第6話……見知らぬ着信
体が疲れないせいか、眠れない日々が続いていた。洗面所の鏡に映った姿は、目の下のくま、痩せこけた頬、酷いもんだ。
眠れないことを担当医に相談すると、睡眠薬を処方してもらった。
睡眠薬も様々な種類があり、ふらつきや、残眠感などの副作用があることを初めて知る。
就寝前に服用し、ノートパソコンを開く。ホームページに設定している検索サイトのトップページには、ずらりと時事ニュースが並んでいた――
目が疲れたのか、睡眠薬が効いてきたのか、急に眠気が差し込み、自然と瞼が落ちる。
そろそろ寝よう。電源を落とし、ノートパソコンを閉じると、眠気に身を任せた。
この感覚は……4度目にもなると、流石に馴れてくる。ノートの最後のページに書いた内容は、高校の時に街中で壬生さんを見かけた時のことだ――
高校2年の時、ジーンズに嵌まりイギリスやフランスのメーカーを好んで購入していた。ネットで調べた結果、セレクトショップに良い色落ちとダメージの入ったインディゴブルーのジーンズを見つける。
実家から地下鉄電車で、乗り換えなしの約20分。連絡通路から地上に出ると、大きな交差点を挟んだ先にセレクトショップの入っている、大型ショッピングモールがあった。
その大きな交差点で信号待ちをしていると、傍を横切り、少し前に立つ女性がいた。
見覚えのある後ろ姿。さりげなく前に進み、チラっと横顔を見ると、それは壬生さんだった。
あの時は気づいていながら声を掛けることが出来なかった。むしろ、壬生さんから、声を掛けてくれないかなと思ってたぐらいだ。
「壬生さん?」
「あ、やっぱりヒクソンだった! 久しぶりだね! これからどこか行くの?」
やけにテンションが高いな。
「久しぶり。今から目の前のモールにジーンズを買いに行くところなんだ」
「そうなんだ! ねぇ、付いてっていい?」
「用事があるんじゃないの?」
「アルバイトまで時間が余ってるんだ」
こうして、壬生さんと一緒にジーンズを見に行くことになった。これも前回の夢が反映された結果なのか――
セレクトショップに着くと、真っ先にジーンズコーナーへと進み、目的の物を手に取る。ネットでは、サイズ、在庫は要確認と表示されていたが、あって良かった。
「かっこいいね、それ! でも、値段も結構するね」
値札には39,800円と印刷されていた。高校生にしては大金だが、こつこつとボーリング場でアルバイトをして貯めたお金だ。財布には6万ある。
「その分、長く履けるものだから、元は取れるよ」
「え、じゃぁ、今日履いてるジーンズも?」
「これは4万5千円ぐらいだったかな」
壬生さんは驚きの余り、言葉を失ったようだ。
試着するために店員さんを呼ぶ。『いつもありがとうございます』とあいさつを交わし、試着室へと入る。
前、後ろを見て、最後に尻のラインを見る。よし、尻のラインに
「76cmでしたよね?」
「はい」
裾の長さを合わせている間、壬生さんは少し離れた場所で待っていた。
「もう少し待ってて」
「全然、気にしなくていいよ」
『彼女さんですか?』店員が小声で聞いてきた。
「なら、良かったんですけどね」
「じゃぁ、これからですね」
こんな単純なやり取りが、少し嬉しかった。
「こんな感じでどうですか?」
「はい、大丈夫です」
「では、着替え終わったら、お会計しますね」
試着したジーンズを脱ぎ、店員に渡すとレジへと案内される。裾直しに1週間ほど掛かるが、状況によって仕上がり日が変わると説明される。その時は連絡を入れるということで、前回と同じ携帯番号で大丈夫ですと答える。
「終わった?」
「うん、待たせてごめん」
「だから、大丈夫だって! それより、常連さんなんだね」
「同じメーカーのジーンズが好きな店員さんで、意気投合したんだ」
「そっか。ヒクソンって結構、大人なんだね」
それから2人でTシャツや、ワンピースを見て周り、一段落ついたところで、カフェレストランへ入る。
「結構歩いたねぇ」
「ほんと、良く歩いた」
席に着き、程なくしてウエイトレスがオーダーを取りに来る。アイスコーヒーを頼み、壬生さんはアイスレモンティーを頼んだ。
「ねぇ、今度は私の服を一緒に見に行ってくれない?」
「もちろん。何かイメージしてる物があるなら、ネットで調べておくし、一緒に行こう」
「うん! じゃぁ携帯の番号を教えるね」
当たり前だが、現実の壬生さんの携帯番号は知らない。それは夢の中でも同じで、この時だけは何も聞こえなかった。
「こんなに楽しいとは思わなかったな」
「同じ気持ちだよ……ずっと続けばいいのにと思うくらい」
「またまたご冗談を。あぁ、でもバイト休んじゃおうかなぁ」
「あ、それは駄目!」
予想外の答えが返ってきたのか、壬生さんは少し驚いた顔をする。
「突然、休んでしまったら他の人に迷惑が掛かるよ。代わりの人を呼ぶ手間も掛かるし、評価も悪くなって、いいことなんてないから」
「……そうだよね。ヒクソンはたまにいいこと言うよね」
「たまに。は余計じゃない?」
「えっ? 氷川さん、必要経費に含まれてますよ?」
近い距離での他愛もない会話。壬生さんと過ごした時間は本当に楽しくて、文字通り、時間を忘れるほどだった。
笑顔や仕草、そして声。全てが切なく、心に響く。
「ヒクソン、泣いてるの?」
「あ、いや……」
――別れ際、切なさの余り手を差し伸べてしまった。きっと、壬生さんは握手を求められたと思っただろう。
壬生さんの手に触れ、ゆっくりと、未練がましく手をほどく。実際、壬生さんの手に触れたことは一度もない。この時も手の感触はなく、何か無機質な物に触れている感覚だけが残った。
やがて視界は光に包まれ、夢の終わりを告げる。目を覚ますと、暗い空が小窓から見えた。
もう夢の中でさえ、壬生さんには会えない
……これが最後の夢か――
眠れないまま時間だけが過ぎる。最後の夢をノートに書き足し、ベッド横にある
ノートを携帯の下に差し込んだ瞬間、強烈な吐き気に襲われ、短い間隔でシーツを汚してしまった。
経験したことのない急激な眩暈。
怖い。苦しい。泣き叫びたくなる不安感。
たまらずナースコールの呼び出しボタンを押し『誰でもいい、早く助けてくれ』と叫ぼうにも声にはならない。 迫る暗闇に抗おうと目を見開くが叶わず、視界は強制的に閉じられいく。
最後に見た光景は、対面の壁に掛けてあるカレンダーだった――
真っ暗だった視界が徐々に白く輝く。辺りは真っ白な空間に包まれ、体は海面に揺ら揺らと浮かんでいた。
いつまで揺られていればいいのか。はっきりとしない意識の中で、時間間隔だけはある。
しばらくして、突然、脳内に流れ込む言葉があった。
“携帯番号を教えなければよかった”
“壬生さん、俺から恵一に連絡するから”
“中学校の同窓会とは言えなかった”
“壬生さん、恵一は参加できないって”
“恵一、嘘ついてゴメンな”
健太郎か……何を謝ってるんだよ。そんなことより、いつまでこうしてたらいいのか教えてくれよ。
――時折アラート音を織り交ぜながら、電子音は病室に鳴り響く。
担当医師は告げた。
「今晩が峠です。もし御親戚、御友人が居られましたら、直ぐにご連絡してください。それまでは持たせるように致しますので」
母親は恵一の手を擦り、名前を祈る様に繰り返し呟く。
父親は携帯を取り出し、どこかに連絡をしている。
妹の利絵は、恵一の姿を直視出来ず目を逸らしたままだ。
しばらくして、電子音に紛れるように恵一の携帯音が鳴る。5回コールしたあと、留守番電話にモードが移行した。
『あ、氷川くん? 壬生です。同窓会、参加できないって聞いたから。えっと、だから、その前に会いたいなって思って……その連絡待ってます』
受話音量が最大になっていたのか、メッセージが僅かに漏れた。その声に床頭台の傍にいた利絵が気づく。急いでカバーを開き、画面を確認するが、携帯番号だけが表示され名前はなかった。
“たしかに壬生って聞こえた”
利絵は掛け直そうと、画面を上部へなぞる。携帯はロックされていて、4桁の暗証番号を求められた。
まず、恵一の生年月日を入力する。しかし画面は、拒否を示す様に小刻みに揺れる。次は恵一が住んでいたマンションのオートロック番号を試みた。
ロック画面に表示されていた壁紙が、ホーム画面の壁紙に変わる。上部には留守番電話のメッセージが一件あったことを知らせる表示があった。
念のため確認すると、壬生さんからだと確信する。着信履歴を開き、利絵は掛かってきた携帯番号に触れると耳に当てた。
「もしもし? 氷川くん?」
「壬生さんですか?!」
「えっ、そうですが……」
「氷川の妹の利絵です!」
「あの、ちょっと……」
壬生紗季からすれば、当然の反応だった――
どうすれば信用してもらえるのか。早くしないと通話を切られてしまう。焦った利絵は周りをきょろきょろと見渡す。そして、床頭台の上にあった古びたノートを掴んだ。
「壬生さん、よく聞いてください!」利絵はノートの内容を見て疑問に思ったが、いまはどうでもいいと、紗季に出来るだけ簡潔に伝えた。
小学校の時、グランドで会話をしたこと。
運動会で鉢巻を巻き直したこと。
中学校の時、放課後の教室で隣り席に座ったこと。
高校の時、偶然出会い、ショッピングモールで一緒にジーンズを買いに行ったこと。
そして兄がいま、危篤状態であることを。
「わかりました。利絵さん、病院の場所はどこですか?」
息を飲み込み、小さく吐き出したあと、声を詰まらせないように紗季は力強く答えた。
病院の場所伝え通話を切ると、利絵は恵一の腕にしがみつく。
「お兄ちゃん、壬生さんが来てくれるからね? それまで絶対死んじゃ駄目だよ……」
――利絵が恵一を見守っていると、手に持った携帯に着信が入る。
「利絵さん、病院に着きました! ごめんなさい、病室がわからなくて……」
お互いに気が動転していたのだろう。利絵もまた病室まで頭が回らなかった。
「緩和ケア病棟の202号室です!」
紗季は周りを見渡し、柱に備え付けられた案内図を見つけ、緩和ケア病棟へ向かった。
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