4-1 契約
月曜日の昼休み、わたしはスマートフォンの画面を睨みつけていた。
画面にはメールソフトが立ち上がっていて、柳島将吾さん宛の問い合わせメールが開いている。
自己紹介から事の経緯を大まかに綴り、将吾さんの兄である将也さんから依頼されたコーラスが、ゲーム主題歌に採用されたのを知らなかったこと。
契約書は交わさなかったけれどもその場合、クレジットは掲載されるのか、契約書は改めて必要になるのか、謝礼はあるのか、などが書かれている。
後は送信ボタンを押すだけなのに、どうにも勇気が出ない。
「高瀬さん、なにしてんの」
「町谷くん」
突然後ろから声をかけられ、慌ててスマートフォンをしまった。声をかけてきたのは同じ部署の同期、町谷くんだった。同期といってもわたしの二歳上だ。
「スマホ、睨みつけてなかった?」
「ううん、何でもないの。ぼーっとしてただけ」
「部長がさ、午後イチで資料持ってきてくれって」
「はい、了解」
「俺も一緒に行くから声かけて」
「一人で大丈夫だよ」
「60ページの資料を20人分だよ、一人じゃ無理でしょ。今どき資料をプリントしてコピー配布なんてマジないけど、部長、紙信仰だからね」
「じゃあ、お願いします。ありがとう」
町谷くんは入社時から何かと気にかけてくれて、さりげないサポートをしてくれる。一見優男だけれども、案外頼りがいのある人だ。
会議で配布する資料のコピーを取り、自分の業務に集中する。その日の午後はことのほか忙しく、わたしはメールのことをすっかり忘れていた。
帰りの電車でふとメールのことを思い出し、慌ててスマートフォンを出す。メールアプリを立ち上げて確認すると、送っていないはずのメールは下書きフォルダにはなく、送信済フォルダのほうにあった。
町谷くんに話しかけられて慌ててスマートフォンをしまったときに、誤って送信ボタンを押してしまったのかもしれない。
メール、読まれてしまっただろうか。もしも読まれて電話がかかってきたら、と思うと、いてもたってもいられなくなった。
怒らせるようなことを書いたつもりはないけれども、お兄さんに確認を取られて、食い違いがあったらどうしようと焦る。
普通ならば、自分の兄の言い分を信じるだろう。あのとき、謝礼はいらないと言ってしまったのに、メールではそれについて触れてしまっているし。
謝礼について書いたのは、わたしの優柔不断で流されやすい性格を心配した真理恵が「絶対に書いておいたほうがいいから」と強く言ってきたからだ。
一度いらないと言ったものをまた問い合わせされたら、どういうことかと混乱するだろう。せめて柳島将吾さんのメールアドレスを入れていなければ、不注意で送ってしまうこともなかったのに。
地下鉄が次の駅に着いた。降りる人の邪魔にならないようにと、一旦ホームに降りる。次に乗る人たちと一緒に再び電車に乗り込もうとしたときに、手に持っているスマートフォンが鳴った。
反射的にホームに降りて、表示された番号を見る。電話帳に登録していない、東京都下の電話番号だった。
躊躇(ためら)った。呼び出し音は続いている。周りの人の目が気になる。思い切って電話に出た。
「もしもし」
「もしもし、高瀬さんですか。柳島ですが今、お時間大丈夫ですか」
「はい、大丈夫です」
「高瀬さん、今日の昼過ぎに問い合わせのメール下さいましたよね。ちょっとオレ、状況読めてないんで詳しく教えていただきたいんですが」
「あ、はい」
「今、どこですか。良ければオレの社の方まで来ていただけると助かるんですが」
柳島さんから電話がかかってきたことに動揺し、しどろもどろになった。なにをしゃべっているのかわからないまま、なんとか今いる場所を伝えた。
「そこからだったらそんなにかからないと思うんで、来ていただいてもいいですか。着いたら内線で呼んでください。警備のものには言っておきますので」
「わかりました」
柳島さんに教わった会社の住所と内線番号をメモし、地図アプリに住所を入力して行き方を検索した。帰りの電車とは逆の方向だ。
電車に揺られながら、一人で行かなければならないことに急激に心細さを感じる。真理恵に付いてきてほしかったけれども、彼女もこの時間はまだ仕事をしているだろう。
言いたいことがちゃんと伝えられるか自信がない。でも、柳島さんもせっかく時間を作ってくださったんだし、と帰りたい気持ちでいっぱいの自分を、精一杯鼓舞した。
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