても、しょせん、金は有限だ。俺も宇田も、かなり裕福な生まれであるため金に困ったことはないけれど、いま、自分の会社を経営している身としてはいつだって油断できない。
などと理由をつけて、俺はしぶしぶベッドから降りた。空調が整えられているとはいえ、冬の朝は肌寒い。また布団に戻りたい気持ちを堪えながら、カーテンを開けて暗い明け方の空を眺めた。
ここまできたら、堕ちるときもあの女といっしょだ。
そう思うと何故か心強いのは、ここだけの秘密。
流れ作業のように適当なスーツに着替えて、寝室を出る。明るいリビングはもうすっかり朝を迎えていて、ダイニングテーブルにはすでにブラックコーヒーとチョコレートが用意されていた。
「起きてくれてありがとう」
昨日と同じスーツに身を包んだその女は、いつもと違って長い髪をひとつに纏めていた。ほっそりした首筋がなんだか毒のように感じて、俺は静かに目をそらす。
移した視線の先にあるコーヒーからは湯気がたちのぼっていて、淹れたてであることに気付かされた。俺がなんだかんだ起きてやるということを全て見越して、時間を逆算していたらしい。
朝食をとるなんて無謀すぎる低血圧人間のために栄養価の高いチョコレートを置いておくその女には、もう一生敵わないのだろう。
「いただきます」
「めしあがれ」
「オマエは何か食べたの」
「いまダイエット中」
「じゃあ、珈琲だけ飲めば?」
宇田は年中無休でダイエットをしているので、そこを深く掘り下げることはしない。余計なことを言っても、そんなの、余計なだけだ。
彼女は“由鶴に言われたから”というポーズでじぶんのカップに珈琲を注いだ。ダイエットには常に言い訳が必要で、俺は進んでその言い訳になってあげるようにしていた。
マグカップを手にとって、ニュース番組に顔を向けたまま、なるべく無感情な声で会話する。
もとから感情的とは程遠い人間性であるが、この女のことになると少しだけ、ほんの少しだけそうなる自覚がある。感情なんて、最も見せたくない相手だというのに。
宇田の淹れる珈琲、俺の好きな濃度、温度、酸味、苦味、量、もうすべてにおいて完璧な珈琲だ。もう何年も淹れたり淹れてもらったりの仲だから、当然かもしれないが。
そのとき、なんとなく茅根は宇田の秘書だということを思い出して、奴がどんな珈琲を淹れるのかと考えた。
茅根はハイスペック秘書だから、きっと宇田好みのそれを甘ったるい表情のまま淹れるだろう。それでまた、チョコレートみたいに甘い言葉でもかけるに違いない。
胸焼けしそうになった気持ち悪さをカフェインで流し込んで、それから早朝6時にできる範囲のスピードで支度を整えた。
6時半を過ぎて、ようやく車に乗り込む。悪気もなく後部座席に乗り込む宇田を見て、自分の婚期がまた遠のくのを感じた。
「オマエも車買いなよ」
「由鶴が運転してくれるのに?」
「俺がオマエを乗せて運転したくないから、買ってほしいんだけど」
冷たい温度で言葉を返すも、何故だかこの女の前では口数が多くなってしまう。いや、あくまで当社比で。
宇田の家はすぐそばで、歩いたって15分程度の距離だ。そんな短時間だし、無言の車内も悪くない。というか余計なことを口走るよりも、ずっと良い。
おそらく俺の家と同じくらいの家賃で借りているマンションに着いて、慣れた流れで車を停めれば、宇田はひょいと軽快に降りた。彼女には朝と夜の感覚がないのだろうか。
「ありがとう」
「早くして」
「由鶴も寄って行きなよ」
「先に出社したいんだけど」
ここで自分の意見を尊重して先に出社しておけば良かったのに、社長様の言いなりである俺は宇田の住処に足を踏み入れた。
あまり女らしくないすっきりした部屋だけど、服だの靴だの鞄だのという女特有の持ち物はかなり揃っている。宇田にとっては容貌そのものも仕事道具のひとつであるし、着飾ることが彼女の唯一の趣味だと思う。
そんな女はいま、オーダーメイドされたスーツに着替えているのだろう。客を放ったらかして、姿が見えない。
やることもないので、リビングのソファに腰を下ろして、ふわっとあくびを漏らす。暇だ。まじで車買えよ運転しろよ。
ぼんやりとした退屈な思考のもとで白い部屋を見渡すと、そこには不釣り合いなものが落ちていた。ミント色とグレーの幾何学模様が目立つ、洒落た細身のネクタイだ。
俺は心臓の位置を確かめてから、そのネクタイを拾い上げて、持ち主を思い浮かべる。宇田に男の影はないから、やはりあいつで間違いないだろう。
でも、部屋にあげるような仲だとは知らなかったな。たしかに中性的ではあるが、茅根は明らかに成人男子だ。
ふうん、どうでもいいけど。
ふたり同時に出社した俺たちに、茅根は「ほんと仲良しですねえ」と柔らかく笑った。何を考えてるのかわからん奴め。
相変わらず宇田は茅根には心を許しているから、きゃっきゃとハイタッチなんかをしていた。毎朝こんな感じらしい。気持ち悪すぎ。見たくもない。目が腐る。
俺は千賀とハイタッチする機会なんて、今のところあるわけない。まず千賀に不必要に触れたくないし。それは千賀が嫌いだからとかってわけじゃなくて、普通に人に触れるのが嫌なだけ。いや、だって、どうよ?朝からハイタッチしてる俺。
千賀のことは、よくできる秘書として接している。それ以上でもそれ以下でも無い。
間違っても、家にあげたりすることなんてない。
それから、邪念を振り払うように仕事をすれば、時間はあっという間に過ぎ去った。やらなきゃいけないことは尽きないが、それも経営側にとっては有難いことだ。
こうやって寿命を削るような毎日を繰り返している。延命の単位は1日。
そろそろ帰宅しようと思い、近くで資料の整理をする千賀に「ちょっと早いけど、片付いたから帰るね」と声をかけた。午後7時をまわったところだ。
彼女は短い黒髪を揺らして「かしこまりました、お疲れ様です」と短く答える。やや冷たい印象を与える美人の彼女は、宇田が選んだだけあって俺の秘書って感じがするし、そんな宇田とは真逆みたいだ。
数時間ぶりにプライベートのスマートフォンを確認すると、宇田から『ハニー、きょうもお仕事おつかれさま♡』という吐き気がこみ上げるような内容が受信されていた。これ、たぶんだけど削除しないと呪われるやつだ。慌てて削除する。
上着を羽織って副社長室から出ると、普段、社長室と副社長しか使われていないこの階の廊下は静まり返っていた。防音設備のおかげである。基本的に宇田と茅根はうるさいので、おそらく社長室は今日も賑やかだ。
交渉で手土産として頂いた和菓子を持って、ふらりと社長室に立ち寄る。いちおうポーズとしてノックをしたけど、昨日のやり返しとして返事を待たずに重厚なドアを開けた。
無言で入ってきた俺にすぐさま気づいたふたりは、どうやらのんびりと仕事の話していたらしい。ふたりが同時に顔を上げて、資料から視線を俺へと移した。
「おつかれハニー」
「お疲れ様ですハニー副社長」
社長様の偉そうなデスクに着いている宇田は、片手をあげて気持ち悪い挨拶を。秘書である茅根も便乗して、席から立ち上がって「お茶淹れてきますね」と微笑んだ。
コーヒーではなく、お茶。俺が提げているの虎が描かれた黒い高級感のある紙袋から、土産が和菓子であることをすぐに見つけたのだろう。
茅根はすっと音もなく給湯室に向かったらしい。必然的に宇田とふたりっきりになる。急かすのも申し訳ないので、鼻歌を歌いながら仕事をさくさくと片付けているのを黙って眺めた。
それからある程度仕事が片付いたらしい宇田は、先に俺が勝手にくつろいでいた接待で使うソファに移動してきた。俺の正面、向かい側に座る。
仕事モードの凛々しい横顔はもうなくて、楽しそうな瞳には光が集まっていた。
「ねえねえ知ってる?」
「知ってる」
「いや、たぶん知らないよ」
「じゃあ知らなくていい」
どうせくだらない内容なのは分かりきっている。そう知りながらも「なんなの」と促す俺は、間違いなく良い部下だと思う。
「社内の女の子たちでね、副社長派と茅根さん派があるらしくてさ!」
「へえ」
「もう女の子たちのお話って、なんであんな面白いんだろうね!いっしょにランチしちゃったよ!」
ほら、やっぱりくだらない。
でも、話しかけにくい副社長の自覚はあるから、オマエがそんなで良かったよ。茅根のお茶を待ちながら、適当に話を聞き流す。
正直、学生時代から、自分の容姿が異常に好まれるということは自覚していた。こんな愛想のない男に惹かれるのは理解できないけど。
「学生のときは、中学からずっとファンクラブとかあったよねえ」
「知らない」
「わたし、いっぱい情報提供してあげるから、会長になれたよ」
宇田のしょうもないカミングアウトを聞いて、俺はゴホッとむせてしまった。良かった、こんな姿を茅根に見られたら一生笑われる。
なんとか冷静を装って、返事する。
「それは初耳だね」
「由鶴のレア写真とか見せてあげたし、由鶴の癖とか教えてあげたらあっさり会長になれたよ」
「俺を売るな、あと、俺の癖って何」
「まあ、それは教えられないけど」
いや、教えろよ。そう言葉を返そうとしたのに、ずっと頭の裏側を支配していた独り言が先にこぼれてしまった。
「俺、好かれてたんだ」
すごい迷惑なんだけど、と慌てて誤魔化しを付け足す前に、「好きじゃなかったらこんないっしょにいないでしょ」と真っ当なことを言われて、先手を打たれた。
この女は、その甘美な言葉の効力を知らない。無表情の俺をどれだけ動揺させているのか知らない。
あるいは、知ったうえで知らないふりをしているのだろう。そういう、危ういくせに絶対的な距離感を保ってきた。
だから、それでいい。
だって、同じだけいっしょにいる俺も、つまりはそういうことなのだ。
絶対、口には出さないけど。
だけど、心の奥底では、深い場所に閉じ込めた記憶がゆっくりと色を見せてくる。
———あの頃のオマエは、俺のこと、嫌いだったくせに。
そうするとちょうど良いタイミングで、茅根の「失礼しまーす」と間の抜けた声が入ってきた。これが図られたものなのかわからないけど、俺は茅根以上に空気を読む人間を知らない。
お盆に3つの湯飲み茶碗と、宇田が気に入っている和柄ブランドの急須を乗せている。この秘書は、もちろんしっかり自分もお茶を楽しむつもりらしい。
「ハニー、おまたせ」
「待ってない」
俺と宇田の間にある、接客用ローテーブルに純和風なそれらを並べてゆく茅根。この部屋にも、彼自身にも和風なそれらはあまり似合わない。
それから、いちおう上司である俺を安く揶揄うな。俺は宇田のハニーでもないが、茅根のハニーになるつもりもない。この和菓子、毒入りじゃないかな。
「ハニー、お菓子、はやくはやく」
和菓子が大好きな宇田に急かされて、俺はわざとゆるい動作で貰い物の羊羹を袋から出した。
濃厚そうな色をした長方形の羊羹を3つに切り分ける茅根は、わざとひとつだけ大きくして「あ、なんか切り方間違えたなあ」と笑った。
「わたしその大きいのがいい!」
「社長命令なら仕方ないですねえ」
「茅根だいすきだー」
当然のように宇田の隣に腰掛けた茅根にすこしだけ覚えた嫉妬を、こほん、咳払いして逃す。こんなことで苛々していては、こいつらと仕事なんてやってられない。
俺の向かい側に座る宇田と茅根は、ほんとうに仲が良くて常に楽しそうだ。昔から、夕暮れの生徒会室から変わらない光景。
俺たち3人は、名門私立大学の付属である幼稚舎からの付き合いだ。生まれつき裕福で、境遇も近いとことがある。
宇田グループ総帥の愛娘である宇田凛子、深月財閥の次男である深月由鶴、それから華道の名家である茅根家の息子である
茅根とは幼稚舎で出会ったけど、宇田とは生まれる前からの付き合いと言っても差し支えない幼馴染。
宇田の家と俺の家は、まあ、大枠で言うならライバル関係にあるしれないが、生まれながらに家族ぐるみの付き合いであり、あまりそのことを意識したことはない。むしろ協力関係にあるくらいだ。
そんな日本屈指といっても過言ではない2つの家柄から、同い年の子供同士が好き勝手に手を組んで立ち上げたのがこの化粧品会社だ。
当然ながらその話題性は抜群で、起業した当時から話題を呼んでいた。いつだって付き纏う実家の大きさをまだ超えることはできないけど、それでも、自分たちの手で育ててきた会社。
俺は結局のところ仕事が好きだし、何よりこの会社が好きだ。きらきらとパワーを放って働く若手たちを見るのも好きだし、たまに彼らのミスで三日三晩の仕事漬けがあったりするけど、それも許してしまう。
それに、社長椅子に腰掛けて、優雅に微笑む宇田を見るのも嫌いじゃないのだ。
「あ、茅根も聞いてよ、きょうね、わたし女の子たちと社食ランチしたんだけどさ、」
楽しげに話す宇田の声に、現実に引き戻されて、目の前の自分のぶんの羊羹をぼんやりと眺める。だって俺はこの話、さっきも聞いた。
きゃっきゃと俺のときよりも詳しく語る彼女に、茅根は聞き流すように、それでも丁寧に相槌を打っていた。この男が魅力的なのは、天性だなあと感じた。ひとくち含んだ緑茶は、妙に苦かった。
「へえ、俺もいよいよ副社長と互角に並ぶようになったかあ」
「でもさ、たしかに由鶴と茅根って対称的だよね」
「そうですかね、ちなみに社長はどっち派なんですか?」
羊羹を頬張る宇田に、さりげなく質問を投げかける茅根。それに、ばくばくと心臓が音を立てたのは、この場で俺だけだったらしい。
宇田本人は、悩むそぶりを見せながらも、もぐもぐと羊羹を咀嚼している。さすが宇宙人。
「やっぱり副社長派かなあ」
「えー残念ですねえ」
ちっとも残念そうには見えない余裕のある表情で、お茶を飲む茅根。わざとらしくこっちを見るな。ヨカッタネ、じゃねえよやめろ。
俺は緩む口もとがばれないように、無視を決め込んで再び緑茶で舌を濡らした。羊羹の甘味と緩和されたのか、さっきのような苦味は感じなかった。
せっかくおいしい時間になったのに、決して思い通りには進んでくれないのがこの女。
「でも、彼氏にするとなると話は別かもね」
添えられたひとことにを理解したこころが、悪い位置に動いたのを感じる。
この話の続きを聞いてないふりをして聞かなきゃいけないなら、呼吸をやめてしまおうかと思った。
「ランチのときさ、やっぱり副社長は完璧主義っぽいし、冷たくて近寄り難いけどそこが良いって話してたのね?」
「まあ、間違ってないしねそれ」
「でも、意外と恋人には熱をあげるタイプかもよ〜って話になったのだけどさ、」
敬語を解いて相槌を打つ茅根に、話を続ける宇田。俺は息もうまくできずに、無言で伸びてきた自分の爪を見つめていた。
たぶん、このあと凶器になるほどの言葉は続かない。この程度の苦痛は、もう、何万回も繰り返してきたから、知っている。知っているけど、慣れずに、俺は耳をふさぐこともできずに次を待っていた。
「わたし、由鶴に彼女いたのも見たことあるけど、そのまんまだし、ぜんぜん熱っぽくなかったんだよね」
もし、これが確信犯なら、彼女は凶悪な犯罪者だ。
物わかりの良さそうな賢い女性を選んでいたと思う。心から愛していましたとか言うつもりはないけど、きちんと向き合っていた。
たしかに俺は彼女たちに熱を上げたことはなかったし、完璧主義だし近寄り難いし冷たいと思う。
でもね、宇田。オマエはなんにもわかってないよ。
だって俺、たぶん、好きな人にはとことん尽くすし、平伏して跪いて完全降伏する男だよ。
「ごめん、そろそろ俺は帰るよ」
いつも通りを装えば、期待以上にいつもと変わらない抑揚のない声色が空気を震わせた。自分の感情表現の下手さに嘲笑がこぼれる。
「由鶴が帰るなら、わたしたちも帰るよ」
「あ、俺は片付けしておくので先におふたり帰られて結構ですよ」
「うーん、それは悪いから、じゃあわたしも片付け手伝ってから帰る」
「それじゃあ俺が社長を送り届けます、任せてください」
リズムよく交わされるふたりの会話には、俺の入る隙がない。「片付けありがとう、じゃあ、また」と言葉を吐いて、何か得体の知れないものを振りきるように、社長室から立ち去った。
社長室は、二人の部屋だ。俺はどうしても、余所者の気分。
3人というアンバランスな構図だけど、俺らは絶妙な距離感と絶対的な信頼関係によって仕事上かなりうまくやってきた。そこにプライベートな感情を持ち込むのなら、俺が悪い。
今夜も茅根は、宇田の部屋に寄っていくのだろうか。ふたりで何をするのだろう、仕事の話か、仕事の話をしながら食事か。あるいはもっと、他のこと。
タイミング良く現れたエレベーターに乗り込めば、姿見の鏡に写る自分と目が合った。
整っていると褒められる容姿だが、人間味に欠けた、全体的に黒っぽい冷酷そうな男に見える。癖や味のない顔立ちだ。
宇田と出会わなかったら、俺は感情というものを知らずに生きてきたかもしれない。
それぐらいに、自分の軸にいてすべてを支配している。
俺は、宇田のためならなんだってするし、彼女がすることには何にも反対したくないし、ほんとうはどろどろに甘やかして、くだらない我儘をきいてあげたい。そのせいで、俺がいないと何もできない女になってしまうというなら、それこそ本望だ。黙って、ずっと隣にいる。
そんな彼女が俺に与えた立ち位置は、恋人でもなく親友でもない、仕事のパートナーだった。だから俺は、宇田が望む副社長として、適切な対応をするしかない。
正直、宇田と最も親しい男であるのは自他共に認めていたし、いつか自然に結ばれるはずだと恥ずかしい程に楽観していた。宇田はそんなつもりさらさら無かったのに。
そんな仕事のパートナーをもうひとり、宇田自身が茅根に頼んだときの苦い味を俺は決して忘れないだろう。
控えめを装って社長の補佐に徹する茅根は、どう見たってそれが適任で、俺がやりたかったどろどろに甘やかしてあげることも、我儘をきいてあげることもしっかりできる。さらには俺よりずっと会話も上手くて、気配り上手だ。
エレベーターが一階に到着すると同時に、先ほど聞いてしまった宇田の無神経発言が脳裏をよぎった。
彼氏にするとなると、話は別。
そう、誰よりも近くにいて、理解して、依存しあっているくせに。
俺は、宇田にとっての恋人としての対象にはなれない。
「お疲れ様です、副社長」
いかにも話しかけにくい俺に、珍しくかけられた声の主に視線を向ける。肩のあたりで短く切り揃えられた黒髪の女、秘書の千賀だった。
出来るキャリアウーマンを形容したような彼女は、深い灰色のスーツを着て、もう夜だというのに、うちの会社の化粧品のおかげで完璧な顔を保っていた。
立ち止まることもない俺に、同じ速度で隣を歩く千賀が話し続ける。
「もし良かったら、今からお食事いきませんか?」
「食べたい気分じゃない」
「副社長、声をかけないと昼食もとらないので心配です」
「余計なお世話だよ」
たしかに俺は食べることにあんまり執着がないけど、それは欲求が人より少ないだけの話だ。ほら、その証拠に生きているし。
というか、秘書とわざわざ食事をすることのほうが疲れる。意味がわからない。
それなのに、千賀は何を思ったのか。
「社長と茅根さんもご一緒でしょうし、私達も行きましょうよ」
艶のある髪を片耳にかけながら、囁くように誘ってきた。
ああ、そういうこと。俺はその姿を見て、妙に興醒めした気分だった。
「ねえ、千賀」
俺はそっと露になった彼女の耳にくちびるを寄せて、その誘惑に乗るような素振りを見せる。
驚いたように息を吸い込む女はもう、秘書としての千賀じゃない。ひとりの女だ。
優秀な秘書である彼女に対しては、部下として大切に接しているつもりでいたけれど。ひとりの女として接してほしいなら、俺には無理な願いだ。
わるいけど、俺は無愛想だとか感情表現が下手だとか、そんな不器用で可愛げのある人間じゃない。
他人なんかに、抱く感情も無いってだけ。
駐車場にたどり着き、もう自分の車が見えている。はやく帰りたい。
そのためにはこの女を振り払わないと。
「宇田に憧れているなら、安い女はもう捨てろよ」
俺に色目使っているようでは、憧れの女社長にはなれないよ。
立ちすくむ彼女を残して、俺は自分の車に乗り込んだ。
宇田の乗らない車内は物足りない程の静けさで。ああ腹立つ。宇田は今夜、茅根に手料理でも振る舞うのだろうか。俺の貰ってきた羊羹食ったくせに。
このとき、もうすでに秘書のことなんて頭の隅にもなくて、薄情な自分に後から気付いてわらってしまった。
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