4-2 契約
柳島さんの会社は赤坂にあった。受付は閉まっていたので警備室に回り、要件と名前を告げる。警備の人にここで待つように、と言われて所在なく待つ。
緊張のあまり手のひらが汗でじんわりと湿っている。ハンドタオルを取り出し、オーディションで初めて柳島さんを見たときも、ハンドタオルを握りしめていたと思い出す。
ふと視線を感じて目を上げると、警備室入り口に柳島さんが立っていた。わたしが見たのを認めたからか、ゆっくりと近づいてくる。
「高瀬七海さんですよね。柳島将吾です」
差し出された手に一瞬考え、おずおずと右手を出した。その手をぐっと握られたときのひやりとした感触を感じた瞬間に、手は離れた。
「ちょっと休憩したいんで、外行きませんか」
「は、はい」
わたしはおどおどと返事をした。緊張しすぎていて、頭が回らない。
業界で有名なプロデューサー、柳島将吾。近寄ることも憚られる相手が今、わたしの少し先を歩いている。
「ここです」
柳島さんが連れてきてくれたのは、ビルの地下一階にある、レトロな感じの喫茶店だった。
店内には微かな音量でクラシックがかかっていて、静かで落ち着いた雰囲気だ。
「腹減ってますか」
「あ……はい、そうですね」
「飯食いながらする話でもないと思うんで、よければ終わってからどこかで飯、食いませんか」
「え? あ、はい。いえ、あの」
食事に誘われたのは社交辞令だろうか。どう返事をしたらよいのかわからずしどろもどろなわたしを見て、柳島さんは表情を綻ばせた。なにか、笑わせるような言動、表情をしてしまっただろうか。わたしは恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じた。
注文を取りにきた店員に、柳島さんはアイスコーヒーを頼んだ。「高瀬さんは?」と聞かれ、小さな声で「同じのを」答える。
「さて」
柳島さんは、鞄からノートパソコンとスマートフォンを取り出した。
「何かあったときのために、録音させてください」
「はい、どうぞ」
快諾しつつも、やはり問い合わせなどしなければ良かった、と今更ながら後悔する。
「オレ、ご存知かとは思いますが双子の兄がいまして、ゲームで使ったあの曲は兄のバンドに依頼したんですよね。制作に関しては全部兄に任せてたんで、高瀬さんのメールの件は初耳でした。一応兄にも確認したんですが、兄は高瀬さんから「謝礼はいらない」って言われたそうなんですが、それは本当ですか」
「はい」
「けど、メールでは謝礼について聞いてますよね」
「あ、あの、それは」
やはりそこを書くべきではなかった。どう答えようか思案していると、柳島さんのスマートフォンが光り、かすかに振動した。
「失礼」
柳島さんは電話に出ると二言三言話して、切った。
「兄貴、もうじき着くそうです。三人で話した方が話が早いと思ったんで、兄貴も呼びました」
え、と声に出そうになって、慌ててきゅっと口をつぐむ。あの、
帰りたい……頭の中は、それだけしかなかった。
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