第3話
「それでは皆さん、こちらの画面を見て下さい」
帝都大准教授の佐々木は言った。
50人余りの聴講者が画面を見る。
今行われているのは、カルチャースクールで開講している一般向けの教養講座で、私の勤める会社が運営していた。
今日の講座のタイトルは「脳の不思議について」。
朝から、聴講者の出欠確認、講師の出迎え、音響設備や大型のディスプレイの設置など会場の準備で忙しかったが先ずは無事始める事が出来た。
ディスプレイの画面中央には横長の長方形が映し出されている。
「これを少し見ていてください」
そう言って、少しすると、パッと画面が切り替わり、そこには先ほどの長方形と幅が同じで高さが高い縦長の長方形が映し出された。
「どうですか皆さん。この変化、皆さんにはどう見えたでしょうか」
少し聴講者がざわついた。
「さっきの長方形が伸びたんですよね、普通に」
ひとりの聴講者の声に多くが頷いた。
「伸びていく途中の画像、見えましたよ、一瞬でしたけど」
別の聴講者が自分の動体視力を誇るかのように声を上げ、それにも何人かが頷いた。
「そうですか。見えましたか」
佐々木は言って、画面を前の背の低い長方形に戻した。
「実は、これ、2つの長方形しかないんです。途中の高さの画像は挟んでなくて、背の低い長方形の画像を背の高い長方形に切り替えただけなんです」
会場全体がどよめいた。
「ここが脳の不思議なところで、背の低い長方形の後に幅が同じで背の高い長方形を見ると、まるで前に見ていた長方形が伸びていくように、途中の、実際にはない画像を、脳が勝手に作って見せてしまうんです。まぁ、正確に言うと、人がモノを見るというのは目じゃなくて、その、目というのはただのカメラであって、見ているのは脳ですから、脳の中で『見た事にする』という事なのかも知れませんが」
「脳が勝手に途中の画像を作るんですか?」
「ええ、そういう事になります。これ以外にもいろいろな例があります。例えば人間の目には盲点というのがありますね。目に入ってくる風景は目のレンズで屈折して網膜に映り、その情報が脳に送られて、我々はその風景を見ているという認識になりますが、網膜にある盲点にだけはその風景は映らない。でも我々の見る景色は全て連続していて、どこかにポツンと穴が開いてるなんてことはありませんね? 両目だから? いえ、片眼で見てもどこかにポッカリ穴が開いている事なんてありません。もしあったら直ぐに眼科へ行った方がいい」
何人かが笑った。
「これは、ほんとは情報の抜けているところを脳が周りの景色と違和感のないように作ってあたかも見えているようにしているんです」
会場がまたざわめいた。
「嘘だと思うならご自身で試してみればいいですよ、簡単に実験できますから。白い紙の真ん中あたりにバツ印を書いて、そこから右に五センチほど離れたところに小さな丸印を書いておきます。それから左目を瞑って右の眼でバツ印の方を見ます。この時視野に丸印が入っている事を確認します。丸印を見ては駄目ですよ、あくまでもバツ印見ながら、その視野で丸印を見るんです。そして、バツ印を見ながらその紙を目に近づけていくと、途中で視野に見えていた筈の丸印が見えなくなるところがあります。その時、その丸印の画像は盲点に当たっているわけです。だから見えなくなる。で、次に今度は白と黒を逆にしてみます。黒い紙に白で書いた白バツと白丸を書いて同じことをするんです。すると今度は、その白丸が盲点に当たって見えなくなるところで黒くなっちゃうんです。これ、明らかに周りの色に合わせて脳が色を付けてるって事です」
会場はまたどよめいた。
佐々木は一般向けの講演に慣れているのかもしれない。
一般の人達を驚かすのが上手い。ツボを押さえている。
この人選は正解だったなと私は満足していた。
話は聴講者を引き付けたまま進んでいき、時間も終わりに近づいてきた。
「…と、本日はいろいろ脳の不思議についてお話してきましたが、最後に興味深いお話を一つして終わりにしたいと思います。最近、ある実験結果が物議をかもしています。それは例えば人がモノをつかむとき、脳がモノをつかめと命令してからその信号が手に到達するまでに0.2秒かかります。ところが手には、脳が命令する0.35秒前につかめという信号が出されている事が分かったんです。これは何度実験しても同じ結果になる、疑いようのない事実なんです。これ、大きな疑問ですね。脳が命令する前に手は誰かからつかめと言う命令を受けているという事になりますから。そして脳は後付けで、あたかも自分がその命令を出したように思っているという事になっちゃいます。これはいったいどういう事なんでしょう。誰がこの命令を出しているんでしょう。これに関してはまだ分かっていません。このように脳の研究はまだまだ途中だという事をお伝えして、私の話は終わりにしたいと思います。ご清聴ありがとうございました」
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