第5話……好きだよ
差し込む陽射しに気づき、目が覚める。
朝から倦怠感が全身を襲っていた。しかし、昨夜見た夢の出来事を忘れないうちに、ノートに書き記そうと、無理矢理に体を起こした――
場面はやはり中学生の頃だったが、思っていたシチュエーションとは、まるで違っていた。
野球部やサッカー部の掛け声が聞こえてくる。右肩には通学鞄を掛けていた。放課後だろうか。
見上げるとプレートには、2ー1と書かれている。たしか俺が2-2で、2-1は壬生さんのいたクラスだ。
予想外の展開に、怖じ気つきそうになったが、健太郎の『楽しめ』という言葉に背中を押された。
廊下沿いの、教室内が見える小窓を覗くと、中央辺りの席に座っている壬生さんの姿が見えた。
意を決して引き戸を開くと、音に気づいた壬生さんが振り向く。どこか元気がないように見えた。
「あ、ヒクソン。どうしたの?」
「忘れ物を取りに戻ったら、壬生さんの姿を見かけたから」
適当な理由を付けて誤魔化す。
「そっか。……何気に2人きりで話すの小学校以来だね」
「中学に入って、クラスが離れたもんな」
初めて会った日のことを言っているのか、運動会の日のことを言っているのか。どちらにしても、夢が反映されていることが分かった。
「壬生さん、何かあった?」
「ちょっとね」
否定しないということは、別に1人になりたい訳でもなさそうだ。
「よっこいしょっ、と」
壬生さんの右隣の椅子に腰を掛ける。
「いきなり、どうしたの?」
「小学校の時、1度も隣に座れなかったから。これはチャンスだと思って」
「あはは、チャンスって! もしかして……ヒクソンは、私が好きなの?」
壬生さんは、冗談っぽいトーンで、悪戯に微笑んだ。
「好きだよ」
その言葉を聞いて、壬生さんはうつむき指で髪を撫で下ろす。まるで顔を隠すように。しかし、その仕草は距離を離すようなニュアンスを含んでいるように感じた。
「……私、ヒクソンを傷つけちゃうな」
そう細く呟き、壬生さんは顔を上げると、黒板の上にある掛け時計に視線を向けた。
「もうこんな時間なの?! ヒクソン、帰らなくて平気?」
そばに居てほしくない。明らかに遠ざけるような問い方だった。
「そうだな。じゃぁ、帰るよ」
通学鞄を肩に掛け、席を立つ。
「あっ、ヒクソン!」
「ん?」
「3年になったら、一緒のクラスになれたらいいね!」
「よし、席の隣は空けておくよ」
「うん!」
壬生さんの気持ちを優先するな、言うな、傷つくだけだぞ。教室を出る僅かな距離の中、勝手に自問自答を繰り返す。
「そうだ、壬生さん」
「なに?」
「片想いは一方通行だよ。告白以外あり得ない。もし、別の道を見つけたら、それは未練っていう道だからね」
重い灰色の空が、徐々に青空に塗り替えられていくように壬生さんの雰囲気が変わった。
「ヒクソン! ありがとう」
そこで視界は光に包まれ、夢が終わる――
壬生さんが時計を見た時、同じように視線を合わせていた。その時、視界に入ったのは時計だけじゃなく黒板も入っていた。
9月8日(金)。黒板の右下辺りには、日直の担当者名と、今日の日付が書いてあった。
この日は“ヒクソン、バイバイ事件”当日だ。そのことに気づいた時、『ヒクソンを傷つけちゃうな』と言った、壬生さんの言葉の意味を理解してしまった。
きっと、あの3年生の彼氏に告白しようとして、放課後まで待っていたと思う。そして、あと一歩、踏み出す勇気がなかったんだろう。
好きな人が、好きな人のために育ててきた想い。告白に至るまでの道のりは楽しいことばかりじゃなかったはずだ。
だから背中を押せたんだ――
ペンを握る手に力が入らない。咳き込む度に痰が絡み、肺が悲鳴を上げる。ティッシュに痰を吐き出すと、血が混じっていた。
腎がんは肺に転移しやすいと医師に言われたことがある。幸い、精密検査では、副腎、骨に転移は見られたが、肺に転移はなかった。
肺への転移による症状は、咳、血痰、胸の痛みだ。
とうとう、来るとこまで来たか――
「お兄ちゃん、大丈夫?」
「薬が効いてるからな、大丈夫だよ」
電動ベッドの背もたれを起こす。ここは緩和ケア病棟にある病室だ。肺に転移が見つかり、緩和ケア外来では困難だと判断され、入院を余儀なくされた。
一般病棟の個室とは違い、都心にあるような、マンスリーマンションのようだった。キッチンもあれば、寝泊まり用のベッドも別に設置されている。
「父さんと母さんは?」
「泊まる用意してるよ」
「大袈裟だな」
「お兄ちゃんを思ってのことだから、そういうこと言わないの」
心に余裕がないのか、つい反抗期のような言葉が口を吐ついてしまう。
「そういえば利絵、仕事はどうなんだ? 大事な仕事を抱えてるんだろ?」
利絵の勤め先はイベント制作会社だ。大事な仕事を抱えているというのは、利絵がイベントプランナーとなり、ヒアリングから撤収までの管理を任されているからだ。
「そうなんだけど、やっぱりお兄ちゃんが心配だから」
「なんだ、行き詰まってんのか」
「えっ、なんで分かるの?」
目の前の問題から逃げ出したい時は、なにかと理由を見つけたがるものだ。
「利絵、抱えてる仕事を成功させたい気持ちは分かる」
「うん」
「けど、その気持ちが強ければ強いほど、考え込んでしまって行き詰まるんじゃないか?」
「それはよく言われる。そういう人は大体、客観的に見ろって言ってくるんだよね」
よくご存知で。
「そうだな……例えば、俺が利絵の部下だったとする」
「うん」
「俺は利絵に成功してほしいから、色んな提案をする」
「うん」
「それだけ」
「は?」
大きな瞳が三角に変わり、思いっきり睨み付けられた。
「要は、成功
利絵は下唇に右人差し指を当て、目線を少し落とした。しかし、ほんとに美人だな。どんな仕草も様になる。
「お兄ちゃん、ちょっと会社行ってきていい? すぐに戻るから」
「もちろん、無理すんなよ」
荒々しくバッグを抱え、利絵は病室を出る。
偉そうなことを言ったが、人のことは言えない。ついさっき、両親に対して『大袈裟』だと口にしていたからだ。
息子に少しでも不自由の無いようにと、泊まる用意をしてくれる両親。客観的に見れば、大袈裟なんて言葉、言えるはずもない――
時刻は午前2時過ぎ。眠りから目を覚ます。水を打ったように静まり返った中に、母親の小さな寝息が聞こえる。どうやら眠っている間に来てくれたみたいだ。
本当に母親は優しさに溢れている。何も言わずに、ただ受け止めてくれる。簡単に出来ることじゃない。
その優しさに、初めて触れたのは小学校2年の時。冬の特に寒い時期だ。学校から家に着くと、ランドセルを背負ったまま、すぐ
「母さん、焼き芋食べていい?」
1歳になる利絵を寝かせて母親が戻って来た。『いいわよ』と正面に座ると、母親の右手首の裏に、一目でわかるほどの赤紫色の痣が見えた。
理由を聞くと母親は、焼き芋屋さんが家の前を通り、『今日は寒いから恵一に買ってあげようと、急いで家を飛び出したら躓いて転んじゃった』と笑って話した。
それを聞いた途端、急いで救急箱から包帯だけを取り出し、見よう見真似でぐるぐると母親の痣の部分を巻いた。痣は肘辺りまであったのを覚えている。
湿布の存在を知ったのは、それから数日後、父親に教えてもらった時だ。
それでも数日間、包帯を取り換える度に『ありがとう、恵一が取り換えてくれるおかげで、どんどん良くなってきたよ』と言ってくれた。
嘘つきだと思ったことはない。本当に……本当に嬉しそうに笑っていたから――
目の縁をなぞりながら、しばらく眠れそうにないと思った。小窓から夜空を眺めていると、不意に母親が寝言を言った。
「どうして……」
もし、その寝言を言わせた原因が自分にあるとしたら、相当な親不孝者だ……ごめんな、母さん。
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