第3話……もしも世界が変わるなら

「では、氷川さん。一週間後に外来までお越しくださいね。また何かあれば、すぐご連絡をください」

「はい、ありがとうございます」


 緩和ケアは、がんと告知を受けた日から適用され、様々な形態がある。通院、入院、在宅療養といった形態だ。現在は緩和ケア外来を受診している。

 幸い、実家から徒歩で15分ほど歩いた場所に緩和ケアを受けられる、がん診療連携拠点病院があった。


 通院を楽にするため、現在住んでいるマンションを引き払い、実家に移る手続きを進めていた。そして、受診日は必ず実家に寄り母親に顔を見せている。その度に帰りが遅くなるのだが、心配させるのも忍びない。


「ただいま」

「おかえり恵一、病院はどうだった?」

「今のところ問題ないよ」

「そう、良かったわね」


 嘘を吐いてないか。そんな複雑な表情を見せる母親。困ったな、こっちも決して無理をしているわけじゃないからフォローのしようがない。


 午前中の受診という事もあり、昼食をご馳走になる。大好きなドライカレーだ。母親の作るドライカレーは、市販のカレールーを使ったものだが、アレンジが効いて癖になる味だった。


 食欲が満たされ、少しづつ眠気が襲う。リビングでうつらうつらとしていると、母親が心配そうに声を掛ける。


「大丈夫なの?」

「少し眠くなっただけだよ」

「そう、久しぶりに自分の部屋で寝る? お布団敷くから」

「ありがとう、そうするよ」


 2階にある自室に向かう母親。用意が出来たと呼び出され、約4年ぶり自室へと入った。部屋は綺麗に整えられ、常に手入れされていたのが一目でわかった。

 仰向けにベッドに寝ころび、両手を頭の後ろへやる。見慣れた天井だ。よく見ると電気を消すと光る、星型の蓄光式のシールがいまだに貼られている。

 これを貼ったのも小学校の時だったな。当時は天の川をイメージして、細かく貼っていたが、途中で面倒くさくなり止めてしまったことを思い出した。


 懐かしさを覚えながらも、眠気も限界だ。一眠りしよう。背伸びをしながら大きなあくびをして、ゆっくりと目を閉じる。


 排水溝に流れる水のように意識が吸い込まれる。細くて狭まい、管のような中を、ただひたすら滑り落ちていくようだった――



 気がつくと実家へと向かう道を歩いていた。辺りは既に暗く、見上げると欠けた月と星が輝きを放っている。

 しかし、やけに目線が低い。まるで子供に戻ったような感覚だ。そして懐かしい。


 この道は通っていた小学校へ続く一本道だ。少し歩くと右側に女子校のグラウンドがあり、左側にも自治会が管理している小さなグラウンドがあるはず……。


 いや、今はもう家が建っているか。


 そう思っていたが、視界に入ってきたのは、四方をネットで囲んだグラウンドと、それを照らすナイター灯だ。


 おかしいな。中学になる頃には、住宅の予定地になっていたはず。思考を落ち着かせる暇もなく、混乱に拍車をかける出来事が続く。


「いくよ! あ、ごめん!」


 グラウンドから、さらに懐かしい声が聞こえてきた。脳裏に忘れもしない記憶が甦る。


 声の主は……壬生紗季みぶさきだ。小学5、6年の時、同じクラスで顔は知っていたが、親しく話すような関係ではなかった。

 そういえば次の日、このグラウンドで壬生さんを見たよと話し掛けたのが最初だったな。


 と、いうことは……小学校の頃の……夢か?


 少し立ち止まり、壬生さんの姿を確認する。左手にグローブを着け、右手にボールを持ち、キャッチボールをしていた。

 たしか壬生さんは、小学校の部活動でソフトボール部に入っていたはず。格好が普段着ということは、あの日、自主練をしてたんだな。


 ここで予期せぬ出来事がさらに起きた。


「あれー! 氷川くんだよね!?」


 そう言って駆け寄る壬生さんを見て、言葉が出なかった。記憶ではこの時、壬生さんの姿を通りすがりに見たただけで、会話など交わしていないからだ。


「こんな時間に何してるの?」

「あ、いや……」

「やばい、私の大声聞いてた? 恥ずかしいなぁ」

「そ、そんなことない。好きな声だった」

「えっと、絶対嘘でしょ?!」

「いや、ほんとほんと! 好きな声」


 少し俯く壬生さん。でも嘘じゃない。当時も今も変わらない率直な気持ちだった。


「紗季ー! 続き続きー!」

「あ、うん! いま行くー! 氷川くん、また学校でね?」


 我に返ったように走り出す壬生さん。そのうしろ姿を見送りながら視界は光に包まれた――



 やっぱり夢……か。体を起こし大きな深呼吸と共に両手を前に伸ばす。こんな夢を見た時は、決まってノスタルジックな気持ちになる。


 壬生さんはどうしてるだろう……。ベッドから見える窓の外からは、まだ強い日差しが差し込んでいた――



 すっきりと片付けられた部屋。周りには荷物を詰めた段ボールが重ねられている。


 時刻は午後11半時を回ったところだ。今夜は特に蒸し暑い。これも明日の午後から降りだす雨の予報の影響だろう――



 3日前に見た夢の余韻がそうさせたのか、壬生さんへの想いを綴ったノートを手に取り開いた。


 読み返していると、ふっと思い立つことがあった。ペンを探して手に持つと、初めて出会った日のことが書いてある下の行に、夢で見た出来事を書き足した。


 一瞬過去を変えた気分に陥ったが、すぐに我に返る。何を馬鹿げたことを……。


 時計に目をやると、時刻は午前0時を過ぎていた。ふぅ……とため息を吐き、目を閉じていれば自然と眠れるだろう。


 そう思いながら点けた電気を消し、ベッドに仰向けに寝転ぶと、スッと目を閉じた。


 しばらくして、身に覚えのある感覚に陥る。細く狭い管の中を滑り落ちる、あの感覚だ――



 心を掻き立てる音楽と、僅かに聞こえるざわめきの中で目を開いた。


 前に見た夢と同じ目線、場所は職員室前の渡り廊下。体操着を着て、右手には赤色の鉢巻きが握られている。


 この場面は、小学校最後の運動会。いま行われている騎馬戦が終われば、運動会の最後を飾る目玉競技、徒競走リレーだ。


 クラス毎に行われた身体測定。その中で選ばれた50M走の上位5名が繰り広げる熱き戦い。それが徒競走リレーだ。


 ……そんな大袈裟なものでもないか。


 この時は緊張して、職員トイレに向かう途中だったな。用を済ませ、鏡の前に立ち、額に鉢巻きを巻く。


 どこか映画のワンシーンを彷彿とさせるシチュエーションだ。


 トイレを出て、運動場へと続く廊下を歩いていると、突然声を掛けられた。


「居た! ヒクソン!」


 ヒクソン?!……あぁ、そうか。そういえば、小学校から中学校までのあだ名はヒクソンだったな。


 もちろん、声の主は壬生さんだ。


「いよいよリレーだね、絶対応援するからね!」

「お願いするよ、力が出ると思うから」

「うん! あ、鉢巻きの結び目ずれてるよ? 直してあげる」


 壬生さは後ろへ回り、後頭部にある結び目を一度解き、結び直してくれた。


「これでいいかな、きつくない?」

「大丈夫、ありがとう」

「うん……頑張ってね!」


 壬生さんは、運動場とは反対方向へ走り出す。その後ろ姿を見つめながら、また記憶と違う出来事が起こっていた。


 この時、壬生さんには会っていない――



 火薬の弾けた音が鳴る。各クラスの代表5人が一斉に飛び出し、大きな歓声の中リレーは始まった。


 1人目、2人目とバトンが渡り、その間に赤いたすきを先生から手渡される。この時は最終走者、つまりアンカーだった。

 3人目まで4位だったが、4人目で最下位に下がったはず。そして当時は運動靴を履いて走り、途中で転けてしまったことを思い出した。


 急いで靴と靴下を脱ぎ捨てる。


 4人目が最終コーナーに差し掛かり、4位との差はほんの僅かだ。鼓動を速めながらスタート位置に立ち、クラスメイトを待つ。


「ヒクソン、頑張れー!!」


 壬生さんの声援がはっきりと聞こえた。俄然、気合いが入る。助走をつけ、バトンを受けとると一気にトップギアに入れる。


 まず4位の奴を抜く。ぐんぐんと差を詰め、最終コーナー手前で3位の奴も抜いた。『わっ!!』と歓声が上がる。最後の直線。ゴール手前で2位の奴を抜いて走り抜けた。


 さすがに1位との差があり過ぎたか。しかし、結果は現実とは違う形になった。

 両手を膝について息を切らせていると、駆け寄る壬生さんの姿が見える。


 それを最後に、また視界は光に包まれた――



 窓の外からどんよりとした鈍い光が差し込む。夢だとわかっていても、都合のいい展開だったとしても、心の高ぶりに嘘は吐けなかった。


 夢の中の出来事が現実に反映されたら。そうすれば、何か変わったのか――

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