第2話……古びたノート

 朝、目が覚めると、腰の上辺りに違和感があることに気づいた。


 職業柄、腰痛に悩まされることも多く、いつものことだろうと高を括っていたが、しばらくして、腰痛は背中と腰の間辺りまで広がり、痛みは鈍痛へと変わる。それに、圧迫感もあった。


 きっと慢性の腰痛だろう。特に気にも止めず、忙しい日々を過ごしていた。


 そして、毎年4月に行われる会社の健康診断を受け、5月上旬に結果が届いた。

 用紙の全体を眺めていると、際立つ赤字を見つける。


 ――要精密検査


 こんなことは初めてだった。検査項目を見ると、どうやら腎臓に異常があるみたいだ。しかし、急な休みは会社に迷惑が掛かる。今の仕事が落ち着いたら病院へ行こう。

 そう思いながら1ヶ月ほどが経ち、継続していた作業にも余裕が出来た。上司に精密検査を受けるため休みが欲しいと伝えると、すんなりと通る。


「もっと早くに言え、自分の身体のことだろう」

「すみません」

「大事があっても、俺にしてやれることは無いんだからな」

「はい」


 翌朝、PCでかかりつけの病院に予約を入れる。先生にはもう3年ほどお世話になっていた。


「久しぶりだね、氷川君。かなり痩せたね、仕事が忙しいの?」

「おかげさまで」

「そうか。しかし、検査表を見たけど、もっと早く来ないとダメだよ」

「すみません」

「早速だけどオシッコ取ってきて。そのあとエコー撮るから」

「はい」


 検査容器を看護師さんに渡すと、ベッドに誘導されうつ伏せに寝転がる。シャツを捲り上げ、ジェルのような物を腰から背中の下辺りに塗り伸ばす。

 プローブと呼ばれるコンビニのバーコードを読み取るスキャナみたいな機械を両手に持ち、ぐりぐりと押し当てながら滑らせる。


「良くないね」

「そうなんですか?」


 いつもと違う雰囲気で話しかける先生の声を聞いて、不安が膨れ上がる。何か重大な病気にでもなったのか。シャツを整えベッドから降りると、元の椅子へと座る。


 しばらくして、看護師さんが一枚のプリントを持って戻って来た。尿の検査結果も出たようだ。先生はプリントを眺め、目線を合わせると重く口を開いた。


「……氷川君、腎がんの疑いがある」


 ――言葉が出なかった。


「紹介状を書くから、このまますぐにその病院に行ってほしい」


 ――これは現実なのか?



 紹介された病院では、エコー検査、CT、MRI、生検、骨シンチグラフィ、PET検査、血液検査、腫瘍マーカーと、8項目もの検査を受けた。心の整理も付かないまま、検査結果を待つ。その間、希望と絶望を乗せた天秤は脳内で激しく上下していた。


 どちらにしても、一週間後の結果で全てがわかる――



「氷川さん、氷川恵一ひかわけいいちさん、6番の扉へお入りください」


 診察室で医師から説明を受ける。天秤は地に音を立てて絶望へと傾いた。腎がんによる病状は深刻で、残された余命が少ないことを告げられたからだ。



 後日、両親を踏まえ治療方針の話し合いをした。どれもが副作用を伴うリスクを負っている。

 余命宣告を受けてからも治る事例が多数あるとした上で、医師は病魔と闘うか、緩和ケアを受け、可能な限り日常生活に近い形で穏やかな余生を過ごすか。


 どちらにしても貴方の意思を尊重すると言った。


 数日の間、家族で繰り返し話し合う。

 結果、病を治すことを目標とせず、病状の進行により伴う体の痛み、精神的苦痛に対する専門的な緩和ケアを受けることを選択した――



「母さん、恵一を頼んだぞ」

「はい、お父さん」


 帰りの車内の中は当然のように重苦しい空気に包まれていた。

 息子が自殺をするとでも思ったのか、心配だからと母親がマンションに一晩泊まることになった。

 室内の明かりを点けると、母親は驚いた顔をする。

 男の一人暮らしにしては、思いの外整っていたからだろう。


「彼女でも出来たの?」

「まさか」

「そうよね、まさかね」


 なぜ納得する。


 母親はキッチンに向かい、少し残っていた皿や鍋の洗い物に手をつける。本当によく気が利く母親だ。そんな姿を、ずっと見てきたんだな。


 ふっと子供だった頃の自分が甦り、震える唇をぐっと抑え込んだ。


 面と向かって言えなくてごめん。でも、両親の元に生まれて本当に良かったと思う。



 ありがとう――



 2日後、この日は会社へ赴き引継ぎの準備を進める。既に現場での作業は終えている。あとは、成果表を作成するための書類整理が主な引継ぎ内容だ。

 引継ぎが終わると、今度は社長に改めて挨拶をしに行く。高校を卒業してからの5年間、我が子の様に大切にしてくれた人でもある。


「本当に言わなくていいのか?」


 余命宣告を受けたとほかの従業員に言わないで欲しい。そう社長にお願いをした。


「はい。どう対処すればいいか、わからなくて」

「そうか。しかしなぁ……」


 社長の声は震えている。


「社長、泣いても良いですよ?」

「泣くか! ……全く、お前らしいな」


 最後に力強く肩を掴まれた。その手のひらは小刻みに震え、悔しさを滲ませていた――



 それから1週間が過ぎた。時刻は午前8時。朝食を買いに近くのコンビニに足を運び、菓子パンとカフェオレを買ってマンションへと戻る。

 初給料で買った思入れのあるソファーに座り、ぼんやりとテレビを観ながら菓子パンを噛っていると、スマホに2つ下の妹、利絵りえから連絡が入った。


「お兄ちゃん、起きてる? 10時過ぎに着くからね」

「わかった。気をつけてな?」

「うん」


 少し早口なところが妹らしい。怒ると言葉数で相手をねじ伏せるようなタイプだ。それさえなければ、今頃いい男と家庭を築いているかも知れないのに……。

 自慢じゃないが、利絵はかなりの美人だ。ゴールデンタイムのドラマに出演している女性俳優にも引けを取らないと思っている。


 顔を洗い、髭を剃り、髪を整える。妹とはいえ女性だ。身だしなみには気を遣わないと――



「お邪魔します」

「いらっしゃい、今日も暑いな。冷たいお茶れるから座ってろ」


 羽織っていた薄手のジャケットを雑に脱ぎ捨て、暑い暑いと首元を手で仰ぎながら、どかっとソファーに座る。

 友達感覚かよ。と愚痴を吐きながら来客用に用意していたマグカップに冷たいお茶を注ぎ込んだ。


「ほら」

「ありがとう」


 今日、利絵が訪れたのは理由がある。既に引っ越し業者から段ボールが届いており、予定日までに日常生活で不必要な物を先に片付けたいと思ったからだ。

 余命宣告を受けたと話した時は、黙って家を飛び出し心配したが、今はすっかり気持ちを切り替えている。きっと母親の血を色濃く受け継いでいるのだろう。


「利絵、そろそろ始めようか」

「オーケー、お兄ちゃん」


 重い腰を上げて作業に取り掛かる事にした――


「お兄ちゃん、これ何?」


 クローゼットの中を整理していた利絵は、にやにやと微笑みながら、一冊のリングノートを扇ぐように見せてきた。


「なんだよ、気持ち悪いな」

壬生紗季みぶさきって誰かなぁ?」


 勝ち誇ったような言葉遣いで、ノートを目の前に置き、何か聞きたげな顔をする。

 水色の表紙は、より薄く色焼けして、中のページは端の部分が茶色く変色している、なんとも年期の入ったノートだった。


「ねぇ、壬生紗季って誰?」


 動揺したが、悟られるのも癪だ。冷静を装い、落ち着いて話すように心掛ける。


「小学校の頃に好きだった女の子だよ」

「もしかして、初恋の人?」

「そうなるかな」

「中身、見ていい?」

「ちょっと待て」


 素早く手に取り、中身を確認する。そこには、壬生紗季への想いがたった4ページだけ書き記しるされていた。


 こんな古いノート、何で大事に持ってたんだ?


「お兄ちゃん、早く見せてよ」

「わかった、わかった。笑うなよ?」

「内容によるかなぁ」


 相変わらず勝ち誇ったような顔で、一度視線を合わすと、ページを開き、中身を読みだした。そんな利絵の姿を見て、思い出したことがあった。


 そういえば、利絵の声は壬生さんの声に良く似てると、当時は思ってたな。


 しばらくして、利絵はノートを閉じ不満そうに呟いた。


「短くない? 初恋の人に対して、こんな短い想いしかなかったの?」

「子供の頃なんて、そんなもんだろ?」


 期待していた内容とは、まるで違ったようだ。


「ほら、続けるぞ!」

「はーい……」


 さっきまでのテンションはどこへいったのか。利絵は黙々と作業に取り掛かっていた。


 ノートに書いてある内容とは裏腹に、壬生さんへの想いは強く、小学5年生から高校2年生までの7年間、ずっと好きだった壮大な片想いの歴史がある。


 その間の『たられば』を考えれば、後悔には切りが無い。


 午後6時を過ぎた頃、利絵をファミレスへと誘い、お礼に夕食を奢る。食事を終え見送ったあと、陽の長くなった、夏場独特の夕闇を眺めながら家路を辿った。

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